2011年2月28日月曜日

よりよい決定をする

人生の重大な問題について適切な解決策を見つける方法を紹介しよう。

1 自分の能力に自信を持つ。

自分ができると思えば思うほど、ますます大きなことを成し遂げることができる。したがって、できると思う範囲を広げれば、さらに大きなチャンスをつかむことができる。

2 決断力を持つ。

ほとんどの決断は生死にかかわる問題ではない。しかし、多くの人はあらゆる可能性を考えすぎて立ち止まってしまう。何も決定しないより、ひとつのコースを選んで前進するほうがいい。もしその決断がうまくいかなかったなら、あとで修正すればいいだけだ。

3 自分にとって何が一番いいかを考える。

他の人の要望にもとづいて決断をすると、結局、不満を感じやすい。他の人の目標を追い求めても幸せにはなれない。

4 勇気を持つ。

勇気は、適切な答えを導いてくれる資質である。自分の潜在能力を限界まで開発して行動を起こす勇気を持とう。イギリスの名宰相チャーチルは言っている。「勇気がなければ、ほかのすべての資質は意味をなさない」


人生は自分独自の強みを発見し発揮する冒険である

勇気を出し、自分に正直になり、大きな期待を抱き、粘り強く努力を積み重ねよう。そうすれば、自分の決断に対して最高の結果が出てくるはずだ。


ディスカヴァー・トゥエンティワン
発売日:2006-06-15

2011年2月27日日曜日

ニュージーランドに奇跡を

去る2月22日にニュージーランド・クライストチャーチで発生した大地震による被害や生き埋めになった方々の救出活動の様子が連日報道されています。

日本人を含む多くの犠牲者・不明者が明らかにされるたびに、家族、友人、関係者の方々の悲しみ・苦しみはいかばかりかと心が痛みます。

時間との闘いと言われますが、決してあきらめず、ひとりでも多くの生存者が見つかることを心からお祈りします。

天声人語(2011年2月27日 朝日新聞)

「命というものは、はかないゆえに尊く、厳かで美しい」。ドイツの文豪トーマス・マンの言葉という。はかなく厳かに、いくつもの命が明滅したニュージーランドの震災地で、時間との闘いが大詰めを迎えている。

救出されて病院にいるはずの女性が不明に転じるなど、がれきの街が発する情報は千々に乱れた。日本からの家族は倒壊現場に近づくこともままならず、思いの丈はなかなか伝わらない。遠巻きに見守るしかない心痛を察すれば、言葉もない。

被災者の一覧で胸に残るのは19という年齢だ。高校を出、まずは英語を磨こうという若い志である。渡航は初めての人も多い。内向き志向が言われる中、いずれ日本と世界を結ぶであろう面々。活躍の場を海外に広げようとする看護師もいる。

地震を起こしたのは未知の断層で、これほどの揺れは何千年もなかったとする見方がある。その稀有(けう)な時を、前途有望な若者たちが、ひときわ壊れやすい建物で迎えた不運を何としよう。

ホームステイをすると「親」が増える。学生を案じて声を詰まらせる白人夫妻に、この国の優しさを見た。傷ついた街は国籍を超えた祈りに包まれ、週末の現地紙は大きく「希望を捨てるな」と掲げた。雨水を糧に、遠い重機のうなりを気力に変えて、つないでいる命があるかもしれない。

余震に悩まされながら、日本の国際緊急援助隊が夜を徹して作業を続けている。声が出せるなら、母国語で万感のやりとりが交わされよう。今はただ、不明者のご家族と心で手をつなぎ、奇跡の時を待ちたい。


さて、現在、我が国でも、被災地を救援すべく日本赤十字をはじめ様々な団体や個人によって募金活動が行われていますが、大学関係でも、ホームページを通じた募金活動が行われています。

全ての国立大学法人のホームページ(新着、お知らせ等)をのぞいてみた限りでは、ホームページでの募金活動を行っている大学は意外と少なく、少々期待はずれでしたが、おそらくは、教職員や学生など学内向けグループウエアなどを使った活動を行っているのではないかと思われます。

ニュージランドの大学等と国際交流を行っている大学(教職員・学生)もたくさんあるのではないかと思います。友人としてのご支援を心からお願いいたします。

【国立大学】

千葉大学:ニュージーランド南島クライストチャーチでの地震について

被災地域の方々、また被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復興をお祈りいたします。
http://www.chiba-u.ac.jp/others/topics/article2010/20110222nz.html

奈良女子大学:ニュージーランドに渡航中の本学学生の状況について

2月26日に副学長、国際交流センター長を派遣。情報収集及び現地での対応に当たらせています。
本学文学部2回生1名の安否が確認できない状況です。この件については、現在情報を収集しています。
http://www.nara-wu.ac.jp/news/H22news/110224.htm

香川大学:地震による被災地、クライストチャーチを助けよう!!

ニュージーランド南島の最大都市クライストチャーチでM6.3の強い地震が発生し、多数の死者や行方不明者が出ていることを受け、少しでもクライストチャーチの人達の助けになりたいという学生を中心に、学生支援団体「Let's Help Christchurch」を立ち上げ、以下の内容で募金活動を行うこととなりました。
http://www.kagawa-u.ac.jp/articles/000/006/625/

福岡教育大学:「ニュージーランド地震」被災者救援のための義援金募集の実施について

本学では、ニュージーランド地震の被災者に対する救援活動に役立てるため、本学の教職員からの義援金の募集を開始しました。次のとおり救援金を受け付けておりますので、関係者の皆様のご協力をお願いいたします。
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/whatsnew/details.php?id=384

【公立大学】

岩手県立大学生協 義援金受付のお知らせ

多大な被害が出ていることから、岩手県立大学生協では、義援金の募集を行います。集まった義援金は、日本生協連、岩手県生協連などを通して義援金活動の始まった団体にお渡しする予定です。
http://www.ipu.u-coop.or.jp/home/fund/nz/

【高等学校】

関東学園大学附属高等学校

ニュージーランド南島のクライストチャーチを襲った大地震について、心よりお見舞い申し上げます。関東学園大学附属高等学校は平成14年に同国南島にあるクイーンズタウンのワカティプ高校と姉妹校提携を結んで以来、本校と隔年で相互に短期留学を実施しており、またこの短期留学をきっかけにニュージーランドに長期留学、現地のカンタベリ大学に入学する生徒も輩出するなど、被災地と深い関係にあります。本校では、このたびの地震災害に対し人命救助と早い復興を願い、教職員や生徒会、在校生の有志が立ち上がり、以下の活動を実施することとなりました。
http://www.kanto-gakuen.ac.jp/high/news/post-135.htm

【各種団体】

ニュージーランド大地震2011

日本の主たる募金団体で、今回のニュージーランド大地震での募金(安否調査並びに海外救援金の募集)をはじめた募金団体をまとめていきます。
http://sites.google.com/site/christchurch2011jp/

機能別分化・大学関連携の促進・経営基盤の強化

中央教育審議会大学分科会(第93回、2010年12月14日開催)の議事録を抜粋してご紹介します。(かなり恣意的ですが)

国公私立を通じ、大学が直面する重要課題の一端が読み取れます。今後とも高等教育の発展に資する有益な議論の継続が期待されます。

全文はこちらをどうぞ
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/gijiroku/1302001.htm


「これまでの大学分科会の審議を踏まえた論点整理」についてに関する意見交換


樫谷隆夫委員(公認会計士・税理士)

機能別分化、大学間連携、経営基盤、これに関連して、経営的に見たときに、経営的には問題がないところと、このままいけば厳しいのではないかというところと、もう厳しいのではないかといった3つの段階が多分あると思います。このままいけばしばらくは大丈夫というところも、厳しい国際競争力にさらされます。国際競争にさらされて、国際競争に勝っていかなければいけないというところもあります。それはそれで、機能別分化をしないといけない。
また、機能別分化は、企業で言うと選択と集中です。つまり、企業のコア事業、一番得意なところに集中して、ノンコア事業を売却なり整理して、資源を全部一番得意なところに集中して、国際競争に勝とうということが企業の戦略ですが、機能別分化もやはり、企業で言いかえれば選択と集中ではないかと思っていますので、大規模大学といえども、経営的には何となくはやっていけるかもわかりませんが、やはり競争に勝つため、特に国際競争に勝つとなると、機能別分化といいますか、選択と集中を相当大幅にやっていかないと、超長期的には残れないのではないかと思っています。

小杉礼子委員(独立行政法人労働政策研究・研修機構統括研究員)

私は、機能別分化をむしろ底上げで考えていただきたいと思っています。私は調査機関ですので、いろいろ調査していますが、やはり大学に入ってくる層が非常に多様になって、大学生としてなかなか自律して勉強するところまでいくのに時間のかかる若者たちが今の大学にはたくさんいます。そういう学生が、特定の大学に多くいるという状態の中で、そういう大学の卒業生がこの時点で、最も就職できないでいます。それは需要の問題もありますが、もう1つ、供給側の労働力が、やはり十分労働市場に入って、一人前にプレーヤーとなってない若者がたくさんそこにいるわけです。
そこで大学が、入ってきた学生たちをどれだけ高いところまで持っていけるかが大変大事で、ここの力をどうやってつけるかというときに、やはり機能別分化といった考え方の中で、その学生たちに見合った教育を適切に行うことによって、彼らはまだまだ伸びる可能性をたくさん持っています。
この可能性を十分伸ばすためには、機能別分化の考え方の中で、予算をしっかり底上げに使えるような配分をしていかなければいけない。これまでの配分の仕方は、どうしても特定の大学、トップを伸ばす考え方もありますが、そこに集中しがちです。やはり日本の国力の基本は大多数のところにあると思いますので、そこの力、18歳から22歳までにどれだけつけられるかは大変大事なことだと思います。これをどうやっていくか。そこで、やはり予算配分の構造の話を指摘されましたが、そこをきちんと押さえた上で機能別分化を進めていくことが大事だと思います。

川嶋太津夫委員(神戸大学大学教育推進機構教授)

機能別分化は、要するに、個々の大学がそれぞれ特色を持つということだと思いますが、その前に、この第5期の大学分科会が始まったとき、大学が非常に多様化している中で、大学とは何かという議論から始まったと思います。ですから、機能別分化というか、個性化は当然の方向性ですが、大学として変わらないところ、変わってはいけないところをきちんと押さえた上で、機能別分化なり個別化を議論する必要があると思います。
その一方で、やはり大学としても変わらなければいけない部分も当然あるわけで、これについては、例えば、社会的・職業的自立という形で、かなり就業力や就職を意識した形での教育をしなさいというように、これまであまり大学が考えてこなかったことについては、きちんとやりましょうとなってきましたが、不易流行というか、大学としては何かということをきちんと踏まえた上での機能別分化を議論する必要があるということが第1点です。
2点目は、いろいろな提言はされているのですが、言葉だけが躍ることが多いと思います。学士力もそうですが、今回の資料の中にもある厳格な成績評価や、単位の実質化、あるいはGPAという言葉が出ています。GPAも、ただ数字にすればいいというわけではなく、やはり大学の中で、先生方に共通の成績評価の基準があって、その上でそれを数字に直して、初めてその数字の意味が出てきます。アメリカなどですと、グレードインフレーションでAがどんどん増えてくるので、成績証明書のGPAを見ても、本当の成績がわからないので、そのクラスの平均と分散を必ずつけてはどうかといった議論が始まっています。
ですから、大学分科会で改革の具体的な方策を提案される場合は、必ずきちんとした、詳細な趣旨と説明をすることが必要だと思います。学士力についても、先ほど紹介があったように、私も多少なりともお役に立っているかどうかわかりませんが、リーダーズセミナーといったところで、きちんと趣旨と具体的な取組を説明することで、だんだん理解が広まっていくことだと思いますので、政策を出した際に、その辺のケアをいろいろな団体等がする必要があるということです。
最後に、学士課程答申で提案されて、今期議論されなかった問題として入学試験の問題があります。これは、今回の議論の中でほとんど触れられていません。ユニバーサルアクセスや質の問題、機能別分化を考えていくと、18歳をどうやって大学に選抜、選考するかということだけではなく、各大学が特色に応じて、どうやって入学者を決めていくかということ、非常に重要なポイントと思いますので、今後、入学試験というよりは、入学者の選考の問題、アドミッションの問題は非常に大きな課題ではないかということを申し添えさせていただきます。

