2008年8月30日土曜日

教育施策と財政の関わり(2)

今日は、去る6月30日に、独立行政法人経済産業研究所(RIETI)が「真の教育、研究水準の向上につながる大学改革とは」と題して行った、前財務省主計局主計官(文部科学担当)の藤城眞氏との対談要旨(藤城氏発言抜粋)をご紹介します。
(関連日記)http://daisala.blogspot.jp/2008/05/blog-post_30.html


運営費交付金について
  • 教育をよくすることは、誰が見ても疑いのない目標です。ただし、教育に投じられる資金が、適切に、効率的・効果的に使われているのか、このことを問うことが大切です。教育に関して時々感じるのですが、よい施策であればお金がついてくるのが当然だといった感じで話される方もいます。しかし、予算制約のなかで、いくらよい施策であっても、申し訳ないが今はできないというものもあります。そもそも提案自体が適切かどうか、その吟味から始めなければならないものもいろいろとあります。こうしたなかで、一体、どういう予算を認め、どういう予算を減らして、他の予算にその資源を回すのかという議論も必要なのです。

  • 社会の流れや時代の要請に必ずしもマッチしなくなってきた分野もあるはずです。そうした分野を減らし、新たな分野に資金を移すというように、資源配分も考えなければなりません。つまり、スクラップアンドビルドです。自ら望んでスクラップを求める要求はなかなかこないものです。そこで、嫌なことでしょうが、「ここは重要性が落ちていませんか」、「優先順位をつけてください」ということをお願いすることになります。ところが、大学の世界というのは、非常に優先順位付けに慣れていない組織のようにも思えます。それぞれの学問が、お互いを尊重することで、おそらく学問の自治や自由が認められてきたからかもしれません。しかし財政の論理からすれば、相対的に重要度の低い分野と高い分野、あるいは研究力の高い部署と低い部署、そういうものをみて、資源を回していくことをやっていかなければならないと思います。

  • 予算を増やしたいという思いや、教育は重要だといった精神論ばかりが前面に出てきますが、これで増額を認めていたら、日本の財政は爆発してしまいます。結局、この議論で欠けているのは、予算を増やすには財源が必要になるというシンプルな事実です。よく気楽に、「よそから予算を持ってくればいい」と言われますが、そうであれば、「何を削るのか」、「歳出のなかの優先順位をどう考えるのか」という議論になります。「道路を削ればいい」と言う方がいますが、それであれば、国民的な理解を得ることが必要です。ただ、そもそも教育予算のGDP比を5%にするには、7兆円!を超えるお金が必要です。でも、7兆円の予算を捻出するには、公共事業をゼロにしても足りません。

  • 大事なことは、教育には、すでに国・地方を通じて19兆円ものお金が投入されているということです。その19兆円が有効に使われているのかといえば、私はまだ教育の世界のなかで工夫すべき点、努力すべき点があると思っています。

  • 高等教育投資に占める公費負担が低いと言われるのですが、これはそれぞれの国の国民負担率や受益者負担のあり方をどう考えるかにかかっています。たとえば、国民負担の状況を見る限り、日本や米国は、欧州諸国と異なり、OECD諸国のなかで国民負担率が最低水準の国です。つまり、国のあり方が基本的に私的部門に任せる構造にあり、米国と同様、高等教育について公費負担の割合が相対的に低くなっているわけです。義務教育である初等中等教育であれば、基本的には公費負担ですが、高等教育は義務教育ではありませんので、国ですべて丸抱えにするかどうかは、哲学の分かれるところです。ヨーロッパのように国民負担率が高い国では、教育の私費負担は低いですが、その代わりに家計は多くの税金を納めており、それを大学につぎ込んでいます。しかし、日本やアメリカのように国民負担率が低い国では、家計は負担する税金が少ないですから、高等教育に対しても、ある程度の公費はつぎ込むが、あとは家計の私費負担でお願いしますということになるわけです。したがって、高等教育の公費負担を増やすなら、まず国民負担のあり方を議論しなければならず、「増税して政府の規模を大きくするのか?」という問いに対して、先程の大学関係者は答えなければならなりません。

  • また、受益者負担の問題も考える必要があります。研究活動にはある程度、外部性が存在しますが、教育のリターンはどこに帰着するのでしょう。これは、まずは学生本人に帰着するところが大です。よい大学教育を受けて収入の多い職業に就く、そのような関係を考えれば、公費負担(税金)を引き上げて、大学生の学費負担を、税を通じて、たとえば大学生の子どもがいない(あるいは高卒のお子さんしかいない)ご家庭にまで求めるのか?これは、国民の理解を得られるのかといった判断が必要です。軽々に、欧州などで公費負担が高いから日本も高めよというような議論は成り立たないのです。

  • 繰り返しになりますが、これらの主張ではベネフィットばかりが強調され、誰がそのお金を払うのかという負担に触れている発言は、見たことがありません。「カネは財務省で集めてください」と気楽なこともよく言われますが、そのような単純な議論ではないのです。


大学の機能別分化について

  • 教育・研究水準の向上のためには、内外の競争的環境をもっと確保しなければいけないし、議論の透明性・普遍性を確保しながら国民的議論を行うことが重要です。そして、厳格な相対評価を行うべきです。ある程度、研究力の高いところと低いところ、教育力の優れているところとそうでないところを適切に評価していけば、どこにお金をつぎ込むかも見えてくるはずです。

  • そのうえで、まずは、それぞれの国立大学法人が、自ら目指すコンセプトを踏まえ、中期目標をより具体的なものとする必要があります。また、大学の実態把握の点で、現在の財務諸表はまだまだどんぶり勘定なので、それを見直さなくてはなりません。そして、大学自治の根幹かもしれませんが、経営と教学の関係については、選挙で選ばれる学長が経営を行い、財務、労務まで担うことが、本当の意味で効率的なのかということも議論が必要です。

