2008年8月30日土曜日

教育施策と財政の関わり(2)

今日は、去る6月30日に、独立行政法人経済産業研究所(RIETI)が「真の教育、研究水準の向上につながる大学改革とは」と題して行った、前財務省主計局主計官(文部科学担当)の藤城眞氏との対談要旨(藤城氏発言抜粋)をご紹介します。
(関連日記)http://daisala.blogspot.jp/2008/05/blog-post_30.html


運営費交付金について
  • 教育をよくすることは、誰が見ても疑いのない目標です。ただし、教育に投じられる資金が、適切に、効率的・効果的に使われているのか、このことを問うことが大切です。教育に関して時々感じるのですが、よい施策であればお金がついてくるのが当然だといった感じで話される方もいます。しかし、予算制約のなかで、いくらよい施策であっても、申し訳ないが今はできないというものもあります。そもそも提案自体が適切かどうか、その吟味から始めなければならないものもいろいろとあります。こうしたなかで、一体、どういう予算を認め、どういう予算を減らして、他の予算にその資源を回すのかという議論も必要なのです。

  • 社会の流れや時代の要請に必ずしもマッチしなくなってきた分野もあるはずです。そうした分野を減らし、新たな分野に資金を移すというように、資源配分も考えなければなりません。つまり、スクラップアンドビルドです。自ら望んでスクラップを求める要求はなかなかこないものです。そこで、嫌なことでしょうが、「ここは重要性が落ちていませんか」、「優先順位をつけてください」ということをお願いすることになります。ところが、大学の世界というのは、非常に優先順位付けに慣れていない組織のようにも思えます。それぞれの学問が、お互いを尊重することで、おそらく学問の自治や自由が認められてきたからかもしれません。しかし財政の論理からすれば、相対的に重要度の低い分野と高い分野、あるいは研究力の高い部署と低い部署、そういうものをみて、資源を回していくことをやっていかなければならないと思います。

  • 予算を増やしたいという思いや、教育は重要だといった精神論ばかりが前面に出てきますが、これで増額を認めていたら、日本の財政は爆発してしまいます。結局、この議論で欠けているのは、予算を増やすには財源が必要になるというシンプルな事実です。よく気楽に、「よそから予算を持ってくればいい」と言われますが、そうであれば、「何を削るのか」、「歳出のなかの優先順位をどう考えるのか」という議論になります。「道路を削ればいい」と言う方がいますが、それであれば、国民的な理解を得ることが必要です。ただ、そもそも教育予算のGDP比を5%にするには、7兆円!を超えるお金が必要です。でも、7兆円の予算を捻出するには、公共事業をゼロにしても足りません。

  • 大事なことは、教育には、すでに国・地方を通じて19兆円ものお金が投入されているということです。その19兆円が有効に使われているのかといえば、私はまだ教育の世界のなかで工夫すべき点、努力すべき点があると思っています。

  • 高等教育投資に占める公費負担が低いと言われるのですが、これはそれぞれの国の国民負担率や受益者負担のあり方をどう考えるかにかかっています。たとえば、国民負担の状況を見る限り、日本や米国は、欧州諸国と異なり、OECD諸国のなかで国民負担率が最低水準の国です。つまり、国のあり方が基本的に私的部門に任せる構造にあり、米国と同様、高等教育について公費負担の割合が相対的に低くなっているわけです。義務教育である初等中等教育であれば、基本的には公費負担ですが、高等教育は義務教育ではありませんので、国ですべて丸抱えにするかどうかは、哲学の分かれるところです。ヨーロッパのように国民負担率が高い国では、教育の私費負担は低いですが、その代わりに家計は多くの税金を納めており、それを大学につぎ込んでいます。しかし、日本やアメリカのように国民負担率が低い国では、家計は負担する税金が少ないですから、高等教育に対しても、ある程度の公費はつぎ込むが、あとは家計の私費負担でお願いしますということになるわけです。したがって、高等教育の公費負担を増やすなら、まず国民負担のあり方を議論しなければならず、「増税して政府の規模を大きくするのか?」という問いに対して、先程の大学関係者は答えなければならなりません。