江上節子委員(武蔵大学社会学部教授、早稲田大学大学院公共経営研究科客員教授)

安西分科会長が、変わる変わるとずっと言いながら変われない大学という話をされていましたが、なぜ大学はガバナンスがなかなか効果的に発言できないのかとか、先ほど金子委員が、大学規模・大学経営部会からの発言で、経営的に非常に厳しいところがあるが、なかなか明快な動きがとれないという話もありましたが、どうして市場から明快な評価が出て、その環境に対してアクションがとれないのか。
その1つは入学の在り方が関係しているのではないかと思います。近年、推薦入学という仕組みを各大学とも、特に幅広い産業人養成や総合的な教養教育の大学は推薦入学を強化してきたと思いますが、それを強化した大学は半数ぐらいが、高校の進路指導主事が高校生を振り分けているような、そういった入試が事実上行われています。高校と大学の依存関係で、市場からの評価が明確に出ない、そういうところもあると思います。私は、推薦も含めて、入学の在り方が、どういうスタイルがいいのかを、大学の機能をもう一度考える上で、就職、大学院進学も含めて、入学と卒業とトータルで再設計をすべきなのではないかと考えます。

有信睦弘委員(東京大学監事)

機能別分化という観点に対して、ここに1から7まで機能別分化の観点が挙げられていますが、ある意味でステークホルダーということの視点ではなく、極端なことを言うと、大学の勝手といった感じの振り分けになっていて、それを受ける側も、それ自身で自分たちのランキングがどうなるかを非常に気にするようになります。実際に就業構造が実は大きく変わってきています。120万人の18歳人口のうちの進学率50%ですから、理論的には、90万人は高校卒で就職していることになっていますが、実際に今の大企業の採用で、高校卒の採用はほとんどありません。つまり、ある程度の知識レベルを備えた人たちでなければ採用されない状況になってきています。
もう一方で、直接労働者の比率はどんどん減っていますから、ある種の特定の知識なりスキルを身につけていない限り、きちんとした就職ができないといった状況になっていますので、そういうことを踏まえて、大学の機能別分化をもう少しよく考える必要があります。
要は、進学率が高くなったということは、逆に言うと、そういう人たちが実際にある程度のスキルを持って社会で活躍する形にしていかなければ、日本の将来がますますおかしくなってしまうこともありますので、そういう観点で少し考える必要があるということだと思います。

黒田壽二委員(金沢工業大学学園長・総長)

機能別分化を進めていくことは、多様化の中で、自分の大学がどうしたら社会から受け入れられるかが根本にあるのですが、大学側の立場としてそういう考えを持っているわけです。その考える方向性を社会に示すために、情報の公開を強く言っていて、これは、ただ大学がたくさんあるので情報を公開しなさいと言うことではなく、自分の大学はこういう人材を養成するということを社会に示すために情報公開をするということです。そういう意味で、教育情報の公表が言われるようになってきていますが、果たしてこの情報公開の中身としてどうなのかと考えますと、表面的に、義務化されたから、こういう内容で出さざるを得ないという程度のことで各大学が対応したら、これは大きな誤りが起きてくると思います。大学機能そのものがなくなるくらいの恐ろしい変化が起きると思います。
大学間連携でも、強い大学が連携している教育研究分野の連携と、本当に困っている大学が連携している姿とがあり、この辺をどのように見ていくかが非常に重要だと思います。同じ「連携」という言葉を使いながら、片方の連携の仕方と片方の連携の仕方が違うということをどのように見ていくか。先ほど、本当に困っているところに光を当てて、再生できるようにしなければいけないという話もありましたが、やはり地方の大学は地方でそれぞれ苦しんで経営をしていますが、その地方の大学がその地域に必要かどうかが非常に問題になってきますので、必要かどうかは、そこにいる住民たちが大学は必要であると、それから、行政も必要である、その地域の経済界も必要であるということになって初めて、その地方での大学が成り立つわけです。地方の人すべてが大事と言われれば、何らかの改革の支援が起きてきます。やはり地方の大学は、地元から見捨てられれば、その大学の価値はなくなりますので、その辺をどのように調整していくか、それが現実として起きている大きな問題だと思います。
先ほど入試の話がありましたが、ほとんどが推薦で入ってしまうような状態になっている中での大学の在り方を踏まえ、ある程度の大学は国際競争力をつけていかなければいけませんが、そうでない大学もあるということは理解をしておく必要があると思います。その地域の中で生きる、そういう大学もあるということです。それを踏まえた上で、全体のことを行政としては考えていかなければいけない。そうしないと、ますます一極集中が進んでしまいます。
先ほど、枠を外すと外国へ行ってしまうということですが、今、日本で起きていることは、上位の人は全部東京へ集まってきているということです。東京の大学に入れれば、全部東京へ来てしまう、そういう状態になって、地方は疲弊しています。去年あたりから親の所得が下がったために、東京まで出せない家庭が増えてきているので、地方が少し歩留りがよくなっている状態なので、決して地方がよくなっているわけではありませんが、所得水準の問題でそういう状態が起きている中ですので、結論的には、ほうっておいたら全部東京へ集まってしまいます。それをどのようにして、満遍なく地域の活性化、日本の国全体を活性化するために、大学教育はどのように配置したらいいか。本来なら大学規模・大学経営部会で議論していただかなければいけないことで、量的規模や地域配置の問題です。そういうことも必要になってくると思いますが、多くのことを議論してここまで来たのですが、これを実際に各大学が実行するときのディテールをどうしていくか、その辺をもう少し詰めていかないと、これを実行に移すときには非常に困難を伴うだろうと思いますので、その辺の検討を今後よろしくお願いしたいと思います。

2011年2月26日土曜日

希望つぶしの名人大会

今朝(2011年2月26日)付の天声人語です。


さまざまな言葉をユーモアと皮肉で定義する私家版の辞典は面白い。「楽天家用小辞典」やら「紋切型辞典」やら名前もユニークだ。中でも米国人ビアスの「悪魔の辞典」は切れ味と毒気の妙で知られる。

たとえば「投票」はこうなる。〈自分自身の愚かさをさらけ出すと同時に、祖国を破滅に導く、自由市民の持つ権力を表わす手段およびシンボル〉(岩波文庫)。ニヤリと笑えないのがつらい。政権交代後の日々を思ってトホホが先に来る人は、少なくあるまい。

民主党代議士会がまた大荒れしたそうだ。菅首相夫人を漫画にした政策ビラをめぐり、「文句あるやつは広報委員になって一緒に作ればいいじゃないか」「何言ってんだよおめえ」。投票で国政を担う選良が、である。

怒った岡田幹事長が「今しゃべったやつは立って。仲間が説明しているときにそういう言い方があるのかね」。小学校の担任のよう、と言えば児童に失礼になる。中東の混迷、原油高騰、地震――現実の激しさ重さと、小物議員ぶりの落差が物悲しい。

古き良き時代は終わったが、新しい時代は見えにくい。自分の人生観や価値観がいつまで有効なのか、誰にも自信がない。「希望の処方箋(しょほうせん)」を書くのが政治の仕事だろうに、希望つぶしの名人大会ばかり永田町で盛大だ。

自分の発言なり行動なりが己をどう利するか。けちな羅針盤だけ頭にのせた顔は、与野党問わず覚えておくにかぎる。同じ輩(やから)に二度だまされるのはだまされた者の責任。ビアスの国で聞いた処世訓に、次なる投票を重ね合わせて。

2011年2月24日木曜日

高等教育にとっての危機の種

正確かつ客観的なデータに裏打ちされた予測のもと、将来の危機に備えた十全な対策を講じることは、健全経営の基本と思われますが、私自身を含め大学人は、企業人などに比べれば、やや緊張感に欠け危機意識に疎い人種が多いのではないか(私見です)と思います。

知らないうちに”ゆでガエル”になってしまわないよう、日頃からアンテナを張って世の中の動向を見定めておくことが何より大切かと思いますし、そのことが結果として”大学の常識と世の中の常識の乖離をなくす”ことにつながっていくのだと思います。

今回は、広島大学高等教育研究開発センター長の山本眞一氏が、文部科学教育通信に寄稿された「将来の危機に敏感なアンテナを-何が高等教育に痛撃を与えるか」を抜粋してご紹介します。



将来の危機に敏感なアンテナを-何が高等教育に痛撃を与えるか


危機は将来突然に

外に危機が迫っていても、中に居ればまったく気が付くことなく突然災厄に巻き込まれることは、何も近所の火災だけではない。成長というものに安住してきた高等教育も同じではないだろうか。

2020年に至る15年間は、質保証を始めとする大学の体質改革の時代となるであろう。体質改革が必要な理由は、もちろん将来の危機に備え、併せて知識基盤社会にふさわしいインフラとなって成長のチャンスを掴むためである。そのために現時点ではまだいささか近未来的な感覚でおられる大学関係者も多いことと思うが、より敏感なアンテナを立てて、早急に対策を講じなければならない課題が幾つかある。

人口再減少の痛撃

第一に、18歳人口の再減少である。私は何度も18歳人口の将来予測に触れ、2020年代から減り始めて今世紀半ばにはいまの6割以下の70万人弱になるであろうと述べてきた。その予測値を裏付ける実測値が次第にそのことの現実味を強く示すようになってきている。図表(略)は、政府公表による各年の出生者数である。若干の死亡率を考慮する必要はあるだろうが、これを18年未来に伸ばすことによって、およそ各年度の入学該当人口の見通しはつけられよう。

これによれば、2001年の出生者から再減少の傾向が明らかであり、つまりは2019年の入学者からその影響が及んで、その後の9年間のうちにおよそ31万人の減少となることが分かる。これは、1970年代半ばに始まり90年頃にようやく落ち着いた急激な出生者減に比べると、大したことがないような印象を持たれる方もいるかもしれない。しかし、仮に2020年代の大学・短大進学率が60%程度に止まれば、それでも4万人以上もの入学者減ということになる。しかも、2030年代になればさらなる減少が待ち構えているのだ。現時点で多くの学校ががんばって何とか70万人弱の入学者数を確保している、つまりゴムの伸びきったような状況の中では、幾つかの大学・短大に最後の痛撃を与てしまう心配がある。進学率がさらに上がるか、社会人・留学生の大学院生が増えればよいが、それを助けるのはさまざまな社会的要因とともに、大学自らが魅力ある学校づくりができるかどうかにかかっているのである。

経営問題としての学費・生活費

第二に、大学教育に係る経費負担の問題である。日本学生支援機構の学生生活調査(2008年)によると、大学生(昼間の学部)が要する学費・生活費は国立大学で年間147万円、私立大学で年間198万円であるそうだが、8年前の調査に比べて学費は5.5%上昇、生活費は逆に27.8%減少している。一方、家庭からの給付は学生が得る収入のうち66%であり、それは10年前に比べて7.3ポイント減少だとのことである。学生やその親がさまざまなやりくりをする中で、学費だけが上がっているという図式であるが、その現実は図表2(略)に示すように、自宅通学とそうでない場合とで大きく異なっている。家庭の経済負担の問題はしばしば大学教育へのアクセスとの関わりで論じられるが、見方を変えれば私学経営そのものにも影響を与えかねない。つまり、大学教育を経済的事情で受けられないということは、教育の機会均等の観点から深刻に捉えなければならないが、同時に大学への入学希望者の多少とも深く関わるからである。

家庭の所得レベルが大学進学に関係があることは、これまでさまざまな調査で明らかになっているが、たとえば給与所得者の収入は、1997年をピークに年々減少の傾向にあるらしい(国税庁調査)。また、前述の学生生活調査で学生が回答する家庭の収入は、国立大学で年間790万円、私立大学で830万円とのことであるが、後者の場合、三年前の調査に比べて3%近くの減少である。加えて、経済のグローバル化や雇用構造の変化によって、この数字はこの先、予想を大きく超えて減少する可能性もある(年収300万円の時代と言い切った経済評論家もいる)。そうなると、さすがに価格の硬直性が高い(つまり、少々高い買い物でも実行する)大学教育にも、その費用というものが利いてくるようになるのではあるまいか。