  • 教育機能と研究機能の配分関係に関しては、外部性は、相対的に教育より研究にあると考えられます。外部性のあるものは、何がしか公的なお金を入れない限り、それがいつも自発的に行われるとは限らないでしょう。このため、研究については、ある程度国の支援が必要だと思います。一方、教育に関しては、そのリターンが個人に帰着することを踏まえて、まずは学費をベースにしたうえで、どの程度、国としてサポートするかということを議論すべきだと思います。そして研究と教育をある程度二分化していくなかで、完全に分離できるかどうかは分かりませんが、基本的には研究を主眼にしていくアプローチと、教育を主眼にしていくアプローチの2つを考えていくことになるでしょう。そうすれば、大学そのものも、この学部はある程度研究主体で、一方、こちらの学部は研究力が必ずしも高いとはいえないので、むしろ地域に根ざした人材育成に集中し、どのような教育を施していくべきかを考える、そして卒業生が地域で産業を起こすことなどを通じて、地域の活性化などを担って行くことが、大きな目標になる場合もあるでしょう。(中期目標の)第二期を通じて、第三期に向けて、今話したようなことを明確にしていくというビジョンが必要なのではないでしょうか。

  • なお、大学関係者が大学の重要性を認識しているのは当然ですが、国民全体にそういうコンセンサスが本当にあるのでしょうか。大学の社会貢献にも関わる問題ですが、この点について、私はまだまだ努力が求められていると思います。実際、大学が社会にとって有益なことをしていると、国民が本当に理解していれば、これをもっと支援しようという議論がでてくるはずです。しかし、かなり前から取り組んでいるはずの産学連携が、いまだに大きな課題として残っているように、そこに何か課題が存在しているように感じます。

  • 二期が終了した段階で、先ほど話したようなことが完璧にクリアされているなら、それに越したことはありません。ただし、やはりある程度のペースというものも必要と思います。最近もある大学の学長と話をしたのですが、「この4年でかなり改革をやってきました」という話でしたが、おそらく4年という時間は、それなりに短い時間なのでしょう。しかし、一期で6年間、二期で12年間。12年間かけて改革していくというのでは、悠長でしょう。民間企業なら、12年間かけて問題を改善していては、潰れてしまいます。それなりにドラスティックなこともしなければなりませんが、そういうプレッシャーは大学にかかっているのでしょうか。

  • 運営費交付金の1%削減がプレッシャーになっているのかもしれませんが、若干の疑問も感じています。「1%削減がいかに大変か」、「削減の結果、末端の研究資金が大きく削られている」などと関係者はしきりに訴えますが、なぜ、マイナス1%で末端がそれほど削られなければならないのか。「効率化」のメカニズムを各大学によく分析していただきたいと思います。その上で、第二期においては、いままでの一律削減ではなく、教育や研究のメリットを具体的に評価しながら、それに合わせてお金を配っていくことを始めなければなりません。具体的に研究に関しては、その相対的な位置づけを分野別に判断し、研究力の高いところにお金を集中して、研究力の低いところでは、お金は徐々に削減していくということです。

  • 教育に関しては、必ずしも教育の水準は明らかではないかもしれませんが、大学ごとに、具体的に、こういう人材をこのように育成していきたいという目標を明確にして、それにどの程度合致した教育ができたかを事後評価しながらお金を配るなどということも考えられます。

大学のガバナンスの問題点
  • 大学の学長さんは、こうした問題はある程度分かっています。研究の最前線でなく、後進の育成で頑張るということでもよいと思いますが、研究・教育の人員の再構成が必要かもしれません。その理由は、お金の使いかたの話もありますが、やはり、そうでないと、国全体としての教育力、研究力を高めることになかなかならないのではないでしょうか。

  • 大学関係者の中には、高等教育予算を倍にしてほしいと言っている方もいますが、「それでは、現状の大学内のメカニズムは、効果的なものですか?」と尋ねざるを得ません。そう言うと「いや、今やろうとしている」といった答えが返ってきたりしますが、いつまでにやるのでしょうか。これは、厳しく聞こえるかもしれませんが、他の世界でも求められていることです。企業であれば、スクラップアンドビルドは当たり前です。しかし、これまで、大学の場合は、これを求めにくい構造だったのかもしれません。

  • よく企業と大学は違うと言われますが、組織論的に見れば、企業と大学は、基本的なあり方で、それほど変わらないところも多いと思います。従業員の投票で社長を決める会社がこの世にないように、当然、社長は株主なり、その組織のステークホルダーに対する責任を経営者として負っているわけです。国立大学であれば、寄託者は国(納税者)かもしれませんので(私立大学であれば、大学の創設者、あるいは寄贈した人かもしれませんが)、彼らを向いて仕事をする必要があります。ところが、従業員が選んだ社長となれば、はたして株主を見て仕事をするかどうか。もちろん、株主しか見ていないのも弊害があるかもしれませんから、これは相対的な問題ですが、少なくとも現状は、トップが従業員を気にするようなバイアスがかかる恐れのある組織になっていると思います。立派な経営を行っている学長もいらっしゃいますが、システムとして、常にそのようであるのかどうか。外部評議員も入れていますが、では、どの程度、彼らの意見は反映されているのか。

  • したがって、理事長と学長が、それぞれの責任範囲を明確にするという意味でも、両者を分離するのは1つの考え方です。それが仮に難しければ、学長が、従業員のみならず、株主たる国民を見て運営を行うというバランスを担保する仕組みが必要です。特に、そのことは、トップが大学自体のあり方を変える改革を求められる場合に、重要となるでしょう。