  • また、受益者負担の問題も考える必要があります。研究活動にはある程度、外部性が存在しますが、教育のリターンはどこに帰着するのでしょう。これは、まずは学生本人に帰着するところが大です。よい大学教育を受けて収入の多い職業に就く、そのような関係を考えれば、公費負担(税金)を引き上げて、大学生の学費負担を、税を通じて、たとえば大学生の子どもがいない(あるいは高卒のお子さんしかいない)ご家庭にまで求めるのか?これは、国民の理解を得られるのかといった判断が必要です。軽々に、欧州などで公費負担が高いから日本も高めよというような議論は成り立たないのです。

  • 繰り返しになりますが、これらの主張ではベネフィットばかりが強調され、誰がそのお金を払うのかという負担に触れている発言は、見たことがありません。「カネは財務省で集めてください」と気楽なこともよく言われますが、そのような単純な議論ではないのです。


大学の機能別分化について

  • 教育・研究水準の向上のためには、内外の競争的環境をもっと確保しなければいけないし、議論の透明性・普遍性を確保しながら国民的議論を行うことが重要です。そして、厳格な相対評価を行うべきです。ある程度、研究力の高いところと低いところ、教育力の優れているところとそうでないところを適切に評価していけば、どこにお金をつぎ込むかも見えてくるはずです。

  • そのうえで、まずは、それぞれの国立大学法人が、自ら目指すコンセプトを踏まえ、中期目標をより具体的なものとする必要があります。また、大学の実態把握の点で、現在の財務諸表はまだまだどんぶり勘定なので、それを見直さなくてはなりません。そして、大学自治の根幹かもしれませんが、経営と教学の関係については、選挙で選ばれる学長が経営を行い、財務、労務まで担うことが、本当の意味で効率的なのかということも議論が必要です。

  • 教育機能と研究機能の配分関係に関しては、外部性は、相対的に教育より研究にあると考えられます。外部性のあるものは、何がしか公的なお金を入れない限り、それがいつも自発的に行われるとは限らないでしょう。このため、研究については、ある程度国の支援が必要だと思います。一方、教育に関しては、そのリターンが個人に帰着することを踏まえて、まずは学費をベースにしたうえで、どの程度、国としてサポートするかということを議論すべきだと思います。そして研究と教育をある程度二分化していくなかで、完全に分離できるかどうかは分かりませんが、基本的には研究を主眼にしていくアプローチと、教育を主眼にしていくアプローチの2つを考えていくことになるでしょう。そうすれば、大学そのものも、この学部はある程度研究主体で、一方、こちらの学部は研究力が必ずしも高いとはいえないので、むしろ地域に根ざした人材育成に集中し、どのような教育を施していくべきかを考える、そして卒業生が地域で産業を起こすことなどを通じて、地域の活性化などを担って行くことが、大きな目標になる場合もあるでしょう。(中期目標の)第二期を通じて、第三期に向けて、今話したようなことを明確にしていくというビジョンが必要なのではないでしょうか。

  • なお、大学関係者が大学の重要性を認識しているのは当然ですが、国民全体にそういうコンセンサスが本当にあるのでしょうか。大学の社会貢献にも関わる問題ですが、この点について、私はまだまだ努力が求められていると思います。実際、大学が社会にとって有益なことをしていると、国民が本当に理解していれば、これをもっと支援しようという議論がでてくるはずです。しかし、かなり前から取り組んでいるはずの産学連携が、いまだに大きな課題として残っているように、そこに何か課題が存在しているように感じます。

  • 二期が終了した段階で、先ほど話したようなことが完璧にクリアされているなら、それに越したことはありません。ただし、やはりある程度のペースというものも必要と思います。最近もある大学の学長と話をしたのですが、「この4年でかなり改革をやってきました」という話でしたが、おそらく4年という時間は、それなりに短い時間なのでしょう。しかし、一期で6年間、二期で12年間。12年間かけて改革していくというのでは、悠長でしょう。民間企業なら、12年間かけて問題を改善していては、潰れてしまいます。それなりにドラスティックなこともしなければなりませんが、そういうプレッシャーは大学にかかっているのでしょうか。

  • 運営費交付金の1%削減がプレッシャーになっているのかもしれませんが、若干の疑問も感じています。「1%削減がいかに大変か」、「削減の結果、末端の研究資金が大きく削られている」などと関係者はしきりに訴えますが、なぜ、マイナス1%で末端がそれほど削られなければならないのか。「効率化」のメカニズムを各大学によく分析していただきたいと思います。その上で、第二期においては、いままでの一律削減ではなく、教育や研究のメリットを具体的に評価しながら、それに合わせてお金を配っていくことを始めなければなりません。具体的に研究に関しては、その相対的な位置づけを分野別に判断し、研究力の高いところにお金を集中して、研究力の低いところでは、お金は徐々に削減していくということです。