下宿・アパートの場合の費用は自宅通学に比べてずいぶん高い。このことは、将来、家庭の所得レベルがさらに下がれば、多くの学生が自宅からの通学を選ぶ、あるいは選ばざるを得なくなるかもしれないことを暗示するものではないか。昨年の地方私立大学の定員割れ率が若干改善されたのは、そういった要因もあると聞いている。そうなると、2020年代の安定的な大学経営には、地元に根ざした学生確保ということが重要になるだろう。学生に人気のある大手私学は別として、中途半端な全国型大学戦略は、何か根本的なところで落とし穴があるのではないかという気がしてならない。もっとも、費用の問題は国の大学や学生に対する経済支援の進捗と関わりがあるので、注意深く見守る必要があるが。

職業教育のあり方議論も

第三に、教えるべき教育内容の問題である。これからは質保証の時代といわれて、教育方法やレベルについては、改革が改善はずいぶん進むであろう。しかし、肝心の教える「内容」が、実社会のニーズと乖離しているとすれば、一部の恵まれた学生にはそれでよいだろうが、職業生活に役立つ知識・技能を求める多くの学生にとっては不満の種となり、もっと職業教育をしてくれるところに学生が流れていくかもしれない。今はまだ従来からの大学観が支配的だから目立たないだろうが、やがて大学で教えるべき教育内容について、それを担う教員のあり方も含め、抜本的な議論と改革の動きが起きる可能性が高い。そのとき、多くの大学・短大にとって、その改革の動きに乗れるかどうかが、その先の生き残りに大きな影響を及ぼすであろう。(文部科学教育通信 No.261 2011.2.14)

2011年2月23日水曜日

ポジティブな言葉を使う

自己啓発書は、日ごろ使っている言葉の重要性を力説する。それはなぜか。言葉はたいへん強い力を持っているからだ。あなたが日ごろ使っている言葉は信念を強化し、やがてそれが現実をつくり出す。あなたの心はあなたが自分に言い聞かせていることをすべて聞いて、それと一致する結果をもたらす作業に専念するのである。

「私は一文無しで、苦しい」と何度も言えば、 あなたはそのとおりの環境に身をおくことになる。あなたの心はお金がない状況をつくり出そうとするからだ。

成功者は自分に対しても周囲の人に対しても、いつもポジティブな言葉を使う。仕事で成功したいなら、世の中にチャンスがいくらでもころがっているような話をし、そのチャンスをつかむ方法を考えるべきだ。そうすれば、実際にチャンスをつかみ、ますます大きな成功をおさめることができる。

私生活が充実している人は、ポジティブな言葉を使う。それに対し、たとえば恋愛がうまくいかない人は、「いい相手が見つからない」と愚痴をこぼ す。その結果、皮肉なことに、いい相手が見つからないという現実をつくり出しているのだ。

このように言葉は非常に強い力を持っている。自分が日ごろ使っている言葉を軽んじてはいけない。言葉が現実をつくり出すという認識に立って言葉を使うようにしよう。豊かさ、繁栄、希望、愛、チャンスを強調する言葉を使えば、やがてあなたの心はそういう現実をつくり出すはずだ。


ディスカヴァー・トゥエンティワン
発売日:2006-06-15

2011年2月22日火曜日

寄付金戦略からみる大学の姿

運営費交付金をはじめ、国からの財政支援は益々厳しくなるばかり。そこで各国立大学法人では、科学研究費補助金、各種官民研究助成金、民間企業との共同研究や受託研究など、外部研究資金の獲得に力を入れています。

また、最近では、独自の奨学金を創設したり、修学環境の整備を進めるための基金を設け、積極的な募金活動を展開する大学も増えてきました。

教育研究や学生支援の充実を図るためには、このような外部資金の確保・拡大による財政基盤の強化が必須の時代になっているわけですが、旧帝大クラスはともかくも、地方大学や教育系単科大学では、なかなか思うようにいかないのが現実です。

そこで、ホームページを通じ基金や募金活動を積極的に展開している大学を調べてみました。大学のホームページを覗いてみてわかったことは、トップページに基金や募金の特設ページのバナーが置かれ、ページを開くと、個人や法人などの対象別のページが用意され、税法上のメリットだけでなく、ご芳名の公表、プレートの贈呈など寄付者へのインセンティブについて工夫している大学があります。

さらに、寄付手続きがわかりやすく説明され、ホームページ上からの寄付の申し込みやクレジットカードによる寄付が可能になっているなど、寄付者の利便性に十分配慮した仕組みになっている大学もあります。

一方、寄付金の募集に関する情報がホームページのどこに掲載されてあるのか、サイトマップやサイト内検索からさがしても容易に見つけることができない大学もあり、消極的な受身の姿勢が感じられます。大学によってずいぶん温度差があるようですし、寄付金の獲得戦略の格差は思った以上に拡がっているようです。

※今回は、基金を設置している大学を対象に掲載し、一般的な寄付金募集については除いてあります。

※私の調査能力が不十分なため誤って記載している場合があります。関係者の皆様におかれてはご容赦ください。コメント欄にてご指摘をいただければ随時訂正してまいります。



北海道・東北地区




関東・甲信越地区




東海・北陸・近畿地区




中国・四国地区




九州・沖縄地区

2011年2月20日日曜日

Q-CONFERENCE2010に参加して

先日この日記でご紹介した「九州地域大学教育改善FD・SDネットワーク(Q-LINKS)」主催の「Q-CONFERENCE2010」に行ってきました。

(過去記事)あなただったらどうしますか(2011年2月17日)


「Q-CONFERENCE2010」は、主として、1)仲間の知恵や工夫を共有する「ポスターセッション」、2)カリキュラムづくりのコツを共有する「Q-Lab第1回CDプロジェクト報告会」、3)“人が学ぶ、組織が育つ-明日の教職協働を考える-”をテーマとした「企画セッション」の3部構成でプログラムされてありました。

ポスターセッション


31の大学・コンソーシアム・賛同者が参加していましたが、どのポスターの周りにも人だかりができ、皆さん熱心に意見交換をしていました。

Q-Lab第1回CDプロジェクト報告会


プロジェクトの内容や成果について映像や参加メンバーのコメントを交えながら振り返りました。なお、第2回CDプロジェクトは、新たにメンバーを公募し、2011年8月に開催する予定だそうです。(詳細は7月初旬頃ホームページにて発表のこと)

(参考)Q-Lab(ラボ)、CDプロジェクトとは第一回CDプロジェクト活動成果報告

企画セッション


「人が学ぶ、組織が育つ~明日の教職協働を考える~」と題し、明治大学の芦沢特任教授をモデレーターとして行われました。

はじめに、芦沢氏から大学の組織にまつわるエピソードが紹介され、ケーススタディが行われました。フロアとの意見交換が中心でしたが、大学における仕事の内容や経験の違いなどから、意見が大きく分かれ、討論会のような様相になる場面もありました。

続いて芦沢氏から、ケーススタディの背景にある現実について、近時、中教審など政策的にも教員と事務職員との協働関係の確立、教職員の職能開発が強く求められている中で、
  • FDや授業改善に対する教員と事務職員のアプローチに違いがある(職員の方が熱心に参加しているというケースがある。FDはほとんどの大学で任意参加、参加を強制しているケースはほとんどない。)
  • 教職協働のGood Practiceがアドミッション、キャリア支援、学生生活にとどまり、本丸である質保証や授業改善で起きていない(事務職員が入り込むことを許さない風土が未だに強い。)
  • 誰のための質保証かという本質が見失われている(学生の声が反映されていない。学生参加型のFD・SDが珍しいと感じられている。)
などについての問題提起がありました。


最後に、教職協働は本当に可能か、可能にするためには、何のための協働なのかを明確にすること、具体的には、
  • 必然的課題を共有すること
  • 建設的な相互批判ができる環境を醸成すること
  • 相互理解という幻想をもたないこと
  • 仕事の質の違いを理解すること
  • 大学内外に理解者を増やすこと
  • 時には外圧を活用すること
  • 「改善」「改革」は誰のためのものかをリマインドすること
の必要性が指摘されました。


今回のカンファレンスは、全体を通じて、参加者自身が自分の経験や自分の大学に当てはめて考える場面が多かったような気がします。
教職協働は手段であって目的ではない、目的は学生のための教育改善にあり」という本質、あるべき姿を改めて気づかせてくれた充実の半日でした。

2011年2月19日土曜日

IR(Institutional Research)に何を求めるべきなのか

近時、大学を取り巻く厳しい社会的、行財政的環境の変化に適応していくためには、大学経営人材、中でも経営トップを支える大学職員の養成が緊要な課題とされています。

同時に、経営トップの判断に不可欠な、戦略的大学経営に資する様々なデータの取得・分析・提供(提言)を効率的・効果的に行うIR(Institutional Research)機能の充実強化も益々重要視されています。

これまでこの日記でも、IRに関する情報をお知らせしてまいりましたが、今回は、国立大学財務・経営センター教授の金子元久さんがIDE(現代の高等教育)(N0.528 2011年2-3月号)に寄稿された「IR-期待、幻想、可能性」を抜粋してご紹介します。(太字強調は私の判断です。)

IR-期待、幻想、可能性


簡単に整理すれば大学におけるIR(Institutional Research)とは、1)データ収集・蓄積、2)特に教育機能についての調査・分析、そして3)大学経営の基礎となる情報・分析の提供をさす。それは大学にとって何を意味するのか。

現在の日本の高等教育が様々な意味での転換点にあり、個々の大学の経営能力が問われていることを考えれば、こうした意味での活動に関心が高まるのは、当然といってもよいかもしれない。私どものグループが昨年に行った「全国大学職員調査」(有効回答者数、約6,000人。http://ump.p.u-tokyo.ac.jp/crump)でも大学の現状について「企画調査能力をさらに強化する必要がある」という設問について、<そう思う>あるいは<ある程度そう思う>という回答がほぼ9割を占めた。こうした意識は大学の管理運営に直接に関わる人々にほぼ共有されているといえよう。


日本の大学とIR

ところで考えてみれば、IRの活動は日本でもこれまで行われてこなかったわけではない。

特に1960年代後半の学生運動の昴揚期には、大学というものの存在自体が社会的な関心を呼んだこともあって、大学についての調査研究をおこなう組織が、いくつかの大学に作られた。1970年には広島大学に「大学問題調査室」が作られ、これが現在の同大学「高等教育研究開発センター」に発展した。同じ時期に同様の組織が作られた例はほかにもない。ただし多くの大学ではこうした組織は学生運動の退潮とともに衰微し、存続した組織もその関心は、むしろ専門的な高等教育研究に向かい、個別大学そのものの改革との接点を失っていったことは否めない。

これを第一波とすれば、第三波の動きは1990年代に始まった。1991年の大学設置基準の改正によって、大学に自己評価が義務付けられ、それへの対応を直接の契機として、自大学の現状についての調査、資料整理への要求が高まったのである。たとえば東京大学では、1992年に「東京大学調査室」が学内措置として設けられ、これが1996年に「大学総合教育研究センター」となった。またこの大学設置基準の改正による一般教育の規定の緩和を受けて一般教育担当部局の改廃を行い、部局に代わる一般教育実施組織として、「大学教育センター」などの名称の組織を設置し、これに大学教育についての調査研究の機能を持たせる国立大学も少なくなかった。また私立大学でも 自己評価報告書の作成を目的とする組織を作った例が少なくない。

しかしこうした組織もその後は必ずしも期待された役割を果たしてきたとはいえない。私自身が、こうした組織の設立にかかわり、数年間はその責任者を務めた経験からいえば、それは理由のないことではなかった。

第1に、基本的なデータの収集整理という機能についていえば、一通りの統計をそろえるのは必ずしも困難ではない。むしろそうしたものは、従来の事務局の体制の中で報告を求めたほうが効率的ともいえる。しかしそれと、もう少し広い視野で大学として必要なデータを普段から蓄積するという要求はきわめて異なる。大学に関するデータはきわめて多様であって、一般的にデータを蓄積することなどはあり得ない。1991年から数年の間に各大学が作成した「自己点検」報告書が、結果としてほとんど顧みられることがなく終わったのは、こうした問題と密接にかかわっている。