  • 本当の意味で日本の大学を世界レベルにしたい、あるいは、よい貢献をしたいと思えば、新しい分野を入れていくのは当然です。しかし、そこがイス取りゲームで阻まれているのであれば、どのように目的を達成するのでしょうか。それが常に予算の拡大傾向のなかでしか実現できないなどということは、許されないでしょう。

  • 興味深いのは、非公務員でありながら、いまでも給料は人事院勧告準拠という大学があるのです。労使折衝で自由に決めて構わないのですから、結果的に、給料にメリハリをつけてもいいと思うのです。それが法人化のメリットではないでしょうか。全てが人事院勧告であれば公務員のままと変わりません。国大法人移行後の第一期は、そのような運営もあったのかもしれませんが、第二期になれば、必要な判断をしてもらいたいものです。いままでどおりの中で少しずつ変えていくということでは、長期低落傾向にもなりかねません。繰り返しますが、本当に大学をよいものにしたいのであれば、これに取り組むべきであり、それができないので金を増やせと言われても、受け容れがたいという話になります。

  • 給料を半分というような極端な話をすると、皆抵抗しますが、退職不補充や現給で昇給停止、他大学の学科との併任とか、工夫はあると思うのです。民間では、さまざまな工夫をして、厳しい状況を抜け出そうとしています。大学もそれぐらいの覚悟が求められています。「それでは、30年かけてやります」などと言うわけにはいきません。「大学を世界トップ水準にしたい」という話の一方で、リストラは30年かけてと言うのでしょうか。本当にやりたいと思ったらやる、やる権限がないのなら、権限を付与する制度改革を行うと、次はそういう話になるでしょう。

  • 地方大学は、やはりいま悩んでいると思います。自分たちのレゾン・デートルは、何なのか。地方発の面白い研究をしている先生や学科もあると思います。その人たちの芽をつぶすことは、あってはならない。しかし、それであれば、そういう研究以外の周辺部分も含めて、現状のままでいいのかと言われると、むしろ各大学は秀でたところに特化したり、他の拠点に集約したりする(分校化などを含む)のでもよいのかもしれません。

  • また、教育面を中心に、地域で必要な人材について、地域の人たちともう少し考えたほうがいいと思います。その地域を今後、どこへ引っ張っていくかと考えたときに、必要な人材をつくらなければなりません。先のとおり、社会科学でも、日本で不足している人材が沢山いるのですから、それを専門に育成する学科を立ち上げてもいいと思います。この分野なら何々大学に行けば可能だ、その大学出身者はそういうスキルを持っている、だからあらためて会社で研修させなくても即戦力として使えるという評判を得るだけでも全く違ってくるのではないでしょうか。

  • そのような人たちが地元企業に行くことで、地元企業の力も上がります。このため、何を目指して教育を行うのか、ターゲットを明確化する必要があります。ターゲットを決めるのに、民主主義で、あれもいい、これもいいでは、何か無難なものにまとまってしまい、今までと大して変わらない可能性もあります。ある程度、何をやるのかをクリアにして、そのための基礎的な教養として、リベラル・アーツがあってもいいのだと思います。たとえば、この前、ある大学の学長さんにお話を聞いたのですが、教養教育は放送大学を活用しているということです。大教室で聞くなら、放送大学で聞けということなのでしょう。

  • それで、ある程度の知識の幅や、ものの考え方の多様性、方法論を学ぶことができれば、あとは先生と対話しながら学び、最後はスキルになります。こういう教育であれば、いまの全ての大学教員を大学が囲う必要はないのかもしれません。つまり、放送大学の講義を、オンデマンドで引けるようなシステムにしてしまえば、自分でカリキュラムを組むこともできるわけです。そのような教育手法と大学を組み合わせるような工夫も一案です。そうすれば、人件費は大して必要とはならないので、こうした部分の予算をグッと減らし、それで他の必要な教育・研究分野に還元することが考えられます。

国立大学法人化の問題点
  • なぜ大学は単科大学ではなくて総合でなくてはならないのかについて、はっきり言えば、超有名大学であっても、決して学際的な研究が行われているわけではないという問題をどう考えるかです。学部が違えば、教員同士でほとんど話もしたことがないというようなことがあります。おそらくそれがユニバーシティであるためには、もっと学際的なことをやらなければいけないと思うのです。現実に行われていないのであれば、単科大学の集まりと同じです。そこに、もしかしたら何か日本の学問の可能性が、まだあるのかもしれません。そうであれば、積極的にその可能性を示す方向でやってもらいたいものです。

  • 総合大学で、フルセットで、しかも教育と研究をある程度、両方やっていくということは、それほど簡単ではないのではないか。したがって、総合大学に与えられた課題には、結構大きなものがあります。いまは、帝大系は、他の大学に比べても恵まれていてというような話だけが聞こえますが、それは現状にとどまるのであれば、そういう議論ということです。世界トップ水準にある学部を抱えている総合大学もあるのですが、そこにとどまるのか、さらに総合性のようなことを考え、もっと欲張って、必ず違う学部、学科の人ともっと交流をするとか、何か工夫ができないでしょうか。

  • それから教養教育大学については、学費を中心に据えていくことになると思います。教育を中心にやる限りにおいては、全てを丸抱えで国が面倒を見る必要性は乏しくなっています。ある程度、学費も上げざるを得ないでしょう。基本は学費をベースにして、ある程度、国としての必要性を考えて国費を投入していくということです。さらに、地域に必要とされる人材をつくるため、地域との関わりが非常に強い学部、学科をつくるのであれば、むしろ地方費を入れるというやり方もあります。

  • それから教員養成系は、ラフに言えば地方公務員を養成しているわけです。私学を経て教員になる人と、国立大学を経て教員になる人とで、明らかに国立大学のほうが学費的な面でも優遇されていますが、その理由は何なのか、大変微妙なことだと思います。もう少し学費ベースで、むしろ県立大学として教員を養成してもらうということも考えられるのではないでしょうか。