  • 教育に関しては、必ずしも教育の水準は明らかではないかもしれませんが、大学ごとに、具体的に、こういう人材をこのように育成していきたいという目標を明確にして、それにどの程度合致した教育ができたかを事後評価しながらお金を配るなどということも考えられます。

大学のガバナンスの問題点
  • 大学の学長さんは、こうした問題はある程度分かっています。研究の最前線でなく、後進の育成で頑張るということでもよいと思いますが、研究・教育の人員の再構成が必要かもしれません。その理由は、お金の使いかたの話もありますが、やはり、そうでないと、国全体としての教育力、研究力を高めることになかなかならないのではないでしょうか。

  • 大学関係者の中には、高等教育予算を倍にしてほしいと言っている方もいますが、「それでは、現状の大学内のメカニズムは、効果的なものですか?」と尋ねざるを得ません。そう言うと「いや、今やろうとしている」といった答えが返ってきたりしますが、いつまでにやるのでしょうか。これは、厳しく聞こえるかもしれませんが、他の世界でも求められていることです。企業であれば、スクラップアンドビルドは当たり前です。しかし、これまで、大学の場合は、これを求めにくい構造だったのかもしれません。

  • よく企業と大学は違うと言われますが、組織論的に見れば、企業と大学は、基本的なあり方で、それほど変わらないところも多いと思います。従業員の投票で社長を決める会社がこの世にないように、当然、社長は株主なり、その組織のステークホルダーに対する責任を経営者として負っているわけです。国立大学であれば、寄託者は国(納税者)かもしれませんので(私立大学であれば、大学の創設者、あるいは寄贈した人かもしれませんが)、彼らを向いて仕事をする必要があります。ところが、従業員が選んだ社長となれば、はたして株主を見て仕事をするかどうか。もちろん、株主しか見ていないのも弊害があるかもしれませんから、これは相対的な問題ですが、少なくとも現状は、トップが従業員を気にするようなバイアスがかかる恐れのある組織になっていると思います。立派な経営を行っている学長もいらっしゃいますが、システムとして、常にそのようであるのかどうか。外部評議員も入れていますが、では、どの程度、彼らの意見は反映されているのか。

  • したがって、理事長と学長が、それぞれの責任範囲を明確にするという意味でも、両者を分離するのは1つの考え方です。それが仮に難しければ、学長が、従業員のみならず、株主たる国民を見て運営を行うというバランスを担保する仕組みが必要です。特に、そのことは、トップが大学自体のあり方を変える改革を求められる場合に、重要となるでしょう。

  • 本当の意味で日本の大学を世界レベルにしたい、あるいは、よい貢献をしたいと思えば、新しい分野を入れていくのは当然です。しかし、そこがイス取りゲームで阻まれているのであれば、どのように目的を達成するのでしょうか。それが常に予算の拡大傾向のなかでしか実現できないなどということは、許されないでしょう。

  • 興味深いのは、非公務員でありながら、いまでも給料は人事院勧告準拠という大学があるのです。労使折衝で自由に決めて構わないのですから、結果的に、給料にメリハリをつけてもいいと思うのです。それが法人化のメリットではないでしょうか。全てが人事院勧告であれば公務員のままと変わりません。国大法人移行後の第一期は、そのような運営もあったのかもしれませんが、第二期になれば、必要な判断をしてもらいたいものです。いままでどおりの中で少しずつ変えていくということでは、長期低落傾向にもなりかねません。繰り返しますが、本当に大学をよいものにしたいのであれば、これに取り組むべきであり、それができないので金を増やせと言われても、受け容れがたいという話になります。

  • 給料を半分というような極端な話をすると、皆抵抗しますが、退職不補充や現給で昇給停止、他大学の学科との併任とか、工夫はあると思うのです。民間では、さまざまな工夫をして、厳しい状況を抜け出そうとしています。大学もそれぐらいの覚悟が求められています。「それでは、30年かけてやります」などと言うわけにはいきません。「大学を世界トップ水準にしたい」という話の一方で、リストラは30年かけてと言うのでしょうか。本当にやりたいと思ったらやる、やる権限がないのなら、権限を付与する制度改革を行うと、次はそういう話になるでしょう。

