2008年10月23日木曜日

大学職員論の変遷-2

前回からの続きです。

事務職員の果たす機能の拡大と養成

大学が「国家ノ須要二応ジル学問技芸ヲ教授シ其ノ蘊奥ヲ攻究スル」(帝国大学令1986年)ところから「学術の中心」として「広く知識を授け」「深く専門の学芸を教授研究する」場として、「知的、道徳的、及び応用的応力」を伸ばす場となり(学校教育法1947年)、今日の知識基盤社会においては、大学は「教育機能を充実し、先見性・創造性・独創性に富み卓越した指導的人材を、幅広い教養を様々な分野で養成・確保する機能を果たす役割をもち」、また、「活力ある社会が持続的に発展していくためには、専攻分野についての専門性を有するだけでなく、幅広い教養を身に付け、高い公共性・倫理性を保持しつつ、時代の変化に合わせて積極的に社会を支え、あるいは社会を改善していく資質を有する人材、即ち「21世紀型市民」を多数育成する役割をもつことになる」(我が国高等教育の将来像中間報告2004)。

大学は教育と研究を本来的な使命とするが、現在においては第三の使命として、社会貢献(地域社会、経済社会、国際社会)を大学の使命として捉える時代となっている。具体的に言えば、入学者の確保、就職支援活動いわゆる入口・出口の業務の多様化、留学生の福利厚生、奨学金業務、学生の心理・精神面のケア、生涯学習や産官学連携など幅広く業務展開を必要とされている。さらには社会・経済情勢の変化に伴い大学の経営環境は厳しさを増しつつある中で、みずから経営努力を行うことが不可欠となり、企画立案や渉外広報といった将来計画や戦略に関わる機能も要求されている。

この新しい機能と事務職員の役割についてはすでに多くの論考が発表されているが、初期の包括的なハンドブックとして、日本私立大学連盟・広報委員会編『私立大学職員入門』(1985)、日本私立大学連盟編『私立大学のマネジメント-〔職員必携〕-』(1994)の2冊を挙げる。前者は恐らく日本における最初の大学職員に対する業務ハンドブックであり、後者はその後の環境変化を踏まえ、新たな役割・機能の部分を加えた、新訂版である。後者で孫福は私立大学のマネジメントの問題点として「大学運営がまだ専門職業として成熟段階に達していない」ことをあげている。1994年段階での状況認識がわかる。前者において七澤が教学と運営、言い換えれば教員と職員は「車の完全な両輪である」と言い切っている認識からの変化が読み取れる。

機能分化は専門性の議論に広がる。1990年代前半ぐらいまでの課題が事務職員の存在根拠を問題にするものであったのに対し、1990年代後半からは、大学行政の担い手としての事務職員には専門性が必要で、どのように養成するかに重点が置かれている。たとえば、土橋(1999)は、大学行政は専門職であると言い切り「大学の機能が変われば行政・事務職の役割も変わる」、山本(2001、2002)も独立法人化を前にして国公私立大学中堅職員へのアンケート結果の分析から、能力向上を図る分野として経営戦略、長期計画などの企画能力や、知的財産権、情報ネットワークなど新たな分野の専門的知識修得に関心があること、大学院が開設されたり、大学研究センターの公開講座に人が集まることから、資質向上意欲と危機意識の高まりの中で、養成の必要性とその困難さを述べている。

現職の学長が事務職員について述べたものは少ない。ここでは2004年4月からの独立法人化を前にした学長(総長)の記事を紹介しておこう。佐々木(2004)「(法人化によって研究と教育に従事する教官団に変化はないとした上で、むしろ大きな影響を受ける、その帰趨を決める事務官集団について)事務官集団を中央官僚制の末端として位置づけるのでなく、研究教育のサポーティング・スタッフとして位置づけることになり、事務官はどの領域で研究教育活動をサポートする役目を果たすかについて明確な目標と意識改革が求められることになる」(2004年1月10日 日経新聞朝刊)