  • こうして、いくつかの大学のパターンに分かれてくるのが、機能の分化です。そこをうやむやにして、取りあえずお金を増やしてというのでは、問題意識もはっきりしないし、説明責任も問われません。本当の意味でよい教育や研究をやってもらうため、そういうことをむしろ考えていただきたいと思うのです。

  • 大学の戦略を明確にするなかで考えることかもしれません。「研究をやるときに、若い人がいるということは非常に大事なことだ」ということを、ある外国のノーベル賞学者から直接聞いたことがあります。そういう意味で、研究独法だけというのも、研究の位置づけからして、必ずしも十分ではないこともよく分かります。まさに若い人たちが斬新な発想で、先生が当然だと思っていたことを、そうではないのではないかと考え、そしてそういう若い人たちとディスカッションをする中で、自分自身の考えもまた変わっていくというようなことがあっていいと思います。つまり、そういう研究であれば、教育と、ある程度オーバーラップしてもいいと思いますが、それはかなりコアな学生たちでしょうね。学生全員がそのようなかたちで、参加していけるかどうかはわかりませんが。

  • なお、学部からのしがらみや研究の馴れ合いを断ち切るためには、研究大学院大学はよかったと思います。つまり、学部からずっと同じ研究室で、子弟の関係にあり、この先生はこう思っているから、学生はもう分かっているだろうからということで、ディスカッションがなかったりというようなことが、学部と異なる研究大学院大学に行くことで、もう一回、1からやると聞いたことがあります。それで新たに発見されるものが出てくるかもしれません。研究大学院大学もあっていいし、総合大学のある程度基幹大学のなかでそういうような人を育てていくということもあってもいいかもしれません。

  • 財審の資料にも、はっきり教育と研究の接続において、柔軟な組織、学生と教官の円滑な大学間移動が大事だということを書きました。その心は、たとえば一旦自分は教育を中心にやろうと思って入ったけれど、やっているうちに研究をしたくなってきた学生もいるだろうし、あるいは研究でやって来たけれども、やっぱり後進の教育を中心におきたいという先生もいると思います。ポイント・オブ・ノー・リターンはないわけで、方向転換しようと思ったときに変えられる、自分の生き方なり自分の目指す方向をチョイスできるように、できる限り自由であるべきだと考えたのです。

評価の問題点
  • 分野別の評価が絶対に必要だと思います。いま手間がかかっていると言いますが、評価が高い人はべつに、あるがままを記述すればおしまいですが、何か説明に窮する人は、言葉を重ねて分量で見せようとしているのでしょうか。しかし、それは、あまり意味がない。あるがままに見ていくしかないのだと思います。また、分野をまたがった比較は難しいですが、分野のなかでは、全国的に見て、ある程度複数の専門家が見ながら、評価をつけていくことを行わなければならないでしょう。そうせずに、評価をやめるとなると、何をやっているかが分からなくなります。すると、皆に取りあえず金を撒いておくか、取りあえずどこにも金を入れないということしかないわけです。しかし、物理にせよ化学にせよ、やはり分野のなかでは、こちらのほうが研究水準は高いとか、そうでもないとか、ある程度常識的な判断があれば、そのなかで相対評価をしていくしかありません。

  • 分野横断的な評価については、総合科学技術会議でS、A、B、Cをつけているが、往々にして全てSとAばかりになってしまいがちです。これでは査定の判断基準として参考にならないので、去年申し上げて、件数ベースでのバランスはよくなってきました。しかし、金額的には、まだSとAが多いのです。これを見ても容易ではないのですが、できないと言われてしまえば、あとは最初からシェアを固定して、配分するしかなくなります。シェアを大胆に変えろと言うのであれば、どの分野に金を注力するかを決めなくてはなりません。そのためにも評価が必要なのです。文科省がさじ加減で決める話でも、財務省が何か言う話でもないことです。満点でなくても、ある程度のもので傾向をつけ、少しずつやっていくことだと思います。

  • 教育に特化して評価を上げていくとか、そういうことを考え始めてもいいわけです。また、自然科学も専門化しすぎているから、多様な分野を基礎科学的に教え、どこの分野でもやっていける人材をつくることを売りにするのも一案でしょう。最先端ではなくても、たとえば、そのような人材をつくる学科にしていくなど、次のステップに進むことを積極的に考えてほしいです。兎に角、現状維持だけを考えていると、厚さで勝負ということにもなりかねません。それではよくある学生のレポートと変わりません。

  • 霞ヶ関は、学問の深いところや大学のしきたりには疎いかもしれませんが、大学の成果なり教育をよくするための人間行動、学部間で意見の違う人たちをどのようにして調整するかというテクニックなどは、むしろよくわかっているかもしれません。往々にして、議論がレッテル張りに堕してしまって、「役人だから」とか、「知らないくせに」とか言われますが、何の解決にもなりません。大学のことは大学人が一番わかっているのであれば、その学問の奥義に基づいて、どういうメカニズムが大学に必要なのかを提案してくれればいいわけです。

  • とにかくお金を増やしてくれ、根拠は不明確だが予算も倍だというのであれば、われわれは言葉もありません。改革に手をつけず、いまあるものを倍にしろと言っているだけに聞こえます。私は聞きたいのです。予算を倍にして、具体的に何をしたいのですか?大学の教員数を増やすのか?給料や研究費を増やすのか?それで高等教育がよくなるのですか?給料を増やしたり、人数を増やしてよくなるのであれば、それほど簡単なことはない。しかし、生物学的に考えても、いまの倍にすればよくなるなどということは、単純には分からないことでしょう。非常に非科学的ですし、逆に科学的であるならば、積算を示し、検証したうえで、その案を持ってきてほしいものです。