  • 地方大学は、やはりいま悩んでいると思います。自分たちのレゾン・デートルは、何なのか。地方発の面白い研究をしている先生や学科もあると思います。その人たちの芽をつぶすことは、あってはならない。しかし、それであれば、そういう研究以外の周辺部分も含めて、現状のままでいいのかと言われると、むしろ各大学は秀でたところに特化したり、他の拠点に集約したりする(分校化などを含む)のでもよいのかもしれません。

  • また、教育面を中心に、地域で必要な人材について、地域の人たちともう少し考えたほうがいいと思います。その地域を今後、どこへ引っ張っていくかと考えたときに、必要な人材をつくらなければなりません。先のとおり、社会科学でも、日本で不足している人材が沢山いるのですから、それを専門に育成する学科を立ち上げてもいいと思います。この分野なら何々大学に行けば可能だ、その大学出身者はそういうスキルを持っている、だからあらためて会社で研修させなくても即戦力として使えるという評判を得るだけでも全く違ってくるのではないでしょうか。

  • そのような人たちが地元企業に行くことで、地元企業の力も上がります。このため、何を目指して教育を行うのか、ターゲットを明確化する必要があります。ターゲットを決めるのに、民主主義で、あれもいい、これもいいでは、何か無難なものにまとまってしまい、今までと大して変わらない可能性もあります。ある程度、何をやるのかをクリアにして、そのための基礎的な教養として、リベラル・アーツがあってもいいのだと思います。たとえば、この前、ある大学の学長さんにお話を聞いたのですが、教養教育は放送大学を活用しているということです。大教室で聞くなら、放送大学で聞けということなのでしょう。

  • それで、ある程度の知識の幅や、ものの考え方の多様性、方法論を学ぶことができれば、あとは先生と対話しながら学び、最後はスキルになります。こういう教育であれば、いまの全ての大学教員を大学が囲う必要はないのかもしれません。つまり、放送大学の講義を、オンデマンドで引けるようなシステムにしてしまえば、自分でカリキュラムを組むこともできるわけです。そのような教育手法と大学を組み合わせるような工夫も一案です。そうすれば、人件費は大して必要とはならないので、こうした部分の予算をグッと減らし、それで他の必要な教育・研究分野に還元することが考えられます。

国立大学法人化の問題点
  • なぜ大学は単科大学ではなくて総合でなくてはならないのかについて、はっきり言えば、超有名大学であっても、決して学際的な研究が行われているわけではないという問題をどう考えるかです。学部が違えば、教員同士でほとんど話もしたことがないというようなことがあります。おそらくそれがユニバーシティであるためには、もっと学際的なことをやらなければいけないと思うのです。現実に行われていないのであれば、単科大学の集まりと同じです。そこに、もしかしたら何か日本の学問の可能性が、まだあるのかもしれません。そうであれば、積極的にその可能性を示す方向でやってもらいたいものです。

  • 総合大学で、フルセットで、しかも教育と研究をある程度、両方やっていくということは、それほど簡単ではないのではないか。したがって、総合大学に与えられた課題には、結構大きなものがあります。いまは、帝大系は、他の大学に比べても恵まれていてというような話だけが聞こえますが、それは現状にとどまるのであれば、そういう議論ということです。世界トップ水準にある学部を抱えている総合大学もあるのですが、そこにとどまるのか、さらに総合性のようなことを考え、もっと欲張って、必ず違う学部、学科の人ともっと交流をするとか、何か工夫ができないでしょうか。

  • それから教養教育大学については、学費を中心に据えていくことになると思います。教育を中心にやる限りにおいては、全てを丸抱えで国が面倒を見る必要性は乏しくなっています。ある程度、学費も上げざるを得ないでしょう。基本は学費をベースにして、ある程度、国としての必要性を考えて国費を投入していくということです。さらに、地域に必要とされる人材をつくるため、地域との関わりが非常に強い学部、学科をつくるのであれば、むしろ地方費を入れるというやり方もあります。

  • それから教員養成系は、ラフに言えば地方公務員を養成しているわけです。私学を経て教員になる人と、国立大学を経て教員になる人とで、明らかに国立大学のほうが学費的な面でも優遇されていますが、その理由は何なのか、大変微妙なことだと思います。もう少し学費ベースで、むしろ県立大学として教員を養成してもらうということも考えられるのではないでしょうか。