プロフェッショナル養成については、小方(2001)がある。専門職養成の大学院(学部)における知と現場の知の関係について考察した論文であるが、いまだ学問として確立されていない、しかし職業(現場)サイドからのアプローチがある場合、即ち大学職員養成プログラムにおける現場の知の導入について一つの示唆を与えている。国外については特に述べてこなかったが、人材育成について米国の紹介記事を一つだけ取り上げておく。本間(2003)、グローバリゼーションの波は日本の大学システムを世界標準にすることを迫っている。世界標準とはとりもなおさず米国をモデルにし、学長のリーダシップのもと運営を行う形であるが、人材は不足している。この紹介記事は、変化する職員の役割と人材育成の特集の一つである。

人材育成であり人材養成である目的は、能力開発である。先に教員の能力開発がいわれ、FD(Faculty Development) が広まり、すぐに呼応してSD(Staff Development)いわゆる事務・技術職員開発が言われはじめた。孫福(2003)はSDの概念、枠組さらには展開について手短にまとめてある。もう1点は、山本(2004)筑波大学大学研究センターの「大学経営人材育成に関する短期集中公開研究会」の記録である。報告者の報告もさる事ながら、参加者との質疑応答が面白い。それぞれが抱える問題を素直に出し議論する、真摯な熱意が感じられる。現場の経験を知に変換し、共有するところから能力の開発につながる。啓発されるところ大である。大学の役割が変化するにつれて職員の能力開発が求められる。

最近の職員論の流れ

ところで2004年から2005年にかけて刊行された論考を見てみると新たな考えを読み取ることができる。西田(2005)の報告があるシンポジウム「教学支援と大学改革-FD、SDからPD(Professiononal Development)へ」の記録を見るともはや教員とか職員とかの役割区分では対応できない大学の構造変化があり、質的向上をはからなければならない状況にあると。また、江口(2005)で私立大学のみならず独立行政法人化された国立大学においても同様な問題意識がある。いくつかの伊原(2005)のポジショニング論は先見の明があったといえる。これらからいえることは、大学経営を担う人材は、素人が事務処理として行ってできるものではなくなり、経験的にも裏付けされ、理論化された知識を身につけたプロフェショナルによって運営される必要性が指摘されている大江(2005)。

なお、その名も「大学職員論」とタイトルされた本が刊行された篠田(2004)、大学行政管理学会大学人事研究グループ(2004)。ここに来て1994年に孫福が問題とした専門教育が成熟段階に達したとは言えないまでも、専門家教育へ着実に歩みを進めているといえるだろう。

あえて付け加えておくとすれば、座談会形式による議論はあるものの、体系化されたかたちでのまとまった職員養成を論じたものは少ない。それは経験的に必要とされるなかで養成が行われてきたからであり、ここに来て個々の大学において制度化され始めた動きが見られる。伊藤(2005)。私立大学連盟の座談会「職員業務の新たな展開」(2005)、「大学経営を担える人材養成」(2005)がある。

おわりに(若干の注記をかねて)

大学職員についてその起源をたずね、政策的な観点からの位置づけを見て、制度的な面も一瞥した。大学の新たな役割が求められる現在、大学職員自らが事務職員の存在・必要性を問い直し、危機とも言える状況にあって新たな位置づけを模索する地平にいたった。自ら存在を主張し、能力開発に意欲を燃やす時にいたったと認識できた。その意味で井原氏の言は正しい。いわく職員の役割論に終焉を。夫婦論、両輪論、黒子論の終焉である。

職員論を整理していくなかで、できるだけ拾ってみると事例研究・発表が多いことに気付いた。また大学の在り方論は大状況としてあり、今後の大学の方向性を問うものが多々あった。一方ミクロ的な考察は少なかった。そして職員を直接対象としたものはなお少なかった。座談会での意見や事例研究を通じて暗黙知が形式知となるのはいつなのか。<暗黙知と形式知の相互作用については野中(1990)を参照>。私自身の問題意識からは、大学職員論をたどっていく中で、内面における職員とは何かという問いにとらわれることはなくなった。

最後に今後の試論展開の視座について述べておきたい。
今後ますます大学職員に要求される能力は多様化するであろう。大学が高度な研究や多様な教育プログラムを提供し続けなければならないからである。プロフェッショナル集団を作り出すために個々の大学で組織つくりが行われる。一例として、立命館大学の大学行政研究・研修センター(2005)がある。
このセンターは21世紀の大学職員像を求めて、実践的に人材育成をおこなうものである。今後は大学職員論のその後の展開については引き続き視野に入れるとともに、職員が働く場である組織構造に視点を移してみたいと考えている。