2009年9月2日水曜日

沖縄旅行記 2009 (10)沖縄戦争資料館

渡嘉敷島にいた時のように「朝の集い」というものがないので、少し寝坊して午前7時に起床。今日は残念ながら沖縄旅行最後の日、夢の中から現実に戻らねばなりません。

荷造りを済ませ、早々にホテルを出発し、高速道路を南下し、一路南部の「沖縄県平和祈念資料館」に向かいました。

我が家では、沖縄を訪問する時には必ず「平和の礎(いしじ)」にお参りすることにしているのですが、今年は、同じ公園内にある資料館にも足を運ぶことにしていました。資料館は、予想以上に内容のあるものでした。

まず、沖縄県平和祈念資料館が「なぜ設立されたのか、何を訴えようとしているのか」については、このページをご覧ください。
→ http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/hajimeni/index.html


資料館入口

沖縄らしさのある建物です



外柱廊
開放的空間がなんとも素晴らしい




資料館周辺のマップはこちらをどうぞ
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/annai/osirase/image/ennai%20map.jpg


常設展示室では、特に次の展示室に目を奪われました。


第2展示室 住民の見た沖縄戦「鉄の暴風


沖縄戦において、日米両軍は、総力をあげて、死闘を繰り広げた。米軍は物量作戦によって、空襲や艦砲射撃を無差別に加え、おびただしい数の砲弾を打ち込んだ。この「鉄の暴風」は、およそ3か月に及び、沖縄の風景を一変させ軍民20数万人の死者を出す凄まじさであった。


60万発の艦砲弾-鉄の暴風 (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争)のなかでも、沖縄戦はとりわけ激しい戦闘が繰り広げられた戦争の一つに数えられている。その戦闘のすさまじさと恐ろしさを沖縄の人たちは「まるで”鉄の暴風”が吹いたようだった」と言い、沖縄作戦に参加したある米兵は「この世のありったけの地獄を一か所に集めたような戦争」と表現した。罪のない女性や子供や老人をも激しい地上戦に巻き込み、死者の数をいたずらに大きくしたことが彼らをしてそのように言わせたのであろう。

その生き証人たちの言う「暴風」と「地獄」とは、いったいどのようなものだったか。(中略)

沖縄県の総面積は神奈川県とほぼ同じである。ベトナムのわずか150分の1程の面積しかない沖縄に投入された戦力が、最大時のベトナム戦争と同規模であることにまず驚く。しかもベトナム戦争が13年間もの長期間の戦争(米軍の本格介入期間)だったのに対し、沖縄戦は3か月。もし「戦闘密度」という言い方があるとすれば、沖縄戦の密度の濃さは並大抵ではないことがわかるはずだ。しかも沖縄戦の主戦場は沖縄本島の南半分(全県土の約30パーセント)だから、戦闘地域の面積は事実上、ベトナムの約500分の1である。(中略)

米軍は日本軍の抵抗力を弱めるため沖縄上陸を前に徹底した艦砲射撃をあびせた。艦砲弾の種類は5インチ榴弾(りゅうだん)砲から16インチ砲といわれる直径約50センチもの弾まで7種類。撃ち込まれた量は、艦砲弾だけでもなんと10トン・トラック2万台分(60万発、20万トン)に相当する。


第3展示室 住民の見た沖縄戦「地獄の戦場」


日本守備軍は首里決戦を避け、南部へ撤退し、出血持久作戦(しゅっけつじきゅうさくせん)をとった。その後、米軍の強力な掃討戦(そうとうせん)により追いつめられ、軍民入り乱れた悲惨な戦場と化した。壕の中では、日本兵による住民虐殺(じゅうみんぎゃくさつ)や、強制による集団死、餓死があり、外では米軍による砲爆撃、火炎放射器などによる殺戮(さつりく)があってまさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵の世界であった。


艦砲弾の喰い残し (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

沖縄戦を生き延びた人たちと話をしていると、よくこんな言葉を耳にすることがある。

「わたしらは艦砲(かんぽー)ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さーですよ。カンポーのね」

直訳すると「自分たちは艦砲弾の食べ残し」、つまり敵の艦砲射撃による猛攻撃からかろうじて生き残った者という意味だ。かつて、容赦なくこの人たちの上に降りそそいだ銃砲弾。”地獄の戦場”からよくぞ這い上がってこれたという感慨である。だが、そうした人びとの感情のなかに、まるで死にそびれてしまったことを嘆くかのような自虐的な響きをぼくは聞くことがある。生き残ってしまったことに後ろめたさを抱いているのである。

助けを求める瀕死の人間に背を向けた者、親や子をも置き去りにして逃げてきた者。ガマのなかで日本兵に命じられるままに泣く赤児の首を絞めた者・・・。戦争は平和時には想像できないような選択を一人ひとりの人間に迫った。

