2008年5月1日木曜日

大学リテラシー

近時、大学職員のあるべき姿に関する認識が深まり、様々な取り組みが積極的に試みられるようになりました。

最近では(既にご案内の方もおられると思いますが)、IDE・現代の高等教育という雑誌が「これからの大学職員」という特集を組んでいます。(No499 2008年4月号)

その巻頭にある前文には次のような記述があります。

大学における職員の重要性と存在感が高まっています。わが国の大学ではこれまで、教学はいうまでもなく経営についても、教員中心の体制が支配的でした。多くの大学で執行部は教員中心に組織され、職員は従属的な位置に置かれてきました。しかし、生き残りと発展をかけた大学間の競争が厳しさを増すなか、事態は大きく変わろうとしています。大学はいまや知の共同体であるとともに、知の経営体でなければなりません。職員は教員のイコール・パートナーたることを求められ、職員の能力と努力が大学法人の発展を左右する時代がやってきたといってもよいでしょう。
大学職員の能力開発に、私立大学は早くから熱心でしたが、これに国公立大学も加わり、職員の意識変革と能力向上をはかる、さまざまな試みと努力が展開されつつあります。

このように新しい大学職員像の構築を目指した大きな動きが展開されています。

今日は、寺崎昌男氏(立教学院本部調査役・大学教育学会会長)が「大学リテラシー」というテーマで、日本私立大学協会アルカディア学報に寄稿された論文をご紹介します。この論文は3部作になっており、原文をご覧になりたい方は以下のURLをご参照ください。


大学人 特に職員の基礎知識を考える

「大学リテラシー」という言葉を発案してから4年ほどになる。立教大学の「SDシンポジウム」で発題したとき、「事務員をやめよう、職員になろう」と論じた。

「事務員とは、例えば来年度の予算案を作るとき『今年度を踏襲する費目はこれ、来年度増額する費目はあれ』というように『上の方』の意向も聞きながら考えて、正確に準備できる人のことです。でも職員は違います。『この費目は5年間変わっていない。けれども学園の将来計画からいえば、これこれこういう費目を新設して将来計画の実現をサポートすべきです』と提案できる人です」と述べた。

その「職員」になるのに必要なのが「大学リテラシー」だと思う、と論じたのだった。区分論には異論があるかもしれない。また「私は職員以上の専門職をめざしている」という人もいるだろう。だがここでは、「効率的な日常業務処理だけに専念するのでなく、大学の全体を視野に入れ、将来の方向についても積極的に提案できる人」ということにしておこう。この連載では、こうした現職職員の方々を頭に置いて記すことにする。

その後、大学職員論は深化し、関連文献も大幅に増えた。論者の中には「大学リテラシー」という言葉を使われる方も出てきた。また大学に関する知識や見識の担い手を職員だけに限らず、教員も含めた「大学人」としてとらえ、認識を共有し「協働」することが大切だと説く議論も見られるようになった。それにしても「大学リテラシー」とはいったい何か。言い出した手前、少なくとも分節しておく義務がある。体験や見聞をもとに、
1) 大学という組織・制度への知識と認識
2) 自校への認識とアイデンティティの確認と共有
3) 大学・高等教育政策への認識と洞察
の3つに分け、まず 1) について考えてみよう。

職員の方たちは、大学そのものについての知識を得たいと強く望んでおられる。これを知ったのは、2000年度に桜美林大学大学院の大学アドミニストレーション専攻修士課程のカリキュラムを同僚とともに立案し、翌01年以降、今は通信生も加わった在校生とつき合いを重ねてからである。科目を企画した際、次のように考えていた。

-なるべく職務の実際に即した科目を用意する必要がある。「学生募集戦略」というのはどうだろう。「大学財政論」も必要だ。「キャリア・エデュケーション」「学生カウンセリング」なども大切ではないか-

要するに、実務のための「ドリル」を中心に置いた学習領域が基本的に大事だと考えてカリキュラムを組んだ。「大学論」「大学教育史」「比較大学制度論」といった「アカデミック」な科目は、むしろ付け足しのような意識で考えていたように思う。