  • 何度も言いますが、何かを削ってこちらに持ってくるという発想がないので、何でも増やせばいいというだけでは、多々益々弁ずにすぎません。予算制約なり、希少性の問題があるから、いまの水準があるのです。とにかく増やせというような議論は、あまりにも粗雑です。「積算もないし、どの予算を削るのか」と尋ねても、誰も正面から答えてくれません。まず、現在の予算のなかで、できることを尽くしているのか、何をすべきかという案が必要なのです。

  • 他を削減してでも、資源を追加投入することの効果が見えるなら、議論の俎上にのぼるでしょう。つまり、現状を変えてアウトプット効率が良くなるとして、もう少し増やせば、ここまでできるということが説明できればということなのです。その結果、外部性が高まったり、新産業があちこちで起こってくるとなれば、もっと投資したほうがいいとなるでしょう。いまは、まさに、ベネフィットが判然としないままに、とにかくコストだけ倍にしてくれという要求になっています。そして、「なぜ?」と問えば、「人材立国だから」とか、「教育立国だから」とか、抽象論で、言葉だけ踊っています。よく意味が分かりません。結局埒があかないので、「それでは、大学を国民はどう評価しているのか」という最初の質問に戻るわけです。大学というと、みな敬意は表しますが、「それでは、大学のために消費税を1%(=2.5兆円)上げてください」と言われれば、おそらく困惑するのではないでしょうか。

  • なぜなら、効果がよく見えませんから。何をしたいのかが具体的に見えないのに、お金を払ってほしいというのでは、何で自分が払わなければならないのかということになります。説明責任は、そういうところでも大事になるのだと思います。

  • 教育のサプライサイドの人だけで議論をしていては、駄目ということです。これは教育界全体に言えますが、教員関係者だけで議論をしているから、世間と遊離した議論になってしまっています。小中学校であれば、教員をいかに楽にするかというような議論ばかりが提案されてきます。給料を上げよとか、人数を増やせとか。しかし何か違いませんか?教育をシステムとして考えたときに、どこをどう改善したらよいのか?雑務が多いから人を増やせと言うのであれば、雑務を減らせばいいではないですか。そういう議論が出ないのは、供給者側だけで議論しているからです。教育の受け手など、外の声をもっと入れるべきだと思います。

  • 大学でも、外の声を取り入れて、自分たちがやっていることのどこに課題があるのか、どこを変えるべきか、もっと注文してもらって初めて大学はいい形になると思います。そして共感者が増えれば、大学に寄附しようという人も出てくるかもしれません。ところが、それがないままで大企業に寄付してくれと言われてもかなわんとなるわけです。出掛けていけば寄付してくれると思っている人もいるようですが、世の中そんなに甘くはありません。

  • 第一期が終わってすぐに理想像に到達するわけにはいかないかもしれませんが、第二期のあいだには、その方向への道筋をつけてもらい、第三期には実現するということにしていただきたい。できれば、第二期のあいだに、改革を遂行してもらいたいですが…。私は、それが最終的に大学の教育・研究水準の向上のためになると思うからこそ強く申し上げているのです。

2008年8月6日水曜日

教育施策と財政の関わり(1)

教育基本法に基づく我が国初の「教育振興基本計画」(平成20年7月1日閣議決定)については、これまでこの日記でも策定に至るプロセス等について、特に文部科学省と財務省の攻防を中心に何度かご紹介してきました。

教育施策の推進には財政の裏付けが不可欠なこと、しかし現下の我が国の財政事情はそれを許す体力に欠けていること、したがって私達教育関係者は、国民に十分な説明を行い理解を求めるとともに、財政の番人である財務省を打ち負かす戦略を十分に練った上で、財源獲得のための行動を起こす必要があることなど、いろいろな反省の上に学ぶことも多々あったのではないかと思います。

今後、私達教育関係者は、社会の皆様とともに、この閣議決定の内容を責任を持って着実に実行し、我が国の未来を切り拓いて行かなければならないと考えています。

さて、今日は、広島大学高等教育研究開発センター長の山本眞一氏が書かれた「教育振興基本計画の策定」(文部科学教育通信 No201 2008.8.11)の抜粋をご紹介します。


数値目標は入れられず

数値目標が基本計画に取り入れられることに対する期待は非常に大きかったが、今回策定の基本計画には教育予算や教員定数などの数値目標は、財務省などの反対にあって盛り込むことができなかった。本来そこで勝負がついていたであろう4月の中教審答申後、文科省が巻き返しを図り、教育界の要望をバックに財務省と闘う姿勢を示すとともに中教審委員の中から積極的な発言もあって、何かが起きるのではないかという期待感もあったが、結局このような結果に終わったことは残念である。新聞報道では「文科省の完敗(自民党文教族)」などの記述も散見される。しかし、このことについて誰も責任を取っていないところからみて、おそらく勝負はこれからだと文科省では判断しているのであろう。

今回の一連の動きの中から感じるのは、何と言っても財政の壁の厚さである。文科省は世論や中教審そして政治の力を総動員して、数値目標の盛り込みに努力したものと思うが、財務省そして総務省の反対はそれ以上に強かった。財務省がパワフルであることはつとに知られた事実であるが、それはやはりカネを握る官庁の強みというものであろうか。教育振興についての考え方について、財務省と文科省との間で論争があったようだが、どちらも100%相手を論破するだけの論拠の乏しい中で、結局は財政の論理つまり緊縮財政の方針に押し切られた感じがする。

また財政の壁は、資源配分の縦割りによる弊害や社会保障その他今後財政的に負担が増していく他分野との競合という問題とも関係する。今回の経験から教育予算については、限られた財源の中で、国家・国民のために最適な財政配分とは何かという観点から改めて考え直さなければならないと思うが、現実の財政配分は、各省庁と業界そして政治家がスクラムを組む中での、いわば「分捕り」競争の中で行われているわけであるから、われわれは科学的・客観的な意味での教育財政の在り方を考えるとともに、いかにして教育界の要望を教育財政に結びつけるかという政治の問題にも、その強さを発揮できるように意を用いなければならないのである。


