2009年9月8日火曜日

沖縄旅行記 2009 (13)沖縄の苦しみと闘い-虐殺

今年の夏休みを利用して訪問した沖縄の旅日記をこれまで12回にわたってご紹介してきました。

年に一回程度の観光気分の旅行では、沖縄の本当の姿を理解することはできないのかもしれません。
しかし、短い時間でも、実際に自分の目や耳を使って、肌で沖縄を感じることはとても大切なことだと思いますし、私自身今回の旅行でも得られたものはあったと思います。

また、沖縄の思い出をどこまで自分の記憶に留めてくれるかわからない幼い子ども達であっても、普段の暮らしの中ではなかなか経験できないことを旅を通して体感させてあげることができたことは、決して無意味なことではなかったと思います。

さて、今回も昨年に続き、沖縄訪問前に「森口 豁(もりぐち・かつ)」さんの本を読みました。この日記でも既にご紹介しているところです。

日本の歴史や文化にとって特別な場所である沖縄への訪問を、単に珍しいものを見たり食べたり、美しいビーチを楽しんだりする観光だけで終わらせてはいけないのではないか、多くのかけがえのない命を奪った沖縄戦のことを少しでも学んで帰ることが、平和にあぐらをかき、飽食に慣れきった現代の日本人としてとるべき行動なのではないかと考え、予習として森口さんの本に目を通すことにしました。

昨年は、「だれも沖縄を知らない 27の島の物語」という本を読みました。今年はそれよりも以前に書かれた「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」という本を読みました。いずれも、私の全く知らない”沖縄の真実”が描かれてありました。

戦後60年余の歳月が過ぎてしまった現在では、この本に描かれた”沖縄の真実”を実際に垣間見ることは困難でしたが、沖縄の人々の命や絆を踏みにじったあの悲惨な沖縄戦が、いま自分が立っている澄み切った空と海に囲まれたこの自然豊かな地で繰り広げられたことを思うと、敵国ばかりか同胞であっても人と人が憎みあい、殺しあう戦争というものがこの地球上から完全に消滅してしまうことを、そのために私達自身が平和を維持するためにあらん限りの努力を尽くさなければならないことを改めて考えさせられました。

森口さんの長きにわたる精緻な取材に裏付けられた、そして限りなくリアルに表現された文章から浮き出てくる”沖縄の真実”は、戦争に殺された無数の沖縄の人々の無念さを私達の心に焼き付けます。是非とも森口さんの心の叫びが投影された”沖縄の真実”を手にとって全てのページに目を通していただければと思います。

沖縄は、戦後60余年経った今でも、米軍基地問題をはじめとする様々な問題を抱えています。私達は、日本人として、これらを「沖縄固有の問題」ではなく、私達「日本人の問題」として正面から真剣に考えていかなければなりません。

今回の沖縄訪問に当たって読んだ本 「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」 が私の心に突き刺した、沖縄戦中の「日本人による日本人の虐殺」、そして「基地と安保」を抜粋しご紹介します。”沖縄の苦しみと闘い”を一緒に考えていただければ幸いです。


沖縄人

「沖縄人はみなスパイだ。殺せ」

壕捜しという敵情視察と見まがうような行動が、日本兵にスパイと思わせたのかもしれない。しかし大城は、自分を「スパイ」と言ってのける日本兵に我慢ならなかった。彼は戦前、近衛師団の一員として皇居の防衛任務についた経験があり、「日本人としての誇り」さえ持っていたからだ。

それを知った相手はピストルの銃口をそらした。だがその直後、近くにいた沖縄出身の若い男がいとも簡単に撃ち殺されるのを見た。怒りが全身をゆすった。「いったい沖縄人とは日本にとって何なのだろうか。戦争前は前で、住民総出で日本軍の飛行場建設や防空壕掘りに協力したのに・・・。

たしかに沖縄人の軍に対する「協力」は献身的であった。満17歳から45歳の男は一人残らず防衛隊員として最前線に立った。それゆえ犠牲も大きかった。だから、裏切られたことへの反動はひときわ大きい。