第2に、とくに大学教育改革に必要なデータは、計画的・体系的な調査を行わなければ得ることができない。しかし、学士課程、大学院のいずれについても教育はいわば学部、研究科の専管事項であって、そこに事務局に直属する一組織が、鼻を突っ込むことにはきわめて大きな抵抗がある。しかも学部教育に関する調査は、いわば、大学教育の現状の問題点を明らかにするという意味では、現状を告発する役割を負っている。それに対して各部局が警戒するのは当然ともいえよう。とくに各部局からなる管理委員会などによってこうした組織が管理されている場合には、運営そのものが難しくなる場合がある。

そして第3の、最も基本的な困難は、大学執行部の側が、こうした調査組織をどのように使うのかという戦略を欠いていることから発する。私の経験からいっても、就任の時点で学部教育の改革を、最重要の課題として強調しない学長はいなかったといってもよい。しかし学内運営の実際に関われば、概算要求などの組織改編についての部局間の調整、様々な予算インセンティブへの対応、あるいは様々の管理上の事件への対応などに追われて、学部教育改革は具体的な課題ではなくなってしまう。個別の調査の必要は生じたとしても、大学教育研究センターの役割は長期的な経営課題とはかけ離れて、しまうのである。

こうした状況の中で、センターの職員も展望を失う。管理職には、大学の部局長の経験者など、一定の管理運営業務についた経験の教員があてられる場合が多いが、そうした経験は大学の一部についてのものにすぎない大学全体が中長期的に大学が直面する課題について明確なイメージにつながるわけではないし、それが大学執行部のもつものと一致するともかぎらない大学教育についての、それぞれの専門分野での教員としての経験や、行政的な経験からの何らかの問題意識も、それだけではデータ収集や調査を通じて明らかにしていく戦略をもたらすものではない

そうした観点から専門的な知識・技能をもつスタッフとして、教育社会学や心理学の若手の研究者が専任の職員として採用されることも多い。しかし一般にこうした若手の研究者が最も能力を発揮できるのは、学術的に一定のパラダイムや方法が形成され、それをさらに発展させていくときである。自ら問題を発見し、それに取り組む方向を探し、またその意義を周囲に説得することを求められる場では、彼らは力を十分に発揮できない結果として彼らの関心は、自分の出身の専門分野の研究に回帰してしまうことになる

こうした構造の中で、日本におけるIR機能は自律的に大きく発展することがなかったといえよう。そしてその背景には、アメリカのIRが恒常的に直面する問題と同様の構図があったのである。


可能性

こうしてみれば、現在のIRへの関心の高まりは、いわば第三の波ともいえよう。そしてそれは、その背後の構造が変わらない限り、ひとつの幻想に終わる可能性をもっている。しかしもう一方で、新しい可能性が生じていることも事実である。

その最も現実的な背景は、個別大学の情報公開への要求である。前述のようにアメリカにおいてIR機能が拡大した直接の契機は、政府と適格認定団体による、各種のデータの要求であった。日本においては大学に対する政府の権限の曖昧さもあって、こうした形での要求がこれまで現実化しなかった。しかし大学教育の機会の供給が需要を大きく上回り、.質的保証が社会的な要求になるにつれて、こうした課題は避けえないものとなっている

昨年の学校教育法附則の改正はそうした動きが確実に具体化しつつあることを示すものといえよう。さらに将来的には、大学設置認可、個別大学情報データベース、そして認証評価機関による学位プログラムを中心とした評価、という形での、多元的な質保証・維持システムが目指されるのではないだろうか。その中で個別大学が、必要とされるデータを体系的に収集、保存し、必要に応じて提供することが不可欠となることはいうまでもない。

ただしそうした意味でのデータ提供のみが問題なのであれば、それは名称はどうであれ、ルーティン的な管理事務機能の一部として処理できないものではない。むしろ重要なのは、そうした機能を基礎としつつ、これからの基本的な大学の課題に取り組むことである。

21世紀の高等教育の課題が、これまでの量的拡大から質的再編に移ることは自明であろう。しかし21世紀の最初の十年が過ぎた今、明らかになりつつあるのは、「質的再編」は、ただ単に「改革」というバラ色のコトバであらわされる理念ではなく、実はきわめて複雑な、しかも深い葛藤を通じて実現されるものとなる、という冷徹な事実ではないだろうか。

社会からの大学教育の実効性に対する批判はさらに強くなる。その一方で、大卒者の低位雇用の状態はさらに常態化する。他方で政府の高等教育支出の停滞・削減は避けることができず、学生に対する負担を増加させることはさらに困難になる。また国際的な競争も具体化する。こうした状況の中で、低コスト・低質、という、日本の大学に共通の特質をいかに脱出するかが、選抜性の高低に関らず大学に問われるのである。

そうした課題にこたえる上で、大学の調査・企画機能は戦略的にきわめて重要な役割を果たす可能性をもっていると私は考える。最近のIRに対する関心の高まりは、実はそうした予感をその背景としているのであろう。しかしIRがそうした、いわば大それた期待にこたえるためには、大学そのものに、きわめて重要な変化が生じることが不可欠の前提となる。

その条件の第1は、大学内部における情報の共有、活用の文化を形成することである。上述のように、政府あるいは適格認定団体に対して、一定の指標を提出することを求める傾向がさらに強まることは疑いない。そうした情報提供は単に外にむかって行われるのではなく、大学の構成員に周知され、また活用されなければならない。とくに教職員がその業務にあたって、大学全体の状況を把握することは極めて重要である。

特に一般の教職員や学生にわかりやすい形で各種の情報が提供されるとともに、教職員に必要に応じて各種の情報を収集し、分析する能力を形成することが必要となる。教員については、こうした点での技能が一般に高いと思われているが、私の経験からいえば、必ずしもそれが大学の運営あるいは教育について必要な情報についての知識技能につながるわけではない

また職員は、これまで運営業務をそれまでの慣行にしたがって実施することを求められてきたのであって自分の業務に必要な情報を収集分析するための訓練もほとんど行われてこなかった。しかし私どもが行った前述の調査において、業務上どのような能力を身につけたいか、という問いに対して最も要求が高かったのは「データを収集し、分析する能力」で、<非常に必要>が41% <必要>が48%に達した。こうした要求がすでに現場では切実に感じられていることがうかがえる。

第2は、教育改善の実践と学生の学習行動のモニタリングとの有機的な結合である。繰り返し述べるように、これからの大学経営の焦点は具体的な教育改善のメカニズムの形成にある。言いかえれば、抽象的な教育の理念ではなく、具体的に個々の大学の教育がどのようなインパクトを学生に与えることが必要なのか、そしてそれをどのように実現していくのかが、具体的な戦略として示されねばならない

しかもこれに関しては一般的な解があるわけではない。私どもが行った「全国大学生調査」(126大学、4万7千人、http://ump.p.u-tokyo.ac.jp/crump)で明らかになったことのひとつは、たとえば学生の学習時間をとっても、日本の大学がきわめて多様だということであった。しかもそれは、大学の選抜制性や規模とは、きわめて緩い相関しかもっていない。また授業方法にも大学間に差異が少なくない。日本の大学には「個性」があるのである。

ただし逆説的なのは、個々の大学だけの努力では、自分の個性を見つけることが難しい、という点である。こうした意味で、大学間の連携と、それを側面から援助する第三者機関の役割が不可欠となる。このようなメカニズムを活用して、調査結果を学習課程や個々の授業の実践にフィードバックしていくことが求められるのでありその媒介となることがIRに求められる。

第3は、具体性をもった中長期的な経営計画を意識的に形成することである。これは必ずしも自明ではない。国立大学においては中期目標・計画を、なるべく数量的な指標を用いて設定することが求められている。しかしそれは経営計画という観点からはほとんど戦略性のないものになっている。それは目標と学内資源配分との関係がほとんど触れられていないからである。同様の傾向は、私立大学においてはさらに著しい。

これは日本の大学が、基本的には学部などの部局の集合にすぎず、部局間の予算配分が基本的な枠組みになっており、その枠自体を考え直すことはタブーとなりていることを反映しているといえよう。しかしたとえば大学教育のアウトカムが問題とされるとすれば、大学全体としての教育プログラムの構成とその効果、という観点を入れることが不可避となる。そしてそうした観点から、必要なコストとそのもたらす効果を点検することが求められる。とくに大学教育の改善を、きわめて厳しい財政状況の中で達成しようとすれば、教育改善と資源配分の問題とを分離して考えることはもはや許されない

このような意味での中長期的な経営計画が意図されれば、学生の学習行動のモニタリングと教育課程、授業実践、そして資源配分との関係について必要な情報と分析が視野に入る。そのとき初めてIRの機能が必要となるし、意味をもつことになるといえよう。

少し飛躍するようだが、このように考えると IRの導入は、現代の大学を考えるうえできわめて基本的な問題を示唆している。それは「大学の自治」そのものの内実の変化がいま求められているのではないか、という点である。

大学の自治とは、きわめて多様な内容の、しかも即自的にはその価値が自明ではない知識の創造と伝達とを社会の中で発展させていくために発見され、進化してきた、ひとつの英知の結晶であることは疑いない。しかし他方でそれは、社会の中で大学に口を出すことをタブーとし、大学の中では個々の部局に口を出すことがタブーとする、という制度・慣行をも生じさせた。大学自治と閉鎖性とが不可分のものととらえられてきたのである。

しかしそのような意味での閉鎖性はいま大きく問い直されようとしている。それは日本だけの問題ではない。前述のようにアメリカにおいては州政府による大学監視機関の設置が検討されたことがあったが、最近のアメリカ連邦政府のスペリング委員会(2007-2008年)では、連邦レベルでの大学監視機関の設置の可能性が検討され、さらにそうした議論は続こうとしている。

21世紀の前半はこうした意味で大学自治の内実が問い直され続ける時代となろう。議論は様々な形で行われるだろうが、大学の内部においては、IRがその一つの環となることは容易に想像される。

こうした中でIRはいわば、大学の自治への、ひとつの風穴のような存在となるともいえる。大学の中からは この風穴をなるべく小さくしようとする力が強く働くことは当然である。しかし他方で、それは大学という組織が変化して新しいバイタリティを獲得し、むしろ社会全体の変化をリードする存在になる可能性を作る契機となるかもしれない。そうした意味で、この風穴をどう形成し、活用するかが問われるのである。

2011年2月18日金曜日

国立大学の機能強化へ始動

国立大学協会が、大学の機能別分化、大学間連携の推進、質の保証といった大学改革課題についての検討を開始するようです。特別委員会の設置要項が2月16日開催の国大協理事会資料として提出されています。後日正式な発表が行われると思いますが、取り急ぎ(案)をご紹介します。

「国立大学の機能強化に関する委員会」要項(案)

(趣旨)

第1条 高等教育を取り巻く国内外の環境が急激に変化し、国際間の競争もいっそう激化する中、国立大学の果たすべき役割や特色等機能強化について検討するため、国立大学の機能強化に関する委員会(以下「本委員会」という。)を設置する。

(役割)

第2条 本委員会は、次の活動を行う。
(1)大学の教育研究が日本再生の柱の一つとして期待される中、国立大学の果たすべき役割や特色等機能強化について検討し、その責務を十全に果たすための取り組みについてその考え方や方向性を取りまとめること。
(2)機能強化のための取り組みに関し、参考資料の収集を行い、会員へ参考情報の提供などを行うこと。
(3)機能強化のための取り組みについて、国民、ステイクホルダーへ情報発信し、その理解増進を図ること。
(4)その他、今後の高等教育の充実と国立大学の機能強化に関する取り組みに関して、長期的な展望について検討すること。

(構成)

第3条 本委員会は、本協会の理事、監事及び会長補佐で構成する。
2 本委員会に委員長及び副委員長を置き、委員長は本協会会長をもって充て、副委員長は本協会副会長から1名を、委員長が指名する。
3 本委員会の下に、ワーキンググループ(以下「WG」という。)を設置し、次に掲げる者で構成する。
(1)副委員長、本協会の専務理事及び常務理事、並びに、委員長が指名する数名の本委員会構成員
(2)委員長が指名する数名の学識経験者
4 WGに座長を置き、副委員長をもって充てる。

(運営等)