出揃った高等教育施策のメニュー

以上のような問題があるとはいえ、しかし、教育振興基本計画の策定は今後のわが国の教育政策を基本的に方向付けるものであり、決してその意味は軽くない。そういう観点でこの基本計画を眺めてみよう。基本計画の中身の多くは、例によって初等中等教育の振興方策に割かれているが、高等教育についてもいくつか重要な方策が書かれている。

第一に、今後十年間を通じて目指すべき教育の姿として、「社会を支え、発展させるとともに、国際社会をリードする人材を育てる」としている点である。それには2つの方向性があって、一つには「世界最高水準の教育研究拠点形成や大学等の国際化を通じ、我が国の国際競争力の強化に資する」ことがあり、二つには「個性や能力に応じ、希望するすべての人が、生涯にわたりいつでも必要な教育の機会を得ることができる環境を整備する」ことである。つまり、優れた教育研究をさらに伸ばすことと、裾野を充実させて生涯学習社会に備えることの両面を睨んだ認識がここには示されている。また、いずれにおいても、教育の質の向上の重要性が指摘されている。

第二に、今後5年間に総合的かつ計画的に取り組むべき施策の基本方向が4つあるうちの一つに「教養と専門性を備えた知性豊かな人間を養成し、社会の発展を支える」とされ、ここに当面重要な高等教育施策が列挙されている。それらは、1)社会の信頼に応える学士課程教育等を実現する、2)世界最高水準の卓越した教育研究拠点を形成するとともに、大学院教育を抜本的に強化する、3)大学等の国際化を推進する、4)国公私立大学等の連携等を通じた地域振興のための取組などの社会貢献を支援する、5)大学教育の質の向上・保証を推進する、6)大学等の教育研究を支える基盤を強化する、の6項目に整理され、このほか、別の個所で私立学校の教育研究を振興するなどの項目が立てられている。

第三に、特に重点的に取り組むべき事項として、キャリア教育・職業教育の推進と生涯を通じた学び直しの機会の提供の推進、大学等の教育力の強化と質保証、卓越した教育研究拠点の形成と大学等の国際化の推進が挙げられており、「留学生30万人計画」の実施はその最後の事項内に含まれている。


財政の裏付けが欲しい教育施策

これらの高等教育関係の施策は、すでに制度化が図られているか、あるいは中教審などで議論が行われているもので、とくに新しいものではないが、今後5年間に取り組むべき施策のメニューを改めて示すものであり、教育政策担当者のみならず、大学関係者にとっても参考とすべきものであろう。

ところで、問題はやはり教育財政との関わりである。なぜなら、すべての施策には財政の裏付けが必要だからである。財政の裏付けのない政策論議は、とかく精神論に傾きやすい。とりわけ教育の分野では、感覚的・抽象的なスローガンが横行しがちであり、その意味でも要注意である。われわれは、戦後久しく、教育というものはお金とは関係なしに進めるべきものだという観念に慣れ親しんできているし、私自身も、たとえば国立大学は汚い施設だから国立大学らしいのであって、きれいにリニューアルされた建物はどこかの私学のようだという感想をついつい持ってしまいがちである。その点は個人的にも大いに反省をしなければならないと思う。

しかし、それにも増して注意を要するのは、国の教育施策と財政との関わりである。今回の基本計画の終わりの部分には「教育に対する財政措置とその重点的・効率的な運用」として、「限られた予算を最大限有効に活用する観点から、施策の選択と集中的実施を行うとともに、コスト縮減に取り組み、効果的な施策の実施を図る」とし、さらに4月の中教審答申にはなかった「新たな施策を講じるに当たっては既存施策の廃止・見直しを徹底することが必要である」という記述が盛り込まれていることから、背後に財務省の大きな圧力を感じざるを得ないのである。今後の教育施策の実施には、ぜひとも財政問題の抜本的改善を願わずにはいられない。

2008年8月2日土曜日

国立大学の人件費と説明責任

国立大学の法人化がもたらした数少ない功績の一つに「説明責任を果たすこと」が挙げられるのではないかと思います。「国の時代」には到底不可能であった、というよりやろうとしなかった「ステークホルダーをはじめとする社会への説明責任」、言い換えれば「透明性の確保」が、国立大学を変えつつあります。

法人化後、国立大学に求められた社会的責任の一つに、「社会への大学情報の公表」があります。公表すべきものとされているもののうち、次の3つは国の時代にはなかった新たな試みではないかと思います。
  1. 文部科学大臣が大学ごとに示した6年にわたる中期目標を達成するために、各大学が自ら定めたマニュフェストともいえる中期計画と、その中期計画の達成のために取り組んだ毎年度の「業務実績報告書」の公表

  2. 法人化により新たに導入された企業会計原則に準じた会計制度である「国立大学法人会計基準」に基づいた「財務諸表をはじめとする決算報告書」の公表

  3. 閣議決定及び総務省が定めたガイドラインに基づいて作成することとされた各大学の「役員・教職員の給与水準」の公表

これらは、毎年度6月末までに文部科学大臣に提出するとともに、社会に公表することになっていますが、今日はこのうち「給与水準の公表」についてご紹介しましょう。

国立大学の役職員の給与等については、国立大学法人法において、国家公務員や民間企業の給与、法人の業務の実績等を考慮しつつ、社会一般の情勢に適合したものとなるよう、各大学がそれぞれ支給基準を定め公表することになっています。

また、給与等の水準の内容についても、「公務員の給与改定に関する取扱いについて」(平成19年10月30日閣議決定)により、毎年度、総務大臣が定めるガイドラインに基づき公表することとされています。