沖縄には「他人(ちゅ)に殺(くる)さってん寝(に)んだりしが、他人殺(ちゅくる)ちぇ寝(に)んたらん」ということわざがある。他人に痛めつけられても眠ることはできるが、他人を痛めつけては眠ることができない、という意味だ。沖縄人の根のやさしさをよく表している。

国土のわずか1パーセントにも満たない面積の小さな沖縄島に、在日米軍基地のほとんどを押しつけつづけて平然としていられるのは.「他人に痛めつけられても我慢しつづける沖縄人」 への甘え以外のなにものでもないが、要は、沖縄人の胸のなかにも「遂げられないこころの嘆き」が鬱積していることを知ることからはじめる必要がありそうだ。

天皇の軍隊 終戦後の戦争

狂気の守備隊長

久米島・仲里(なかざと)村の東南にひろがる浜の名を「イーフの浜」という。イーフとは、土地の言葉で入江をいう。房総の九十九里浜や高知の桂浜のような大きな浜は望むべくもない沖縄の島々だが、小さな島のなかにあってこの浜は文句なく大きく広く美しい。ゆったりと弧を描いた浜を染めるコバルト色の海、栗色のこまかな砂をなでる柔らかな波。沖合の環礁にくだけ散って空に舞う波の花・・・。

そんな美しさに目をつけた日本の観光資本がここにリゾートホテルを建てた。浜の名は「イーフビーチ」に変わり、更には関西や関東から若者たちがやってきて、束の間の”リトル・ワイキキ”を楽しむ。そのような光景を見ているかぎり、かつてこの海が日本軍に殺害された住民の血で赤く染まったことを想像するのは難しい。日本兵が振り降ろした軍刀によって生を絶たれた親子3人の血は、浜に瀟洒(しょうしゃ)なリゾートホテルを建てたヤマトの民によって歴史の彼方へ押し流されていくかのようだ。

それにしても、日本軍がこの島で引き起こした住民の連続大量殺害は、ヤマトンチュであるぼくに身の置きどころを失わせる。これは戦争のなせる業なのか、それともこの島に配属されていた日本軍の資質が飛び抜けて悪かったからなのか、はてさて日本人はもともとこのような残虐性を秘めた民族なのか・・・。いずれが理由であれ、こうした蛮行はのどかな沖縄の島々には不釣り合いだ。

殺害された21人のなかには7人もの幼児や子供が含まれていた。そのうえ、どのケースも沖縄戦が終わった6月23日以降(うち二家族は天皇が敗戦を宣言した8月15日以降)に起きている。この事実の前では、どんな言い訳も島の人たちには通用しないだろう。何から何までが不条理すぎるのだ。(途中略)

この人たちを殺害したのは、島に駐屯していた日本軍守備隊(海軍電波探信隊、隊員約30人)である。彼らは島の北部にそびえる大岳の山頂近くに本部を置いていた。なぜ、どのようにして自国民に手をかけたのか。ぼくのファイルのなかには、同隊隊長の鹿山正(かやまただし)元兵曹長(徳島県出身)が取材記者に語った証言(「サンデー毎日」1972年4月2日号と3月25日付「琉球新報」)がある。

そのなかで鹿山元隊長はこう言っている。

「なにしろワシの部下は34人、島民は1万人もおりましたからね。島民が向こう(米軍)側に行ってしまったらひとたまりもない。だから島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。島民を掌握するためにワシはやったんです」

そして個々の殺害について、つぎのように言う。

小橋川共晃、糸数盛保さん殺しについて-

「これはその、スパイ行為ということですね。前者は私直接には行きませんでしたが、軍隊を派遣してやらせたわけです。処刑は銃剣でやるように命令しました。突くようにね。ええ、火葬にしました。家といっしょにね。それからあとかたづけをするように村長に命令しました」