ところがいざ開講してみると、受講生の興味・関心は、必ずしも実際的で職務即応的な科目だけに向いているのではなかった。受講生たちは、実務離れした一見アカデミックな分野の科目にも、実務即応の科目にも、ほとんど同等の興味・関心を持っておられることが分かってきた。「高等教育制度比較研究」や「現代社会と大学問題」といった科目の評判は高かった。

さらにつき合いを深めるにつれ、職員の方たちが深く求めているのは何かが分かってきた。「大学とはいったい何か」「他の組織とはどこが違い、何が特質なのか」という問題である。一つの社会的組織である大学は、同じ社会的組織である会社、官庁、その他の組織とどこが共通し、どこが違うか。その違いはいつからなぜ始まったか。それに対する考え方(=大学論)にはどのような系譜や類型があるか。こうしたテーマを、歴史的背景とともに知りたい、理解してみたい、と思っておられる。

筆者が担当したのは「大学教育史・高等教育史」という「虚学」といわれそうな科目だったが、やはり関心は高かった。大正期の大学教育改革を講義したとする。「当時最も求められていたのは、大学を『自学自習』の機関にするという改革だった」というと「昔の人も同じ悩みを持っていたのですねえ」という反応が即座に返ってくる。また「科目選択制度を実現するために単位制度が導入された」という経過を詳しく話すと「単位制度は戦後に入ってきたのではないのですか」という驚く人も多い。100年近くも前の大学史上の出来事であっても、今自分が当面している、あるいは職場の周辺で起きている問題やトピックと重ね合わせて聞き、ピンと感じ取り、疑問や関心をそそられるらしいのである。筆者は「縁遠い昔のことでも正確に教えればついてきてくれる」と自信を持つことができた。

ちなみに筆者の大学教育史は「大学改革の歴史」を中心とするものだった。幕末維新期から帝国大学成立期をはさんで大正期、そして戦後改革期、現代、と言うように続く構成を取った。このようなテーマで通史を通すことは、専門家がいないとむずかしいかもしれない。しかし多くの大学には教職課程があり、教育学や教育史の教員がおられる。そのような方たちなら、担当して授業してくださるかも知れない。

「大学とはいかなる組織か」という領域に迫るには3つのアプローチがある。1つは社会学的な組織論のアプローチ、2つは歴史学的なアプローチ、第3に両者をつなぐのが哲学的アプローチである。「大学研究」には、これらを精密に活用して行かねばならないし、その先端的な成果が大学院で教授されねばならない。ともすれば従来型のアカデミックな大学院にだけ当てはまりそうな領域だが、「現職の人たちだから」といって、これらのアプローチの成果を教授することをためらってはならない。むしろ本質的に関心をもっている分野なのだ、ということが分かった。

さらに、現職の人たちに意外な関心をもって迎えられたのは、大学の内部で機能しているさまざまなシステムの特徴とそれらの成り立ちである。

例えば、
1) 単位制度や科目選択制度のような教育システムの導入の経過と問題
2) 学位制度や大学院制度、学部制度や講座制のような、教学面を決める諸制度の特質と歴史
3) 理事会・教授会・評議員会・学校法人等の大学運営機関とそれら相互の権限関係、ならびにその変遷
4) 教員・学生・職員・校友といった人的組織の成り立ちおよび相互の関係とその法的根拠
5) 大学を取り巻く法制度、すなわち学校教育法、私立学校法、大学設置基準や大学院設置基準、学位規則などの法令の成立と展開
といったテーマもある。実はこれらの法令自体を読んでいる人さえ多くないこと、それらの成立過程を知っている人もほとんどいないことが分かった。

考えてみれば、そうしたシステムや法制度は、職員の連日の職務実践に深い関係を及ぼす。学内で交わされる会話の中にもたびたび登場する術語である。ところがその意味は曖昧だし、理事会や評議会が身勝手に使っても文句を言えないことが多い。「職務のベースとしてぜひ知っておきたいと思っていた」という感想にたびたび出会った。