  • こうして、いくつかの大学のパターンに分かれてくるのが、機能の分化です。そこをうやむやにして、取りあえずお金を増やしてというのでは、問題意識もはっきりしないし、説明責任も問われません。本当の意味でよい教育や研究をやってもらうため、そういうことをむしろ考えていただきたいと思うのです。

  • 大学の戦略を明確にするなかで考えることかもしれません。「研究をやるときに、若い人がいるということは非常に大事なことだ」ということを、ある外国のノーベル賞学者から直接聞いたことがあります。そういう意味で、研究独法だけというのも、研究の位置づけからして、必ずしも十分ではないこともよく分かります。まさに若い人たちが斬新な発想で、先生が当然だと思っていたことを、そうではないのではないかと考え、そしてそういう若い人たちとディスカッションをする中で、自分自身の考えもまた変わっていくというようなことがあっていいと思います。つまり、そういう研究であれば、教育と、ある程度オーバーラップしてもいいと思いますが、それはかなりコアな学生たちでしょうね。学生全員がそのようなかたちで、参加していけるかどうかはわかりませんが。

  • なお、学部からのしがらみや研究の馴れ合いを断ち切るためには、研究大学院大学はよかったと思います。つまり、学部からずっと同じ研究室で、子弟の関係にあり、この先生はこう思っているから、学生はもう分かっているだろうからということで、ディスカッションがなかったりというようなことが、学部と異なる研究大学院大学に行くことで、もう一回、1からやると聞いたことがあります。それで新たに発見されるものが出てくるかもしれません。研究大学院大学もあっていいし、総合大学のある程度基幹大学のなかでそういうような人を育てていくということもあってもいいかもしれません。

  • 財審の資料にも、はっきり教育と研究の接続において、柔軟な組織、学生と教官の円滑な大学間移動が大事だということを書きました。その心は、たとえば一旦自分は教育を中心にやろうと思って入ったけれど、やっているうちに研究をしたくなってきた学生もいるだろうし、あるいは研究でやって来たけれども、やっぱり後進の教育を中心におきたいという先生もいると思います。ポイント・オブ・ノー・リターンはないわけで、方向転換しようと思ったときに変えられる、自分の生き方なり自分の目指す方向をチョイスできるように、できる限り自由であるべきだと考えたのです。

評価の問題点
  • 分野別の評価が絶対に必要だと思います。いま手間がかかっていると言いますが、評価が高い人はべつに、あるがままを記述すればおしまいですが、何か説明に窮する人は、言葉を重ねて分量で見せようとしているのでしょうか。しかし、それは、あまり意味がない。あるがままに見ていくしかないのだと思います。また、分野をまたがった比較は難しいですが、分野のなかでは、全国的に見て、ある程度複数の専門家が見ながら、評価をつけていくことを行わなければならないでしょう。そうせずに、評価をやめるとなると、何をやっているかが分からなくなります。すると、皆に取りあえず金を撒いておくか、取りあえずどこにも金を入れないということしかないわけです。しかし、物理にせよ化学にせよ、やはり分野のなかでは、こちらのほうが研究水準は高いとか、そうでもないとか、ある程度常識的な判断があれば、そのなかで相対評価をしていくしかありません。

  • 分野横断的な評価については、総合科学技術会議でS、A、B、Cをつけているが、往々にして全てSとAばかりになってしまいがちです。これでは査定の判断基準として参考にならないので、去年申し上げて、件数ベースでのバランスはよくなってきました。しかし、金額的には、まだSとAが多いのです。これを見ても容易ではないのですが、できないと言われてしまえば、あとは最初からシェアを固定して、配分するしかなくなります。シェアを大胆に変えろと言うのであれば、どの分野に金を注力するかを決めなくてはなりません。そのためにも評価が必要なのです。文科省がさじ加減で決める話でも、財務省が何か言う話でもないことです。満点でなくても、ある程度のもので傾向をつけ、少しずつやっていくことだと思います。

  • 教育に特化して評価を上げていくとか、そういうことを考え始めてもいいわけです。また、自然科学も専門化しすぎているから、多様な分野を基礎科学的に教え、どこの分野でもやっていける人材をつくることを売りにするのも一案でしょう。最先端ではなくても、たとえば、そのような人材をつくる学科にしていくなど、次のステップに進むことを積極的に考えてほしいです。兎に角、現状維持だけを考えていると、厚さで勝負ということにもなりかねません。それではよくある学生のレポートと変わりません。