このたび、全ての国立大学法人の平成19年度に係る給与等の水準が文部科学省のホームページを通じ公表されました。

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大学人件費:05年度比6.8%減 目標超える削減ペース (2008年7月28日 毎日新聞)

国立大学法人と4つの大学共同利用機関法人の常勤職員の07年度人件費は9361億8000万円で、05年度人件費の予算額(9967億9000万円)を6.8%(606億1000万円)下回ったことが、文部科学省のまとめでわかった。国立大学法人などの人件費は行政改革推進法で「06年度から5年間で5%(05年度予算を基準)」の削減目標が定められているが、既に目標を超えるペースで削減が進んでいる。

人件費は退職金などを除いた給与や賞与の合計額。06年度比では1.3%減だった。非常勤職員などの人件費は2145億60000万円で、06年度比16.8%(308億9000万円)の大幅増。文科省は「寄付金や競争的資金を利用し、プロジェクトごとに短期で非常勤職員を雇うなど工夫している」と分析している。

また、政府は09年度予算で国立大運営費交付金の削減幅を年3%に拡大しようとしているが、文科省は「削減目標を超過しているから『もっと削ってよい』とみるのは妥当でない」としている。

一方、法人の長(学長など)の07年度報酬額が最も高かったのは京都大の2466万8000円で、▽東京大2380万7000円▽大阪大2374万4000円▽九州大2301万2000円--が続いた。


公表された内容のうち主なポイントをご紹介しておきましょう。

■給与等の年間支給総額(退職手当、非常勤給与等、福利厚生費を除く)→936,181百万円(対前年度▲12,517百万円)

■総人件費改革*1の取組状況→基準額*2に比し▲60,611百万円(▲6.8%)

■学長の年間報酬(全国平均)→18,537千円(対前年度▲493千円、▲2.6%)
(参考)最高:京都大学長 24,688千円、最低:静岡大学長 15,808千円

■理事(常勤)の年間報酬(全国平均)→14,509千円(対前年度▲86千円、▲0.6%)

■監事(常勤)の年間報酬(全国平均)→12,342千円(対前年度311千円、2.6%)

■事務・技術職員の年間給与(全国平均)→5,889千円(対国家公務員指数*386.7)

■医療職員(病院看護師)の年間給与(全国平均)→4,979千円(対国家公務員指数96.3)

■教育職員(大学教員)の年間給与(全国平均)→9,117千円


皆さんは、どのようにお感じになりますか・・・。

*1:「簡素で効率的な政府を実現するための行政改革の推進に関する法律」に基づき、国立大学法人は、平成18年度以降5年間で5%以上の人件費の削減を行うことになっている。

*2:法人移行時の人件費予算相当額を基礎にした平成17年度人件費予算相当額

*3:国立大学法人と国家公務員の給与の比率を国立大学法人の年齢階層別人員構成をウエイトに用いて加重平均した指数であり、国家公務員の給与水準を100とした場合の国立大学法人の給与水準を表す。

2008年8月1日金曜日

幹部事務職員の行動を変えるには

大学の経営力強化に今や不可欠となった事務改革。中でも先頭に立って改革を推進すべき幹部事務職員のポジティブな意識や行動は極めて重要であり、引いては多くの事務職員のモチベーションにも大きな影響を与えるものです。

幹部事務職員は、大学改革のキーパーソンと言っても過言ではなく、これからの時代を読み、社会のニーズを的確に捉え、自らの意識改革や職能開発に寸暇を惜しまない努力を傾注すべきでしょう。

しかしながら、現実は、幹部事務職員のあるべき姿と実態との乖離は予想以上に大きく、近視眼的なセクショナリズムや組織防衛により、改革は一向に進まず、進まないどころか、自分で仕事を「しない」あるいは「できない」、さらには、改革に積極的なやる気のある有能な部下達に仕事を「させない」といった無能な幹部事務職員が多すぎるような気がします。

今ほど、事務職員の職能開発の重要性や在り方が問われている時代はありません。大学や各種職能団体が行うSD(スタッフ・ディベロップメント)活動や大学院教育など多様な能力向上のための手法を活用した取り組みが求められる中、現場の日常業務において、上司と部下、先輩と後輩という関係を通じた研鑽、いわゆる「OJT」は今後も最も重視される能力開発の機会ではないかと思います。

その「OJT」を有効に機能させていくためには、上司や先輩に当たる幹部事務職員自身が十分な資質を身に着けておくことが何よりも重要なことではないでしょうか。

この日記でも既にご紹介をしましたが、放送大学で今年の4月から開講されている「大学のマネジメント」などは、幹部事務職員として身に着けなければならないスキルではないかと思います。幹部という立場にあぐらをかき、上司の命を部下に丸投げし、おいしいところだけを部下から奪うような人間としては失格者にだけはなりたくないものです。


さて、今日は、独立行政法人日本スポーツ振興センター理事(前東京大学理事)の上杉道世氏が自らの経験を基に書かれた「幹部職員の行動をどう変えるか」(文部科学教育通信 2008.5.26 No.196)をご紹介したいと思います。

1 大きな世代間のギャップ

官民を問わず長く存続している組織では、世代問のギャップが上司と部下のギャップと重なり、共通の悩みの種となっている。特に国立大学法人にあっては、古きよき公務員時代に過ごしてきた古い世代が幹部となっているのに対し、この10数年に採用された部下の世代には意欲と能力のある人材が多いことが各大学共通の傾向である。

私は若手職員としばしば意見交換をしてきたがその中で「もちろん自分たちは改善に取り組みたいのだけれど、上司が動いてくれない」という悩みを聞くことが多かった。露骨に言えば「何であんな幹部としての役割も果たせないような人たちが幹部になっているのか」という苦情である。私は「幹部の責任だと愚痴を言う前に自分たちでできることはやっていこうよ」と呼びかけてきたのだが、実は確かに当たっていて、今の大学職員の大きな弱点は幹部にあると思っていた。