こうした一連の認識を形成し、その基礎として必要な知識を身につけておくこと。これを「大学リテラシー」の第1項とすることを、まず提案したい。

自校への認識とアイデンティティーの確認・共有

今ほど個別大学の「建学の精神」や「個性」が求められる時代はない。大学のPRのためにはもちろんのこと、さまざまなプロジェクト評価の機会や申請業務の際にも、必ずといってよいほど問われる。だが課題は形式的に言葉を並べることではなく、建学の理念・精神や個性が実質的に働き、また構成員に共有されていることである。「大学リテラシー」の第2は、「勤務する自校への認識を高め、自校のアイデンティティーを認識し、その認識を相互に確認・共有していくこと」である。

いうまでもなく、職員の初任者研修等の一部には「建学の精神を学ぶ」といった科目がしばしば設けられてきた。また新任教員に対して「本校への案内」といった催しを開き、学長名で全員出席を求める大学も増えてきた。FD実施が義務化する来年度以降、こうした動きはさらに広がると思われる。その確認・共有作業を学生諸君も含めて実行するには、どのような方策があるか。さらに実施作業に教職員はどのように参加できるか。これについて1つのアイデアを記してみよう。それは「自校教育」の実施という試みである。

筆者がここ数年唱導してきたのは、簡単明瞭な提言である。

-「学生たちは、自分が選んで入って来たはずの大学について、ほとんど何も知らない。類似の性格を持つ他大学とどこが共通しどこが違うかについても、無知に近い。そこへ切り込む授業科目を設定し、授業活動を行うことが大切ではあるまいか。それを通じて学生たちは在籍する大学について正確な知識を得ることができる。それだけでなく、自分とは何かという自己認識をつくりあげるのにも、大きな効果がある」-

発案したのは、1997年に立教大学で開講していた全学共通カリキュラム科目の「大学論を読む」のなかで「立教大学を考える」という2、3時間の講義を試みたことだった。同じころ、『百年史』を刊行し始めた明治大学でも、同様の試みをされていたというし、2000年代に入る前後から広がりはじめ、マスコミの一部でもニュースになった。

2005年12月、立教大学の全学共通カリキュラム運営センターがシンポジウム「自校教育の意義とその可能性をさぐる」を開催した。全国に呼びかけたのも効果があったのか、たくさんの参加者が集まった。そのころ、本紙が筆者の講演記録を連載してくださったのもよかったかもしれない(「自校教育という実践―その試みと意義を考える」拙著『大学は歴史の思想で変わる』、2007年、東信堂刊、所収)。フロアには25校以上の東西の大学からの教職員が集まり、主催者としては大いに励みになった。

報告されたのは、九州大学、神戸大学、京都大学、立命館大学、明治大学、立教大学の6大学だった。必修科目として全学部が輪番で講義する、教養科目の1つとして選択科目として置く、全学教育機構が主催する、資料センターが担当する等々、色々な形態や方式で自校教育が行われていることが分かった。

第1に、どの大学でもおおむね学生たちの参加は熱心で、大学側も意義を高く認められていること、第2に、その大学の歴史的背景についての内容を盛り込むことが大いに効果があること、などが共通して報告された(立教大学全学共通カリキュラム運営センター機関誌『大学教育研究フォーラム』11号、2006年春号参照)。自校教育の試みは、まさに今求められてやまない「建学の精神」の確認、大学アイデンティティーの共有に大きな威力を発揮する方法だ、ということが明らかになった。

個性を知り校風にあこがれて大学を選ぶ学生は一握りである。難関校を受ける者は難易度を基本にし、専門学部学科を選定し、あるいはブランドを選んで進学校を決める。推薦枠やAO入試枠の大きい「全入型」大学の場合、確かな理由のもとに大学を選ぶ者はもっと少ないであろう。偶然に入学し、たまたま教室に座っている。要するに日本の大学は圧倒的多数の不本意入学者で満ちている。シンポジウムに多数の大学関係者が集まられたのも、こういう事情への憂慮が共通にあったからではないかと思われる。

ところで、「勤務大学を知る」ということは、職員の方々にとっても必須のリテラシーではないだろうか。

誤解であることを祈るが、職員の方々も、それぞれの大学を職場として選ばれた際、実は学生たちと大差ない状況にあったのではないだろうか。「この大学はいかなるところか?」それを知悉して入職される方がすべてとは言えない。偶然の流れのなかで「たまたまの職員」をされている場合も少なくあるまい。その危うさを救うのは、大学アイデンティティーの認識と共有という作業である。例えば「○○大学を考える」といった自校教育科目を複数の教員とともに企画してみるのもよい。内容構成のアイデアを出したり、出講者に交渉したりするのもよい。そうした協働作業のなかで得るものは少なくないはずである。