第4条 本委員会の運営等は、次のとおりとする。
(1)本委員会は、委員長が必要に応じて開催し、委員長が主催する。
(2)会議での検討等においては、本協会の各委員会と連携するとともに、必要に応じて学識経験者等から意見を聞くことができる。
(3)WGは、座長が必要に応じて開催し、座長が主催する。
(4)WGは、本委員会と連携して具体的な検討を行い、取りまとめ作業を行う。
(5)その他、会議の運営等については、必要に応じて本委員会が定める。

(位置付け等)

第5条 本委員会は、政策会議の下に設置する。
2 本委員会が取りまとめた検討結果を外部に表示する場合には、理事会及び総会の了承を得るものとする。

(設置期間)

第6条 本委員会の設置の日は、平成22年度第6 回政策会議の議により平成22年12月27日付けとし、平成23年2月の理事会の了承を経て、平成24年3月31日まで存続するものとする。

(会議出席謝金)

第7条 第3条第3項第2号に定める学識経験者には、会議出席謝金を支払う。

(庶務等)

第8条 本委員会の庶務等は、本協会事務局が担当する。

2011年2月17日木曜日

あなただったらどうしますか

来る2月19日(土曜日)に、九州・福岡の西南学院大学において、九州地域大学教育改善FD・SDネットワーク(Kyushu Learning Improvement Network for Staff Members in Higher Education:Q-Links)主催の「Q-conference2010」が開催されることになっています。
Q-Linksのホームページを覗いてみますと、”企画セッション”の開催に当たって、事前に資料がアップされてありました。どうやら、大学の組織にまつわるエピソードを紹介し、このエピソードを手がかりに、フロアとの意見交換を行うようです。

早速読んでみましたが、大学において仕事がスムーズに進まない、とても身近な事例が描かれてあり、まさに”ビンゴ”といった内容でした。

さて、なかなか難しいケーススタディですが、自分がその立場だったら、目の前にそういう立場に置かれている人がいたら、あなたはどうしますか。土曜日ですが、興味のある方は、ぜひ参加してみてはいかがでしょうか。

ケース1 国際広報はどの部署の仕事?

地方都市にあるA大学で、研究成果を海外向け広報に役立てようとする試みが始まった。しかし、実際に担当する部署が決まらす、計画を遂行することができない。新規事業を担当する部署が決まらない場合に、どのような学内協議と意見調整をおこなうべきか、を考える。

あなたの大学で、国際広報のためのワーキング・グループが発足し、英語による広報を拡充していくことが検討された。このワーキング・グループの検討結果に基づき、学内の研究成果を英文記事にしたうえ、オンライン上で情報配信することが決定された。しかし、英語での論文発表の多い教員の選定、研究成果を英文記事にする業務、メルマガ方式で海外の研究者に情報発信する業務などをどの部署が担当するか、が決まっていない。研究助成部門、広報部門、国際連携部門などが候補にあがったが、どのセクションにも十分な人員配置と予算がないため、意見調整がはかどらなかった。学長の裁量予算を振り向けることが決まり、英語力のあるスタッフが配属されている研究助成部門、国際連携部門のどちらかで対応することになった。しかし、両部門の管理職は「既存業務で多忙なため対応できない」と反発している。学長命令により、総務課長であるあなたが部門間の調整を行うことになり、管理職を集めた会議で解決策を協議することになった。

研究助成部門、国際連携部門の管理職は、事業予算の配分だけではなく、スタッフの増員がなければ対応できない、としている。しかし、財務当局および人事部は新規事業で専任スタッフを配置することは認められない、としている。A大学の業務分掌においては、「どの係にも属さない業務は総務担当が実施する」ことになっており、新規事業で担当部署が決まらない場合、総務担当部門で業務を遂行しなければならなくなる可能性がある。ただでさえ、危機管理や情報公開などの新規業務で総務部門の職員は忙殺されているため、総務担当課長であるあなたとしては本事業を総務部門で担当することはどうしても避けたいと考えている。

一方、一部の教員の間では、英語での研究発表がある者だけを重視するかのような国際広報の方針に対して反発の声が上がり、ある学部の教授会では方針そのものを見直すように、との意見が多数を占めた。こうした教員の反発に対してもなんらかの説明をして理解を得るようにしなければならない。

学長からは、本事業の遂行を一日も早く着手するように求められているため、事態を放置することは許されない。教授会への対応も含め、総務課長としてあなたはどう対処すべきか?

ケース2 授業評価は誰のためのものか?

東京郊外にある私立大学、B大学の授業評価にかかわるケース。授業評価が本来の目的である授業改善に役立っておらず、教員自らが評価結果を無視している状況下で、教務担当の職員が批判的な報告を発表した。これに対して教員組織から強い反発があり、担当部署の管理職としてどのような対応をするかが問われている。

教務担当課長であるあなたの部署では、毎学期ごとに実施する授業評価を担当している。過去5年の授業評価において、2名の教員が学生から極端に低い評価を受け、70%以上の受講者が「この授業を後輩に薦めない」としている。授業評価の結果は学生には公開されていないが、学生が自主的にネット上でおこなう評価でも当該2名の教員の授業は「楽勝科目だが何も学べない授業」として名指しで批判をされている。保護者からも大学あてに改善を求める苦情メールが送られてきている。授業評価は授業改善を目的として実施しているものだが、2名の教員の場合、毎年、同じ教材を使い同様の講義内容をくりかえしているため、授業評価を改善材料として考慮していないことは明らかである。二名の教員のうち一人は「人気投票のために授業をしているのではない」と授業中に公言したことでも知られており、いわば「確信犯」として授業評価を無視してきたと考えられる。今年度の自己評価・点検報告の中で、あなたの部下である係主任は「授業評価の結果が改善につながっていないケースがみられる」「一部の講義科目においては、学生および保護者から授業改善を求める声が寄せられている」と記述した。

この報告の記述が教授会で問題となり、「教員を評価するための道具として授業評価の結果が使われるべきではない」など、反発の声が寄せられている。また、教職員組合との取り決めにより「授業評価は教員自らが授業の改善に役立てることを目的とする」とされ、評価結果は人事考課のために使用しないことがB大学の基本方針となっている。教授会の多数意見は、今回の自己評価・点検報告の記述を不適切とうけとめ、内容の修正と謝罪を求めている。次回の教授会において、担当課長であるあなたは記述の修正報告と謝罪をすることが期待されている。

一方、当該の係主任をはじめ一部の職員たちは、「これらの教員2名は、5年以上にわたって授業評価結果を無視し、改善を怠っていること明らか」「報告の記述は職務に忠実に対応した結果のものであり、謝罪や記述修正をする必要はない」と主張している。あなたは、今回のケースで、一方的に謝罪および記述修正を受け入れた場合に、部下の職務上のモラル低下を生む可能性があると認識している。また、一部の学生や保護者の間で、授業評価結果がどのように授業内容の改善に役立っているのか、を疑問視する声があがっている。

教務担当課長として教授会の意向を無視することはできない。一方、授業評価の本来の目的に立ちかえり、学生の教育に資するように授業改善につなげていく努力が必要であることも認識している。授業評価担当部署の管理職として、あなたほどのように対処すべきか?

2011年2月16日水曜日

利益代表では教員の資質向上は議論できまい

今年1月末、「学校教育における諸課題の複雑・多様化に対応して教員に求められる専門性を今一度見直し、養成段階を含めた教職生活の全体を通じて不断に資質能力の向上や専門性の高度化が図られていくようにするため、教員免許制度と教員養成・採用・研修の各段階を通じた一体的・総合的な取組が行われるようにする」ための具体的方策を検討してきた中央教育審議会から審議経過報告が公表されました。
噂によれば、出された意見の多様さゆえ、その調整や取りまとめに時間を要し、当初予定されていた時期が延びてしまったようですが、最近、その原因の一端をうかがい知ることのできるコラムに出会いました。

このコラムは、日本経済新聞社編集委員の横山普一郎さんが、IDE(現代の高等教育)(N0.528 2011年2-3月号)に寄稿されている「取材ノートから」というものです。なかなか鋭い指摘だと個人的には興味を持ちました。

教員の資質向上


昨年末、中教審の「教員の資質能力向上特別部会」が審議経過報告をまとめた。
6月の諮問以降、部会が議論してきたのは、教員養成の6年制化と教員免許更新制度の是非だった。だが、審議が始まった直後の参議院選挙で民主党が大敗、更新制見直しを打ち出しても、法改正の見通しが全く立たない状況に追い込まれた。

こうした事情もあり議論は迷走した。審議経過報告は、教員免許に「基礎免許状」、「一般免許状」、「専門免許状」を設けることや、6年制化を引き続き検討することを盛り込んだが、更新制の是非も含め具体的な結論は殆ど得られないまま、各論並記でタイムリミットの12月を迎えた。委員からも「何も決まらない」、「具体的成果はない」、「深い議論はできなかった」などの声が上がる。

教員の資質能力向上は、極めて今日的で重要なテーマである。それだけに、審議が中途半端に終わった事は残念だ。その要因はいくつかあるが、最大の問題は、「教員養成制度改革」という長期的テーマと「免許更新制の廃止」という当面の政治課題を一緒に諮問したことだと思う。

元々、更新制は自民党政権時に政治主導で導入され、効果や仕組みについて様々な批判や異論があった。政権交代の象徴として早急に見直したいという政務3役の思いはわからぬでもない。

だが、一方の教員養成制度は些か事情が異なる。現状に課題が多いのは確かだが、戦後の教員養成制度の歴史的背景や教員養成系大学とそれ以外の大学との利害対立、大学と教育委員会の思惑の違い、教員免許の位置づけなど、様々な論点がある。諮問で求めた半年程度の審議で結論が得られる問題ではない。

審議で浮き彫りになったのは、大学と行政(教育委員会)・学校現場(校長)の深刻な相互不信だった。大学の中でも、教員養成系単科大学と総合大学の中の教員養成系学部、開放制の恩恵を受ける私立大学の間で意見は割れた。会議のたびに20数人の参加者が自分の立場で意見を言うが、議論はそれ以上深まらない。最後は部会長の「言い切れなかった意見は文書で事務局へお出し下さい」の一言で、お開きになることの繰り返しだった。

中教審は2月に新委員の下で再出発するが、特別部会は多くの教訓を残した。

第1は、日本の教育が直面する課題の本質に対する考察の希薄さである。教員の資質向上という以上、今の教育はどこが問題で、これからの教育はどのような人材を育てるべきかという原点に立ち返りそのためには教員に必要な資質は何か、それは誰がどこでどのような養成・研修を行えば身につくのか、といった議論が欠かせないと思うのだが、そうした議論は殆どなかった。

第2に、委員が利益代表として振る舞う場面がますます増えてきた。日本は低迷の20年間から如何に抜け出すかが大きな課題だ。教育も同様で、21世紀に相応しい人材の育成方策が問われている。審議会で聞きたいのは、特定の利益に立つ「有識者」の議論ではない。時代状況や教育全体、社会全体に目配りできる「有識者」の議論である。

第3は、始めに結論ありきのような性急な諮問の在り方だ。審議会は所詮、行政の隠れ蓑という見方はあるが、専門家が活発に講論を闘わせて一定の方向性を得るメリットも否定できない。議論を活性化するためにも次期中教審では民主党政権下ならではの審議会の在り方を見せてほしい。(日本経済新聞社編集委員 横山普一郎)

2011年2月15日火曜日

恨みを捨てる

誰かとの間でいやな思いをして、その相手に反感を持ったとき、どうすればいいだろうか。考えるべきことは3つある。

1 恨みは猛毒だ

ただし、被害をこうむるのは相手ではなく自分である。恨みを抱いていると、あなたは自分自身を苦しめて不幸になる。逆に、恨みを解き放つと気分がよくなり、集中力が高まり、私生活も仕事もうまくいくようになる。

2 悪口を言わない

恨みを抱いた相手の悪口を言うと、周囲の人たちに敬遠されるようになる。人々はあなたを後ろ向きで不平不満の多い人とみなすようになるだろう。そして、いつかあなたが自分たちのあら探しをするようになるとも思うだろう。これはまったく損な話だ。もっとポジティブな話をして、好印象を与えるよう努めるべきだ。

3 将来のことを視野に入れる

その悪ロを言った相手とは、一生かかわることがないだろうか。その人の助けを借りるような事態は想像しがたいかもしれないが、世の中は狭いものだ。その人自身、あるいはその人と親しい人が、あなたやあなたの家族を助けることも十分にありうることを肝に銘じておこう。