安里正二郎さん殺しについて-

「これは私自ら、その、拳銃で処刑しました。ええ、拳銃を一発撃ってね」
「どういう点を(久米島の人たちが)怒っているかということが問題ですね。その時の状況は、各部落とか村とか警防団からの情報を総合して処刑した。また、日本の国土防衛の点から考えてやった。(いまになって)あやまることは、日本の極東防衛のために散った人たちに対して、ひとつの冒涜になると思う。あやまったからどうなんだ、というような立場はとらない」(カッコ内は引用者が加筆)。

小橋川さんは北原区の区長、安里さんは郵便局員、糸数さんは警防団長だった。安里さんの「罪」は、米軍から託された鹿山隊長あての投降勧告文書を届けたことであった。区長の小橋川さんと糸数さん、それに宮城さん一家、比嘉さん一家は、区民が米兵に拉致されたことを軍に届けなかったことを問われた。鹿山元隊長の言う「火葬」とは、死体もろとも家に火を放つことであった。家屋敷まで焼き払ったことについて、鹿山元隊長は「密議をこらした場所だから」と説明する。

イーフの浜で殺されたのは仲村渠(なかんだかり)明勇さん一家3人だ。仲村渠さんは投降勧告にむかう米兵の道案内をしたことが「スパイ」とされた。谷川昇さん一家の場合は、谷川さんが朝鮮人(朝鮮名、具仲会)であったことが災いした。朝鮮の人たちへの差別意識が戦争という非常時のなかで具現化した。しかも谷川さんの仕事は行商で、日頃から島のなかを歩き回ることが多かった。それが鹿山隊長にあらぬ疑いと不安を増幅せることとなった。

日本軍はこれらの人たちを「スパイ」や「非国民」と言って断罪したが、住民側からすれば彼らはそれぞれ「命の恩人」であった。住民に戦禍が及ぶのを案じ、常に住民の先頭に立って動いていたのは彼らであった。米側に艦砲射撃をしないよう懇願、実現させていたのは仲村渠明勇さんであったし、「鬼畜米英」をおそれて逃げ回る住民に投降を勧めていたのは比嘉亀さんや宮城栄明さんであった。

住民の悲憤

「何がスパイだ。何が軍人の誇りだ。自分は山の壕に隠れ、酒をくらい、女をもてあそび子供までつくらせ、住民に銃を突きつけて食糧を奪い、あげくにはスパイと称して虐殺する」

「武器もないのに部下に夜襲を命じ、それを拒めばこれも殺す。こんな鬼畜のなかの鬼畜はみんなで八つ裂きにしないと死んだ人の霊はうかばれない」

久米島の住民は沖縄のなかでもおとなしい気性で知られる。その人たちが鹿山元隊長の発言を知って怒り狂った。島ではながいあいだ、「鹿山は罪を反省し、郷里に帰ったあと仏門に入った」といううわさがもっともらしく伝わっていた。それだけに、戦後四半世紀を経て伝えられた証言へのショックは大きかった。

地元具志川村の村議会はすばやく臨時議会をひらき、鹿山元隊長の謝罪を求める決議をおこなう一方、日本政府に対しては、国の責任できびしく対処するように求める決議文を送った。沖縄本島では「鹿山を極刑にせよ」と、保守・革新が歩調を合わせて満場一致で決議する自治体まで現れた。「これを機会に、日本の国家と軍隊=自衛隊の本質を究明しよう」との声も高まった。沖縄の施政権返還を境に1万人近い自衛隊員の配備が進んでいることが背景にあった。

鹿山元隊長はインタビューに答えて「島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするため」の措置と言った。事実ならば「住民へのみせしめ」が目的ということになる。みせしめは、理不尽で、残虐で、人びとにあたえる恐怖感が大きいほど有効だ。だから罪のない幼児や子供の”処分”は、軍にとってはこのうえなく効果的なことに違いない。

だが、ぼくの関心はそこにはない。ぼくが気になるのは、この人のかたくなさだ。戦後久しい歳月を経ても変わることのないこの傲慢さは何なのだろう。・・・



(つづく)



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