さらに、「自校教育」が職員の大学リテラシー形成にもうひとつの効果を持つのは、授業に職員が参加する機会を設定できるからである。大学の学生援助の努力、相談活動の特色などを語るコマがあれば学生部の職員に、キャリア支援の特色を語る場合はキャリア・センターの職員に、蔵書の特色や図書利用のガイダンス等は司書職員に、それぞれ教壇にのぼってもらうことができる。

また、私学では同窓の先輩職員が後輩となる学生たちに「わが職場」について語ることもできる。学生たちの自校理解にとって大きな刺激となるし、質疑を通じて情報も交流できる。また、教員が抱えている「ティーチングの苦労」を身をもって理解する機会になるだろう。

加えて強調しておきたいことがある。それは、自校教育が効果を発揮するには、正確な大学史の情報が不可欠だということである。言葉を換えると、近年特に本格的になってきた沿革史編纂事業の成果や大学アーカイブス(文書館)の整備と活用が、授業の基礎にとって不可欠である。前述のシンポジウムでも、各大学の授業の企画実施の中心は、色々な学部で近現代史や教育史を専攻され、沿革史を編纂されている教員の方々だった。その編纂作業やアーカイブス運営を担っている職員の方々も必ずおられるはずだが、そうしたメンバーも、期待すべき自校教育協力者となる。

このほか、宗教系の大学では教団や宗門系の教職員や聖職者・宗教家たち、また現に社会的に活躍している卒業生、さらに一部の国立大学法人が先駆的に試みている名誉教授たちなどがある。実に多様なメンバーに分担してもらうことができ、また多くの場合喜んで協力してもらえるのも、自校教育である。

つまり、これまでバラバラに分散していた大学内外の多くの力を総合し、大学コミュニティーの姿を再構築することができ、同時にまた職員のための新しいリテラシー形成の場になる。「自校教育」という企画・実践は、大学の、大学らしい活性化を期待できる試みと考えられるのである。

大学・高等教育政策への認識と洞察

職員は大学・高等教育政策の動きをよく知っていなければ勤まらない-。勤務の中でこのことに気付いた人は少なくないだろう。特に大学院の専攻新設や学部学科の新設、競争的資金(GP)の申請業務などにたずさわったことのある職員メンバーなら、骨身にしみて感じたことがあるはずである。

文部科学省や厚生労働省などへの度重なる書類・資料の提出と訂正、それに重なるヒアリング、大学に持ち帰って教員とともに行う協議、こういう経験の中でいやおうなく試されるのが、大学・高等教育政策の動向に対する知識と洞察である。突然ロー・スクールの申請業務を担当させられ、「大学院の審査とはいったいどういう専門性と根拠をもって行われるものなのか」と疑問を持ち、修士課程で、日本の大学院制度史を本格的に研究し始めた私学職員を知っている。教員に尋ねても疑問が絶えず、「研究課題が多すぎる」というのである。

ずいぶん昔のことだが、筆者が私学に勤務し始めたころ、教授会などで報告される行政当局と大学との交渉を聞いていて、「私学はずいぶん文部省に弱いのだな」と驚いていた。筆者のような国立大学出身の若い教員としては、私学は毅然として行政当局に対峙し、「窓口行政」など何のその、画一行政にしっかり対応するものと、素朴に思っていた。国立大学事務局は文部省と一体化しても仕方がない、だが私学は違うだろう、と一人決めしていたのである。だが、むしろ逆で、恐縮している様子に驚いた。何か大事なことがよくわかっていないのだ、と感じたことを思い出す。

もちろん、今では、規制緩和の時代とはいえ、許認可の獲得がいかに私学の死命を制するかも分かるようになった。「恐縮」にも理由がないわけではない。また逆に、大学が正当に要望していることが、実は行政当局自身も要望していることだ、といった「機微」も分かるようになってきた。だが当初は、ずいぶん疑問にも感じ、また「ふがいない」と思ったものである。