ディスカヴァー・トゥエンティワン
発売日:2006-06-15

2011年2月14日月曜日

規則からみる大学の姿

年度末。国立大学法人では、入試業務はもとより、法人評価や予算に関わる作業など、多くの大学職員が多忙を極める時期を迎えています。

そんな中、4月以降の組織や制度の見直しに係る規則等の整備も山場を迎えているのではないでしょうか。規則等の制定改廃を行う際には、必ずといっていいほど他大学の規則等を参考にします。

そこで、作業の一助にと考え、各国立大学法人がホームページで公開している規則集を一覧化してみました。全ての大学が公開しているわけではありませんが、昔に比べれば随分と公開率は高まっているような気がします。

※私の調査能力が不足しているために誤って記載している場合があります。関係者の皆様におかれてはご容赦ください。コメント欄にてご指摘をいただければ随時訂正してまいります。

【追記】
岩手大学、宮城教育大学、奈良先端科学技術大学院大学を追加しました。(2011年2月15日)


北海道・東北地区




関東・甲信越地区




東海・北陸・近畿地区




中国・四国地区




九州・沖縄地区

2011年2月11日金曜日

心を救う詩集 「くじけないで」

最近世間のことに疎くなっているなと思いました。報道ステーションという番組で、99歳の詩人 柴田トヨさんの詩集『くじけないで』が話題となっていることを知りました。

柴田トヨさんについては、2010年12月31日にNHKで放映された「ヒューマンドキュメンタリー『99歳の詩人 心を救う言葉』」でも紹介され、再放送も行われていたようです。

今年100歳を迎えるトヨさんは92歳から息子さんの勧めで詩を書き始めたそうです。きっかけは、産経新聞の「朝の詩(うた)」というコーナーへの投稿です。トヨさんの詩は、「朝の詩」で多くの読者の心を引きつけ、1冊の詩集にまとめられました。

人生は、辛くて悲しいことばかりではない。人生、いつだってこれから。誰にも朝は必ずやってくる。--自分を励ましながら、人をも励まし救ってくれる素晴らしい詩に是非触れてみてください。

詩集の一部をご紹介します。

- くじけないで -

ねえ 不幸だなんて
溜息をつかないで
陽射しやそよ風は
えこひいきしない
夢は
平等に見られるのよ
私 辛いことが
あったけれど
生きていてよかった
あなたもくじけずに



D




トヨさんの100歳(2011年6月)を記念して、初の展覧会『「くじけないで」99才のデビュー 詩人・柴田トヨの世界』展が、相田みつを美術館第2ホール(東京 有楽町 東京国際フォーラム内)で開催されるそうです。
期間 2011年3月8日(火曜日)~7月3日(日曜日)月曜日休館日
時間 10:00~17:30(入館は17:00まで)
料金 一般大800円、高中500円、小200円、70歳以上500円
詳しくは、相田みつを美術館のサイトを御覧ください


(関連ブログ)

NHK ヒューマンドキュメンタリー「くじけないで 99歳の詩人」を観て

不幸なことがあっても、誰を恨むのではなく、元気をだしてまた立ち上がろうとすることを詩にされています。その源は「やさしさ」にありました。風に耳をかたむけ、日射しに手をさしのべられながら、自然のやさしさといつも対話されているのですね。苦しくとも、一日一日を大事にして楽しく生きられる心のギアチェンジが、99年間生きてこられたほとばしる知恵になているように思いました。僕も新たな「夢」のために、くじけないで生きていこうと思います。
http://hishiya.cocolog-nifty.com/mokumoku/2010/12/post-3efc.html


99歳の詩人、心を救う言葉

失意のどん底にある人、生きる望みを失いそうになっている人、病気で悩んでいる人・・・そうした人々にも「くよくよしとったらいかん」という気持ちをすっと芽生えさせてくれる詩集です。「やさしい気持ちをもつことが、幸せを呼び込んでくれる」と語りかけるトヨさんのほっとするような暖かい心・・・。
宮崎県の酪農農家は口蹄疫ですべての牛を失い、失意のどん底の毎日でした。そこから立ち上げるきっかけを作ってくれたのがトヨさんの詩。その町では町中の人たちがトヨさんの詩集を愛読しているそうです。
離婚して子どもを育てる若い女性は、トヨさんの詩から肩肘はらない生き方を学び、元気を取り戻して仕事に育児に精を出せるようになりました。
夫と死別し、お好み焼き屋を一人で切り盛りする女性は、減少する一方の客に店をたたもうかと悩みますが、トヨさんの詩に勇気つけられ店を続けることにしました。
がんに悩む主婦は、トヨさんの詩から生きる勇気をもらいます。
寝たきりの母を看病する女性は、病床でトヨさんの詩集を母に毎日聞かせて母の心を安らかにしています。
クリーニング店は、壁にトヨさんの詩を貼り、日々の仕事をがんばっています。
http://terusakura.air-nifty.com/tetsus_top/2010/12/post-2594.html


くじけないで 柴田トヨ 産経新聞 朝の詩 98歳の処女詩集

いつか 一人になるのかも?不安を抱えながら 生きている人 死にたいと思っている人 人間関係で悩んでいる人 闘病中の友人 年老いた母親に・・・読むと思わず涙がこぼれます。
一歩踏み出せそうと思えるようになった・・・前向きな言葉に救われた・・・ほっとする言葉だった・・・励まされた・・・友達に贈りたい、自分の人生のバイブルでありお守り。
宝物にしたい・・・そんな女性たちが 98才の、いきいきとした感性に共感しています。
http://www.kirei40.info/archives/nakeuta/_98/

2011年2月8日火曜日

映像からみる大学の姿

近時、大学を紹介する映像をよく目にするようになりました。大学の特色や個性をより具体的に受験生や社会の方々に提供する媒体としては、とても効果的ではないかと思います。

そこで、今回は、各国立大学法人のホームページから「大学紹介映像」を拾ってみました。概ね「大学案内」「広報」「入試情報」「受験生の皆様へ」といったカテゴリーに整理されてあります。どの映像も素晴らしいものばかりです。

残念ながら映像を見つけることができない大学もありました。関係者の皆様ご容赦ください。代わりにYouTubeで拾えたものをご紹介ます。(掲載場所を教えていただければ訂正していきますので、コメントにてご指摘をお願いいたします。


北海道・東北地区




関東・甲信越地区




東海・北陸・近畿地区




中国・四国地区




九州・沖縄地区

2011年2月7日月曜日

職員教育のリベラル・アーツ論

先日、この日記で、日本福祉大学常任理事 篠田道夫さんの論考「職員の力量向上の取り組み」をご紹介しました。

(過去記事)職員育成システムの現状と課題 (2011年1月27日)


今回は、この論考の中で引用されていた、寺崎昌男氏(立教学院本部調査役・大学教育学会会長)(当時)が2008年3月に「アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)No.315、316、317号」に寄稿された「大学リテラシー試論」をご紹介します。(太字は私の判断による強調です。)


大学人 特に職員の基礎知識を考える


「大学リテラシー」という言葉を発案してから4年ほどになる。立教大学の「SDシンポジウム」で発題したとき、「事務員をやめよう、職員になろう」と論じた。

事務員とは、例えば来年度の予算案を作るとき『今年度を踏襲する費目はこれ、来年度増額する費目はあれ』というように『上の方』の意向も聞きながら考えて、正確に準備できる人のことです。でも職員は違います。『この費目は5年間変わっていない。けれども学園の将来計画からいえば、これこれこういう費目を新設して将来計画の実現をサポートすべきです』と提案できる人です」と述べた。その「職員」になるのに必要なのが「大学リテラシー」だと思う、と論じたのだった。区分論には異論があるかもしれない。また「私は職員以上の専門職をめざしている」という人もいるだろう。だがここでは、「効率的な日常業務処理だけに専念するのでなく、大学の全体を視野に入れ、将来の方向についても積極的に提案できる人」ということにしておこう。この連載では、こうした現職職員の方々を頭に置いて記すことにする。

その後、大学職員論は深化し、関連文献も大幅に増えた。論者の中には「大学リテラシー」という言葉を使われる方も出てきた。また大学に関する知識や見識の担い手を職員だけに限らず、教員も含めた「大学人」としてとらえ、認識を共有し「協働」することが大切だと説く議論も見られるようになった。それにしても「大学リテラシー」とはいったい何か。言い出した手前、少なくとも分節しておく義務がある。体験や見聞をもとに、

1)大学という組織・制度への知識と認識

2)自校への認識とアイデンティティの確認と共有

3)大学・高等教育政策への認識と洞察

の3つに分け、まず1)について考えてみよう。

職員の方たちは、大学そのものについての知識を得たいと強く望んでおられる。これを知ったのは、2000年度に桜美林大学大学院の大学アドミニストレーション専攻修士課程のカリキュラムを同僚とともに立案し、翌01年以降、今は通信生も加わった在校生とつき合いを重ねてからである。科目を企画した際、次のように考えていた。

-なるべく職務の実際に即した科目を用意する必要がある。「学生募集戦略」というのはどうだろう。「大学財政論」も必要だ。「キャリア・エデュケーション」「学生カウンセリング」なども大切ではないか-

要するに、実務のための「ドリル」を中心に置いた学習領域が基本的に大事だと考えてカリキュラムを組んだ。「大学論」「大学教育史」「比較大学制度論」といった「アカデミック」な科目は、むしろ付け足しのような意識で考えていたように思う。

ところがいざ開講してみると、受講生の興味・関心は、必ずしも実際的で職務即応的な科目だけに向いているのではなかった。受講生たちは、実務離れした一見アカデミックな分野の科目にも、実務即応の科目にも、ほとんど同等の興味・関心を持っておられることが分かってきた。「高等教育制度比較研究」や「現代社会と大学問題」といった科目の評判は高かった。

さらにつき合いを深めるにつれ、職員の方たちが深く求めているのは何かが分かってきた。「大学とはいったい何か」「他の組織とはどこが違い、何が特質なのか」という問題である。一つの社会的組織である大学は、同じ社会的組織である会社、官庁、その他の組織とどこが共通し、どこが違うか。その違いはいつからなぜ始まったか。それに対する考え方(=大学論)にはどのような系譜や類型があるか。こうしたテーマを、歴史的背景とともに知りたい、理解してみたい、と思っておられる。

筆者が担当したのは「大学教育史・高等教育史」という「虚学」といわれそうな科目だったが、やはり関心は高かった。大正期の大学教育改革を講義したとする。「当時最も求められていたのは、大学を『自学自習』の機関にするという改革だった」というと「昔の人も同じ悩みを持っていたのですねえ」という反応が即座に返ってくる。また「科目選択制度を実現するために単位制度が導入された」という経過を詳しく話すと「単位制度は戦後に入ってきたのではないのですか」という驚く人も多い。100年近くも前の大学史上の出来事であっても、今自分が当面している、あるいは職場の周辺で起きている問題やトピックと重ね合わせて聞き、ピンと感じ取り、疑問や関心をそそられるらしいのである。筆者は「縁遠い昔のことでも正確に教えればついてきてくれる」と自信を持つことができた。

ちなみに筆者の大学教育史は「大学改革の歴史」を中心とするものだった。幕末維新期から帝国大学成立期をはさんで大正期、そして戦後改革期、現代、と言うように続く構成を取った。このようなテーマで通史を通すことは、専門家がいないとむずかしいかもしれない。しかし多くの大学には教職課程があり、教育学や教育史の教員がおられる。そのような方たちなら、担当して授業してくださるかも知れない。

「大学とはいかなる組織か」という領域に迫るには3つのアプローチがある。1つは社会学的な組織論のアプローチ、2つは歴史学的なアプローチ、第3に両者をつなぐのが哲学的アプローチである。「大学研究」には、これらを精密に活用して行かねばならないし、その先端的な成果が大学院で教授されねばならない。ともすれば従来型のアカデミックな大学院にだけ当てはまりそうな領域だが、「現職の人たちだから」といって、これらのアプローチの成果を教授することをためらってはならない。むしろ本質的に関心をもっている分野なのだ、ということが分かった。