組織変革のポイントは幹部の行動を変えることであるが、旧来の組織での成功体験を持ち、意識が硬直している幹部たちを変えるのは至難の業である。逆に言えば、幹部の行動を変えることができれば組織変革は大きく進むということである。

2 「幹部職員行動指針」の作成

それでは、幹部職員に求められるものは何だろうか。
東京大学で「幹部職員行動指針」が幹部職員自身の手でまとめられ、大変示唆に富んだ内容となっている。その資料に即してポイントを概観してみよう。

まず、幹部職員の心構えとして次の7点が挙げられている。この7点は、現在試行中の新しい評価システムの評価の観点と同一となっている。

1)方針・目標の策定

幹部職員として高い視点を持ち、その視点を明確な方針として具体化する。また、その方針を部下や関係者が納得するような形で浸透させる。

2)状況の構造的な把握と対応策の企画

組織を取り巻く状況と、それが組織全体にとってどのような意味や価値を持っているかを正確に把握・理解する。また、その状況にどのような働きかけをすればよいのかを企画する。

3)リスクマネジメント・組織コンディションの維持

冷静かつ客観的な姿勢を保ち続ける。また、いつ何が起こっても即応できるような体制を作り上げる。

4)判断・決定

明確な根拠を持った、タイミングよい判断を下す。また、実行すべき方策や、遂行体制などについても、それが現実的か、実行可能かを間違いなく判断する。

5)組織統率

組織の中に相互信頼関係を作り上げ、チームとしてまとめ上げる。また、チームワークを向上させ、チームとしての総合力を高める。

6)部下の育成・管理

部下に気づきを与え、業務を通じて計画的に部下の業務遂行能力及び人間性を高め成長を図る。また、必要に応じてしっかりと誉め、また叱るなど、部下のモチベーション(動機)の高揚に努める。

7)業務改善の推進

業務に関して問題点、改善点が無いかを掌握し、改善点を見いだした場合には積極的に取り組み、業務の省力化や費用対効果などを念頭に置いた業務改善を心がける。

幹部職員に必要な知識としては、大学経営のための知識、人事・労務管理のための知識、危機管理と行動規範遵守のための知識、大学全体・社会情勢に関する知識が挙げられている。

幹部職員に求められる資質・能力として、次の6点が挙げられている。
  1. 高い倫理観と価値観
  2. 組織を導く構想力や先見性、感性、特に企画立案能力、イニシアティブ・リーダーシップ、折衝・調整能力
  3. 様々な状況に適応する能力、特にプラス思考、変化・ストレスの中で自らを変革・適応させる能力
  4. 人材を育て、組織を育てる能力、特にマネジメント能力、人材育成能力
  5. 優れた判断能力と勇気ある決断力、特に分析思考力、判断能力、柔軟性・軌道修正能力
  6. 自己研鑽、特にチェック能力・情報収集能力、プレゼンテーション能力、語学力
資料では、これらのポイントの記述とともに実例に即した豊富なコメントや説明が記述されている。幹部職員が座右に置いて、ことあるごとに眺めると何かのヒントが得られる資料となっている。

3 鍛えられた幹部職員を育てる

私は法人化目前の東京大学に着任した時、多くの幹部職員の状態を見て大変な危機感を持った。それ以来、次々と幹部職員を刺激する試みを行ってきた。

まず、学内からの課長・事務長登用は学内公募による競争試験を経ることにした。面接でどのような幹部になるかをプレゼンテーションさせ、論文で文章力を試した。年齢・経歴が高くても力不足のものは登用せず、女性と若手の登用を進めた。法人化後、学内から登用された幹部は全員学内公募の試練を経た者であり、活発な人が増えている。

毎年職員人事について部局長と意見交換をし、その際に事務幹部への注文や評価を聞いた。その中で私が納得できるものについては人事異動に反映し、誉められた者や苦情を言われた者には私の表現で本人に伝達するようにした。他大学の理事・事務局長からは、御用聞きみたいなことをするのかとからかわれたが、まずこちらから行けば次は部局長が来てくれる。事務担当理事と部局長の間で対話型のコミュニケーションができていることが大切であって、それがあれば事務幹部は統制できる。

毎月1回、途中からは月2回、本部の部課長と部局の事務(部)長60人余りの事務長会議を行っていたが、当初は本部から部局への伝達に終始していた。

それではつまらないので、私は毎回冒頭に時間をもらい、学内外の情勢や取り組みの考え方・ポイントなどを率直に話すようにした。事務(部)長からは順番に各部局での改善の取り組みの状況を発表してもらったり、各役員や企業等から来てもらった幹部に次々と講話をしてもらったりした。アクションプラン作成時には、小宮山総長を囲んでの事務長合宿もやった。

業務改善の提案募集や組織のフラット化や新しい評価システムの導入に際しては、幹部職員の重要任務として人事管理と業務管理があること、どの改善の取り組みを取り上げても上司の役割が決定的に重要であることを繰り返し訴えた。どんなによい仕組みを作っても上司としての幹部職員がそれを生かすように行動しなければ生きて機能しないのだ。

このような取り組みを経て、平成19年度の事務長会議メンバーによる業務改善ワークショップとしてグループワークによる幹部マニュアルの作成を提案したところ、グループごとに自主的な会合や資料作成が進められ、上述の「幹部職員行動指針」が作成された。幹部職員自らが「我々はこう行動する」と宣言したわけである。

資料の内容とともに作成プロセスが貴重であり、私は幹部職員自身がこのような資料を作成できる状態になったことが東京大学の変化の一つの表れだと評価している。