ところで、政策を見る、というのは実はかなり難しい作業である。

第1に、時間的スパンを広げて「観測」し続けなければならない。例えば評価についていうと、第三者機関による評価や認証評価機関による評価などについても、それらの発生・本質・特色等を知悉しておかなければ、対応しきれない。FDやSDといった新動向についても同様である。教員集団がこうしたことをよく知っている保証はない。

第2に、規制緩和動向の中で、大学・高等教育政策を担う主体が、実はかつてと比べものにならないほど複雑化し、多元化してきた。つまり、検討しておくべき資料そのものの範囲は文部科学省および審議会等が発出したウェブ情報や文書資料だけに限られない、という事態が起きている。

例えば、去る2007年9月に中央教育審議会大学分科会内の小委員会が発表した「学士課程教育の再構築に向けて(審議経過報告)」には、詳細な参考資料集が付けられている。そこには数々の統計資料と並んで、関連諸団体の大学意見が数多く収められている。団体名は、当の中教審や前身の大学審議会はもちろんのこと、厚生労働省、経済産業省、総務省科学技術総合会議、内閣府、日本労働研究機構、日本私立学校振興・共済事業団、財団法人大学基準協会、日本技術者教育認定機構、大学評価・学位授与機構、財団法人日本高等教育評価機構、日本経団連、経済同友会、OECD、さらには経済財政諮問会議、教育再生会議など、軽く十指に余る。現代の大学・高等教育政策をつかむには、こうした広がりをもって資料の収集と分析を行い、しかも続行していく必要がある。なかでも、大学審議会・中央教育審議会等の意見・答申については、過去10年間ぐらいにさかのぼって論点を整理し、変化があれば確かめておく必要があろう。

第3に、断っておきたいことがある。資料を収集し整理するといっても、目的は「国策の上意下達」を支えるためではない、という点である。政策の現在と今後を見通し、場合によってはそれを「利用」し、時には反論もしなければならない。大学の自立性と主体性を維持するためである。そのためには予測や判断が必要であろう。くりかえし「洞察」と述べているのはその意味である。

洞察という作業が求められるもう一つの理由は、行政指導の基礎にある法的な含意(インプリケーション)の正確な理解が、どうしても必要だからである。例えば、「FDの義務化」といわれるけれども、それは個々の教員に対して「義務」を負わせるものではない。「法人の、国に対する義務」と解するのがおそらく正しい。また「認証評価」という新評価が生まれたのではない。「認証評価機関」という機関群が生まれたという意味である。他方、FD理解・SD理解についていうと、最も求められているのは、各大学の個性に即した独自のFD理解、SD理解であって、画一的なプログラムの施行ではない。こういった微妙な、しかし実践上極めて重要な理解を共有しておく必要がある。そのためには職員の綿密な学習が求められる。言葉をかえると、大学のコンプライアンス(法令遵守)の基礎となる概念理解の正確さが(大学の「自衛」のためにも)求められている。

とはいえ、長期にわたる、総合的で多面的な政策理解のためには、職人的な個人技だけではとても足りない。各大学の内側に、大学問題や大学教育変革の方針を形成する独自の機関(インスティテューション)が必要になる。多くの国立大学法人が大学教育センター、教育実践センターの類を開設しているのは、IR(インスティテューショナル・リサーチ=大学教育・研究の組織的調査)と並んで、政策理解の必要があってのことに違いない。私学の中の自覚的な大学も、この作業を強化している。また、FD・SDに責任を持つ部局や教員ポストも、今後特設されていくことであろう。国は、それらの試みをこそ大いに助成して行くべきであろう。

以上、3回にわたって記した荒削りの試論は、文字通り職員能力形成のための「新人教育」のメドあるいは(本紙編集者の評に従えば)「職員教育のリベラル・アーツ論」とも言えようか。今後多くの専門家の方々が批判し発展させてくだされば幸いである。

今後10年続く少子時代を支えるのは、大学人総体の、特に職員の力である。その能力開発事業は必須のものになるだろうし、国によるサポートも、ますます重要なものになるに違いない。