さらに、現職の人たちに意外な関心をもって迎えられたのは、大学の内部で機能しているさまざまなシステムの特徴とそれらの成り立ちである。

例えば、1)単位制度や科目選択制度のような教育システムの導入の経過と問題、2)学位制度や大学院制度、学部制度や講座制のような、教学面を決める諸制度の特質と歴史、3)理事会・教授会・評議員会・学校法人等の大学運営機関とそれら相互の権限関係、ならびにその変遷、4)教員・学生・職員・校友といった人的組織の成り立ちおよび相互の関係とその法的根拠、5)大学を取り巻く法制度、すなわち学校教育法、私立学校法、大学設置基準や大学院設置基準、学位規則などの法令の成立と展開、といったテーマもある。実はこれらの法令自体を読んでいる人さえ多くないこと、それらの成立過程を知っている人もほとんどいないことが分かった。

考えてみれば、そうしたシステムや法制度は、職員の連日の職務実践に深い関係を及ぼす。学内で交わされる会話の中にもたびたび登場する術語である。ところがその意味は曖昧だし、理事会や評議会が身勝手に使っても文句を言えないことが多い。「職務のベースとしてぜひ知っておきたいと思っていた」という感想にたびたび出会った。

こうした一連の認識を形成し、その基礎として必要な知識を身につけておくこと。これを「大学リテラシー」の第1項とすることを、まず提案したい。

(出典:http://www.shidaikyo.or.jp/riihe/research/arcadia/0315.html


自校への認識とアイデンティティーの確認・共有


今ほど個別大学の「建学の精神」や「個性」が求められる時代はない。大学のPRのためにはもちろんのこと、さまざまなプロジェクト評価の機会や申請業務の際にも、必ずといってよいほど問われる。だが課題は形式的に言葉を並べることではなく、建学の理念・精神や個性が実質的に働き、また構成員に共有されていることである。「大学リテラシー」の第2は、「勤務する自校への認識を高め、自校のアイデンティティーを認識し、その認識を相互に確認・共有していくこと」である。

いうまでもなく、職員の初任者研修等の一部には「建学の精神を学ぶ」といった科目がしばしば設けられてきた。また新任教員に対して「本校への案内」といった催しを開き、学長名で全員出席を求める大学も増えてきた。FD実施が義務化する来年度以降、こうした動きはさらに広がると思われる。その確認・共有作業を学生諸君も含めて実行するには、どのような方策があるか。さらに実施作業に教職員はどのように参加できるか。これについて1つのアイデアを記してみよう。それは「自校教育」の実施という試みである。

筆者がここ数年唱導してきたのは、簡単明瞭な提言である。

-「学生たちは、自分が選んで入って来たはずの大学について、ほとんど何も知らない。類似の性格を持つ他大学とどこが共通しどこが違うかについても、無知に近い。そこへ切り込む授業科目を設定し、授業活動を行うことが大切ではあるまいか。それを通じて学生たちは在籍する大学について正確な知識を得ることができる。それだけでなく、自分とは何かという自己認識をつくりあげるのにも、大きな効果がある」-

発案したのは、1997年に立教大学で開講していた全学共通カリキュラム科目の「大学論を読む」のなかで「立教大学を考える」という2、3時間の講義を試みたことだった。同じころ、『百年史』を刊行し始めた明治大学でも、同様の試みをされていたというし、2000年代に入る前後から広がりはじめ、マスコミの一部でもニュースになった。

2005年12月、立教大学の全学共通カリキュラム運営センターがシンポジウム「自校教育の意義とその可能性をさぐる」を開催した。全国に呼びかけたのも効果があったのか、たくさんの参加者が集まった。そのころ、本紙が筆者の講演記録を連載してくださったのもよかったかもしれない(「自校教育という実践―その試みと意義を考える」拙著『大学は歴史の思想で変わる』、2007年、東信堂刊、所収)。フロアには25校以上の東西の大学からの教職員が集まり、主催者としては大いに励みになった。



報告されたのは、九州大学、神戸大学、京都大学、立命館大学、明治大学、立教大学の六大学だった。必修科目として全学部が輪番で講義する、教養科目の1つとして選択科目として置く、全学教育機構が主催する、資料センターが担当する等々、色々な形態や方式で自校教育が行われていることが分かった。

第1に、どの大学でもおおむね学生たちの参加は熱心で、大学側も意義を高く認められていること、第2に、その大学の歴史的背景についての内容を盛り込むことが大いに効果があること、などが共通して報告された(立教大学全学共通カリキュラム運営センター機関誌『大学教育研究フォーラム』11号、2006年春号参照)。自校教育の試みは、まさに今求められてやまない「建学の精神」の確認、大学アイデンティティーの共有に大きな威力を発揮する方法だ、ということが明らかになった。

個性を知り校風にあこがれて大学を選ぶ学生は一握りである。難関校を受ける者は難易度を基本にし、専門学部学科を選定し、あるいはブランドを選んで進学校を決める。推薦枠やAO入試枠の大きい「全入型」大学の場合、確かな理由のもとに大学を選ぶ者はもっと少ないであろう。偶然に入学し、たまたま教室に座っている。要するに日本の大学は圧倒的多数の不本意入学者で満ちている。シンポジウムに多数の大学関係者が集まられたのも、こういう事情への憂慮が共通にあったからではないかと思われる。

ところで、「勤務大学を知る」ということは、職員の方々にとっても必須のリテラシーではないだろうか。

誤解であることを祈るが、職員の方々も、それぞれの大学を職場として選ばれた際、実は学生たちと大差ない状況にあったのではないだろうか。「この大学はいかなるところか?」それを知悉して入職される方がすべてとは言えない。偶然の流れのなかで「たまたまの職員」をされている場合も少なくあるまい。その危うさを救うのは、大学アイデンティティーの認識と共有という作業である。例えば「○○大学を考える」といった自校教育科目を複数の教員とともに企画してみるのもよい。内容構成のアイデアを出したり、出講者に交渉したりするのもよい。そうした協働作業のなかで得るものは少なくないはずである。

さらに、「自校教育」が職員の大学リテラシー形成にもうひとつの効果を持つのは、授業に職員が参加する機会を設定できるからである。大学の学生援助の努力、相談活動の特色などを語るコマがあれば学生部の職員に、キャリア支援の特色を語る場合はキャリア・センターの職員に、蔵書の特色や図書利用のガイダンス等は司書職員に、それぞれ教壇にのぼってもらうことができる。

また、私学では同窓の先輩職員が後輩となる学生たちに「わが職場」について語ることもできる。学生たちの自校理解にとって大きな刺激となるし、質疑を通じて情報も交流できる。また、教員が抱えている「ティーチングの苦労」を身をもって理解する機会になるだろう。

加えて強調しておきたいことがある。それは、自校教育が効果を発揮するには、正確な大学史の情報が不可欠だということである。言葉を換えると、近年特に本格的になってきた沿革史編纂事業の成果や大学アーカイブス(文書館)の整備と活用が、授業の基礎にとって不可欠である。前述のシンポジウムでも、各大学の授業の企画実施の中心は、色々な学部で近現代史や教育史を専攻され、沿革史を編纂されている教員の方々だった。その編纂作業やアーカイブス運営を担っている職員の方々も必ずおられるはずだが、そうしたメンバーも、期待すべき自校教育協力者となる。

このほか、宗教系の大学では教団や宗門系の教職員や聖職者・宗教家たち、また現に社会的に活躍している卒業生、さらに一部の国立大学法人が先駆的に試みている名誉教授たちなどがある。実に多様なメンバーに分担してもらうことができ、また多くの場合喜んで協力してもらえるのも、自校教育である。

つまり、これまでバラバラに分散していた大学内外の多くの力を総合し、大学コミュニティーの姿を再構築することができ、同時にまた職員のための新しいリテラシー形成の場になる。「自校教育」という企画・実践は、大学の、大学らしい活性化を期待できる試みと考えられるのである。

(出典:http://www.shidaikyo.or.jp/riihe/research/arcadia/0316.html


大学・高等教育政策への認識と洞察


職員は大学・高等教育政策の動きをよく知っていなければ勤まらない-。勤務の中でこのことに気付いた人は少なくないだろう。特に大学院の専攻新設や学部学科の新設、競争的資金(GP)の申請業務などにたずさわったことのある職員メンバーなら、骨身にしみて感じたことがあるはずである。

文部科学省や厚生労働省などへの度重なる書類・資料の提出と訂正、それに重なるヒアリング、大学に持ち帰って教員とともに行う協議、こういう経験の中でいやおうなく試されるのが、大学・高等教育政策の動向に対する知識と洞察である。突然ロー・スクールの申請業務を担当させられ、「大学院の審査とはいったいどういう専門性と根拠をもって行われるものなのか」と疑問を持ち、修士課程で、日本の大学院制度史を本格的に研究し始めた私学職員を知っている。教員に尋ねても疑問が絶えず、「研究課題が多すぎる」というのである。

ずいぶん昔のことだが、筆者が私学に勤務し始めたころ、教授会などで報告される行政当局と大学との交渉を聞いていて、「私学はずいぶん文部省に弱いのだな」と驚いていた。筆者のような国立大学出身の若い教員としては、私学は毅然として行政当局に対峙し、「窓口行政」など何のその、画一行政にしっかり対応するものと、素朴に思っていた。国立大学事務局は文部省と一体化しても仕方がない、だが私学は違うだろう、と一人決めしていたのである。だが、むしろ逆で、恐縮している様子に驚いた。何か大事なことがよくわかっていないのだ、と感じたことを思い出す。

もちろん、今では、規制緩和の時代とはいえ、許認可の獲得がいかに私学の死命を制するかも分かるようになった。「恐縮」にも理由がないわけではない。また逆に、大学が正当に要望していることが、実は行政当局自身も要望していることだ、といった「機微」も分かるようになってきた。だが当初は、ずいぶん疑問にも感じ、また「ふがいない」と思ったものである。

ところで、政策を見る、というのは実はかなり難しい作業である。

第1に、時間的スパンを広げて「観測」し続けなければならない。例えば評価についていうと、第三者機関による評価や認証評価機関による評価などについても、それらの発生・本質・特色等を知悉しておかなければ、対応しきれない。FDやSDといった新動向についても同様である。教員集団がこうしたことをよく知っている保証はない。

第2に、規制緩和動向の中で、大学・高等教育政策を担う主体が、実はかつてと比べものにならないほど複雑化し、多元化してきた。つまり、検討しておくべき資料そのものの範囲は文部科学省および審議会等が発出したウェブ情報や文書資料だけに限られない、という事態が起きている。

例えば、去る2007年9月に中央教育審議会大学分科会内の小委員会が発表した「学士課程教育の再構築に向けて(審議経過報告)」には、詳細な参考資料集が付けられている。そこには数々の統計資料と並んで、関連諸団体の大学意見が数多く収められている。団体名は、当の中教審や前身の大学審議会はもちろんのこと、厚生労働省、経済産業省、総務省科学技術総合会議、内閣府、日本労働研究機構、日本私立学校振興・共済事業団、財団法人大学基準協会、日本技術者教育認定機構、大学評価・学位授与機構、財団法人日本高等教育評価機構、日本経団連、経済同友会、OECD、さらには経済財政諮問会議、教育再生会議など、軽く十指に余る。現代の大学・高等教育政策をつかむには、こうした広がりをもって資料の収集と分析を行い、しかも続行していく必要がある。なかでも、大学審議会・中央教育審議会等の意見・答申については、過去10年間ぐらいにさかのぼって論点を整理し、変化があれば確かめておく必要があろう。

第3に、断っておきたいことがある。資料を収集し整理するといっても、目的は「国策の上意下達」を支えるためではない、という点である。政策の現在と今後を見通し、場合によってはそれを「利用」し、時には反論もしなければならない。大学の自立性と主体性を維持するためである。そのためには予測や判断が必要であろう。くりかえし「洞察」と述べているのはその意味である。

洞察という作業が求められるもう一つの理由は、行政指導の基礎にある法的な含意(インプリケーション)の正確な理解が、どうしても必要だからである。例えば、「FDの義務化」といわれるけれども、それは個々の教員に対して「義務」を負わせるものではない。「法人の、国に対する義務」と解するのがおそらく正しい。また「認証評価」という新評価が生まれたのではない。「認証評価機関」という機関群が生まれたという意味である。他方、FD理解・SD理解についていうと、最も求められているのは、各大学の個性に即した独自のFD理解、SD理解であって、画一的なプログラムの施行ではない。こういった微妙な、しかし実践上極めて重要な理解を共有しておく必要がある。そのためには職員の綿密な学習が求められる。言葉をかえると、大学のコンプライアンス(法令遵守)の基礎となる概念理解の正確さが(大学の「自衛」のためにも)求められている