しかし、戦火が止んだ途端、そのような言動を正当化していた後ろ楯は聖戦思想とともに雲散霧消し、価値観は180度変わった。正しいと思い込んでいたことがことごとく否定される。そのような変化に自分を合わせようとすればするほど、自虐的にならざるをえなかったであろう。彼らは自分の過去の行為を肯定したり否定したりしながら、その場その場をつじつまを合わせながら生きているのである。

沖縄戦における住民の死者は4人に1人の割合だから、死者の数は生者よりは間違いなく少ないのだが、死者への思いの深さと大きさは、4対1という比較の枠内にはとても納まりきれるものではない。死者たちを弔う小屋を無人の屋敷跡に建てた理由を、単に死者への贖罪(しょくざい)意識に収斂(しゅうれん)してしまうのはあまりにも単純すぎるが、それにつけても<艦砲弾の喰い残し>とは何と人間臭い発想だろう。ひとたび砲身を離れた弾丸が人を選ぶことはありえないのだが、彼らは自分を喰い残してくれた巨大な鉄のかたまりに魂を見たのだ。極限状況に追い込まれた者のみが共有できる心理なのだろうか。


第4展示室 住民の見た沖縄戦『証言』

沖縄戦の実相を語るとき、物的資料になるものは非常に少ない。無念の思いで死んでいった人たちを代弁できるものは、戦場で体験した住民の証言しかない。忌(い)まわしい記憶に心を閉ざした人々の重い口から、後世に伝えようと語り継がれる証言の数々は、歴史の真実そのものである。


ありったけの地獄-戦争証言が語りかけるもの (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

63人の証言

壁も天井も黒一色。閉じられた窓にも黒のカーテン。外光のいっさい入らない展示室。譜面台に似た台が壁ぎわに32台。その上にセラミック加工された新聞紙大の真っ白な冊子。それには”鉄の暴風”をくぐり抜けた人たちの証言が読みやすい大きな文字で紹介されている(うち一台は英訳文)。すべて、語り口調。ガマのなかにいるかのような暗さも相まって、いっそう現実味を際立たせる。肉声が聞こえてくるようでさえある。(中略)

これらの証言は、沖縄県が収集した749人にのぼる戦争体験(「沖縄県史」第9、10巻)のなかから選び出された。これを日にちごと、場所ごと、テーマごとに分類、日米の軍事資料と照らしあわせて細部を検証し、沖縄戦末期の様相がわかるように構成されている。特徴は、住民の「目の高さ」でつらぬかれている点にある。沖縄戦を住民の視点で語り継ぐにはナマの証言が何よりも大切、との沖縄県の姿勢が”読む展示室”をつくりあげた。

戦争のおぞましさ

展示されている証言の主は、戦争当時10歳から56歳までの男女。日本軍司令部の首里撤退(5月22日)から、多くの住民と日本兵が島尻の果て、喜屋武(きやん)岬に追いつめられた6月下旬までの約1か月分である。短いもので2、30秒。長いものでも2分前後で読みきることができる。一人でも多くの人に読んでもらいたいとの思いから、それぞれの証言の一部を展示するにとどめたからだ。

墓のなかに身を隠し、小便を飲み水代わりに分け合って飲む親子。米軍機からまかれたガソリンに火を放たれて焼き殺される家族。まだ生きている幼い息子を埋葬する父。兵民混在のガマのなかで「泣き声を出すと敵に見つかる」と、親の目の前で赤児や幼児をつぎつぎと絞め殺す日本兵・・・。

そのどれもが日本防衛のための「時間かせぎの戦争」と位置づけられた沖縄戦のなかで起きた。日本側の数十倍ともいわれる物力にものをいわせた米軍の攻撃。そのなかで日本軍から「三等国民」視され、軍事優先の名のもとに抹殺されていった住民。沖縄戦が浮かび上がらせたこれらの事実は、戦争のおぞましさと、軍隊は最後には自国民に銃を向けるものであることを実証する。

規模こそ大きくはないが、突きつけるものの大きさに誰もが息を呑む戦争資料館-。その館から陽光まぶしい外界に出ようとすると、出口近くに、つぎのようなむすびの言葉が彫り込まれた石板が目にとまる。


展示むすびのことば





沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものは
これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない
と思うのです。

このなまなましい体験の前では
いかなる人でも
戦争を肯定し美化することはできないはずです

戦争をおこすのはたしかに人間です
しかしそれ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち人間ではないでしょうか

戦後このかた私たちは
あらゆる戦争を憎み
平和な島を建設せねばと思いつづけてきました

これが
あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです



一巡後、あまりのインパクトの強さにしばらく言葉がありませんでした・・・。
多くの方々がこの資料館を訪れ、戦争の悲惨さを学び、平和のありがたさを感じとることを心からお勧めします。


(つづく)

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