  • 霞ヶ関は、学問の深いところや大学のしきたりには疎いかもしれませんが、大学の成果なり教育をよくするための人間行動、学部間で意見の違う人たちをどのようにして調整するかというテクニックなどは、むしろよくわかっているかもしれません。往々にして、議論がレッテル張りに堕してしまって、「役人だから」とか、「知らないくせに」とか言われますが、何の解決にもなりません。大学のことは大学人が一番わかっているのであれば、その学問の奥義に基づいて、どういうメカニズムが大学に必要なのかを提案してくれればいいわけです。

  • とにかくお金を増やしてくれ、根拠は不明確だが予算も倍だというのであれば、われわれは言葉もありません。改革に手をつけず、いまあるものを倍にしろと言っているだけに聞こえます。私は聞きたいのです。予算を倍にして、具体的に何をしたいのですか?大学の教員数を増やすのか?給料や研究費を増やすのか?それで高等教育がよくなるのですか?給料を増やしたり、人数を増やしてよくなるのであれば、それほど簡単なことはない。しかし、生物学的に考えても、いまの倍にすればよくなるなどということは、単純には分からないことでしょう。非常に非科学的ですし、逆に科学的であるならば、積算を示し、検証したうえで、その案を持ってきてほしいものです。

  • 何度も言いますが、何かを削ってこちらに持ってくるという発想がないので、何でも増やせばいいというだけでは、多々益々弁ずにすぎません。予算制約なり、希少性の問題があるから、いまの水準があるのです。とにかく増やせというような議論は、あまりにも粗雑です。「積算もないし、どの予算を削るのか」と尋ねても、誰も正面から答えてくれません。まず、現在の予算のなかで、できることを尽くしているのか、何をすべきかという案が必要なのです。

  • 他を削減してでも、資源を追加投入することの効果が見えるなら、議論の俎上にのぼるでしょう。つまり、現状を変えてアウトプット効率が良くなるとして、もう少し増やせば、ここまでできるということが説明できればということなのです。その結果、外部性が高まったり、新産業があちこちで起こってくるとなれば、もっと投資したほうがいいとなるでしょう。いまは、まさに、ベネフィットが判然としないままに、とにかくコストだけ倍にしてくれという要求になっています。そして、「なぜ?」と問えば、「人材立国だから」とか、「教育立国だから」とか、抽象論で、言葉だけ踊っています。よく意味が分かりません。結局埒があかないので、「それでは、大学を国民はどう評価しているのか」という最初の質問に戻るわけです。大学というと、みな敬意は表しますが、「それでは、大学のために消費税を1%(=2.5兆円)上げてください」と言われれば、おそらく困惑するのではないでしょうか。

  • なぜなら、効果がよく見えませんから。何をしたいのかが具体的に見えないのに、お金を払ってほしいというのでは、何で自分が払わなければならないのかということになります。説明責任は、そういうところでも大事になるのだと思います。

  • 教育のサプライサイドの人だけで議論をしていては、駄目ということです。これは教育界全体に言えますが、教員関係者だけで議論をしているから、世間と遊離した議論になってしまっています。小中学校であれば、教員をいかに楽にするかというような議論ばかりが提案されてきます。給料を上げよとか、人数を増やせとか。しかし何か違いませんか?教育をシステムとして考えたときに、どこをどう改善したらよいのか?雑務が多いから人を増やせと言うのであれば、雑務を減らせばいいではないですか。そういう議論が出ないのは、供給者側だけで議論しているからです。教育の受け手など、外の声をもっと入れるべきだと思います。

  • 大学でも、外の声を取り入れて、自分たちがやっていることのどこに課題があるのか、どこを変えるべきか、もっと注文してもらって初めて大学はいい形になると思います。そして共感者が増えれば、大学に寄附しようという人も出てくるかもしれません。ところが、それがないままで大企業に寄付してくれと言われてもかなわんとなるわけです。出掛けていけば寄付してくれると思っている人もいるようですが、世の中そんなに甘くはありません。

  • 第一期が終わってすぐに理想像に到達するわけにはいかないかもしれませんが、第二期のあいだには、その方向への道筋をつけてもらい、第三期には実現するということにしていただきたい。できれば、第二期のあいだに、改革を遂行してもらいたいですが…。私は、それが最終的に大学の教育・研究水準の向上のためになると思うからこそ強く申し上げているのです。