とはいえ、長期にわたる、総合的で多面的な政策理解のためには、職人的な個人技だけではとても足りない。各大学の内側に、大学問題や大学教育変革の方針を形成する独自の機関(インスティテューション)が必要になる。多くの国立大学法人が大学教育センター、教育実践センターの類を開設しているのは、IR(インスティテューショナル・リサーチ=大学教育・研究の組織的調査)と並んで、政策理解の必要があってのことに違いない。私学の中の自覚的な大学も、この作業を強化している。また、FD・SDに責任を持つ部局や教員ポストも、今後特設されていくことであろう。国は、それらの試みをこそ大いに助成して行くべきであろう。

以上、3回にわたって記した荒削りの試論は、文字通り職員能力形成のための「新人教育」のメドあるいは(本紙編集者の評に従えば)「職員教育のリベラル・アーツ論」とも言えようか。今後多くの専門家の方々が批判し発展させてくだされば幸いである。

今後10年続く少子時代を支えるのは、大学人総体の、特に職員の力である。その能力開発事業は必須のものになるだろうし、国によるサポートも、ますます重要なものになるに違いない。

(出典:http://www.shidaikyo.or.jp/riihe/research/arcadia/0317.html

2011年2月5日土曜日

教育の質の確保・向上を

文部科学省が、平成22年度の「設置計画履行状況等調査の結果等」を2月4日に公表しています。

設置計画履行状況等調査(通称「アフターケア」と言われています)は、文部科学省令*1及び告示*2に基づき、大学の設置認可時等における留意事項及び授業科目の開設状況、教員組織の整備状況、その他の設置計画の履行状況について、各大学からの報告を求め、書面、面接又は実地により調査を行い、各大学の教育水準の維持・向上及びその主体的な改善・充実に資することを目的として実施されるものです。

調査結果の概要(抜粋)は以下のとおりです。教育の質の向上が強く求められている今日、今回指摘を受けた大学はもとより、全ての大学が今一度自分のこととして受け止め検証を行うことが必要です。


平成22年度調査結果の概要

設置計画を着実に履行する必要性に対する認識不足などを背景に、履行状況が不十分な大学が見られた。特に、設置認可後から完成年度に至るまでの間における各種変更計画に係る手続に対する理解不足により、教員の新規採用又は担当科目の追加若しくは職位の昇格の場合に大学設置・学校法人審議会の教員審査を受けていないなど、変更の際必要な手続きを経ていないという、極めて不適切な事例も見られた。

本年度の調査を踏まえ、当該留意事項が付されている大学はもとより、その他の大学においても特に留意していただきたい点を以下にまとめた。


入学定員管理
  • 各大学は、様々な工夫の下で入学定員の充足に向けた取組を行っているが、当初計画の甘さなどから、学部学科等が開設して以来、入学定員の未充足が続いている大学も見られた。このため、各大学においては、学生や社会からのニーズを踏まえ、今後の入学定員の確保に向けた具体的な取組が求められる。

  • 他方、入学定員を大幅に超えた学生を受け入れた結果、適正な入学定員の管理が必要と考えられる大学も見られた。各大学においては、それぞれの教育環境を踏まえた教育の質の確保を図るため、自ら定めた定員に基づいた学生数の管理が必要である。

教育課程等
  • 1単位に必要な授業時間数については、大学設置基準(昭和31年文部省令第28号)において、講義や実習等、授業の方法に応じて15~45時間とされており、講義の場合は、定期試験を除いて、1単位当たり最低でも15時間の確保が必要とされているが、15時間の授業時間に定期試験が含まれている大学も見られた。また、キャップ制(単位の過剰登録を防ぐため、1年間又は1学期間に履修登録できる単位の上限を設ける制度)については、1年間の履修上限単位数が多すぎて、各年次にわたって体系的に授業科目を履修するという趣旨に必ずしも沿っていない事例も見られた。このため、各大学においては、法令に基づいた単位の実質化を図るための取組が求められる。

教員組織
  • 教員組織について、予定された専任教員が未就任となったことにより、授業科目が未開講になるなど当初の理念や計画の実現性が懸念される大学や、教員の退職により大学設置基準に定めた必要専任教員数を下回る大学など設置計画の着実な履行に対する認識が不足していると思われるような大学も見られた。このため、各大学においては、教育研究上の目的を達成するための教員組織の整備に対する意識の向上と適切な教員組織の整備のために必要な手続に関する学内関係者の理解の促進を図るための取組が求められる。

ファカルティ・ディベロップメント(FD)
  • FDについては、様々な取組が行われているところであるが、特に、その一環として実施されている学生による授業評価については、評価結果が学生にフィードバックされておらず、授業評価がどのように活用され、どのように改善されているのか学生が確認できないといった事例も見られた。このため、各大学においては、評価結果について、学生等に対する公表等を通じて教員の教育改善への継続的な取組に活かしていくことが求められる。

施設・設備
  • 施設・設備については、専門誌や学術雑誌の種類及び冊数の不足等が見られた。各大学においては、図書館及び体育館、運動場等の体育施設の整備等、教育研究に必要な施設・設備の充実が求められる。

上記については、特に留意いただきたい事例を示したものであるが、各大学においては、設置認可申請に係る書類、あるいは届出に係る書類は、「各大学が社会に対して着実に実現していく構想を表したもの」(「中長期的な大学教育の在り方に関する第二次報告」平成21年8月中央教育審議会大学分科会)であること、大学設置・学校法人審議会会長が大学の設置・運営に関わる全ての方に対して、改めて大学を設置する責任の重みを十分に自覚いただくよう要請するコメントを出している(平成19年11月27日「11月答申の提出に当たって」)ことを十分認識するとともに、適切な対応をとるように改めて強く求めたい。

また、学生や社会からの多様な要請に応えるために、柔軟な組織改編等を行うことも重要ではあるが、一方で、中央教育審議会からは、「頻繁な改組や設置計画の変更によって、真に学生が体系的に学び、学習成果を達成できるのかどうかが危ぶまれる事例が生じてきている」(「学士課程教育の構築に向けて」平成20年12月24日中央教育審議会)との指摘がなされている。各大学においては、組織改編等を検討する際、学位授与の方針(ディプロマ・ポリシー)、教育課程編成・実施の方針(カリキュラム・ポリシー)、入学者受入れ方針(アドミッション・ポリシー)を明確にし、学士課程教育として相応しく、ある程度、継続的に維持される組織改編等を期待したい。

全文はこちらをどうぞ
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/02/1301974.htm



参考までに、「教職大学院」の設置計画履行状況等調査の結果等についても抜粋してご紹介します。

個別に留意事項は付さなかったものの、全体の傾向として留意すべき点を含めて主な項目ごとに所見をまとめると、以下のとおりである。


教職大学院の目的等

各大学では、実践的指導力・展開力を備えた新人教員の養成と実践力・応用力を備えたスクールリーダーの養成を行うという教職大学院制度の役割を踏まえつつ、各教職大学院が目指す教員養成の目的に沿って、着実に取組を進めつつある。
他方、各教職大学院が、大学として行う教育内容や養成すべき教員像について、学生や教育委員会等と共有化されていない場合があるという指摘があった。今後、教職大学院の目的・養成すべき教員像等をより一層明確化し、教職大学院に期待される役割を果たす必要がある。
また、教職大学院は、教員養成政策の大きな柱として創設された経緯を踏まえ、大学教員一人一人の教員養成に係る意識改革を進め、我が国の教員養成の改革に資することが教職大学院の使命であることを踏まえた取組が求められる。教育委員会・学校等との連携が進む中で、大学教員がこれまでよりも学校現場に出向くようになったり、実務家教員が学部の授業を担当したりするなど、取組が段階的に進められているが、今後、学部段階や既存の大学院を含む教職課程全体に具体的にどのような改善が図られたのか、各大学で教育委員会等の視点を加味した検証を行うとともに、これらの取組をさらに系統的・組織的に広げることが重要である。


「理論と実践の融合」によるカリキュラム・教育方法

各教職大学院では、実務家教員と研究者教員によるティームティーチングの導入など、画期的な教育が行われている。今後、さらなる協働体制の強化により、理論の実践への応用、実践知の理論化が図られ、「理論と実践の融合」による新しいカリキュラムや教育方法の確立が図られることが期待される。
実習については、教育委員会や学生の要望、実習の目的等を踏まえ、大学ごとに様々な方法で実施されている。現職教員学生が現任校で実習を行う場合に、勤務との切り分けが明確でなく、日々の業務に埋没するといった問題が指摘される一方、学校現場の課題を直ちに研究課題として取り組めるという点で有益であるという大学も見られた。現任校での実習を行う場合には、大学が実習の目的・達成基準等を明確にし、担当教員が定期的に現任校に訪問し指導を行ったり、職務の負担軽減等を学校・教育委員会に依頼するなど、大学が責任を持って効果的な学習を行う体制を整備することが求められる。
学部新卒学生と現職教員学生の合同教育については、学部新卒学生は現職教員学生からアドバイスを受けることができる、現職教員学生は新人教員への指導の訓練となるといったメリットがあり、各教職大学院において、それぞれの経験や能力の差に応じた教育内容・方法の工夫が行われているが、現職教員学生・学部新卒学生のそれぞれのスキルアップの観点から、引き続き、合同教育により十分な教育効果が得られているのか検証を行い、その良さを活かしつつ、両者の力を最大限に引き伸ばすことができるきめ細やかな指導体制を構築することが必要である。


教育委員会等との連携

教育委員会との連携については、各教職大学院から積極的に話合いの機会を設けるなど、改善が見られる。しかし、教育委員会等のカリキュラムに関する要望等が教職大学院において十分に検討されていない、都道府県等による現職教員学生の派遣人数が十分に確保されていない、採用試験・研修の免除等の取組が進んでいないなど、教職大学院や教育委員会によって取組に対する温度差が引き続き見られる。
今後、教育委員会・学校等との連携のための組織の実質的な運用に努め、教職大学院の設置趣旨について一層の理解を図り、積極的な連携協力のための共通認識を確立するとともに、カリキュラムや教育方法などに関して教育委員会等の要望・意見等を踏まえた改善をするなど、大学全体として一層の連携強化が期待される。


入学者の確保

各教職大学院では、教育委員会に働きかけ、学部新卒学生確保のため、教員採用試験の免除、試験合格者への名簿搭載期間の延長等のインセンティブの設定等がなされている。また、入学試験の工夫や入学説明会の開催など努力を行い、全体として入学者定員の充足率が改善している。しかし、いくつかの教職大学院では、定員充足率が低い状況が続いており、各教職大学院で教育内容の質の保証を図り、現職教員や学生・社会人等に教職大学院の意義と成果を広く周知することで、学生の質を保ちつつ、安定的に定員を確保する必要がある。


成績評価等

各教職大学院では、授業計画(シラバス)において、一年間の授業の方法や内容をあらかじめ明示しているものの、一部の教職大学院では、教員ごとに記述内容に濃淡があることや、実際の実習の状況等と大きく異なるなどの課題があった。
また、授業の目標・達成基準や成績評価基準についてもあらかじめ示されているものの、学生に十分理解されていないことや、成績評価基準があいまいであると学生が感じており、その結果を学修等にフィードバックするような仕組みになっていない大学も見られた。
そのため、各教職大学院においては、シラバスの記述内容を見直すことや、授業の目標・達成基準や成績評価基準を検証・再検討し、さらに明確化して学生に提示するよう努めることが求められる。


教員組織整備とFD活動

実務家教員と研究者教員からなる教員組織の整備は、すべての教職大学院で行われているが、一部の教職大学院で年齢構成のバランスを欠くなどの状態が見受けられており、順次是正が求められる。
FD委員会や学生による授業評価、ティーム・ティーチングによるFD、公開授業によるFDなどが多くの教職大学院で行われている。しかし、学生の意見等が教育課程の充実・改善に必ずしも十分に反映されていない大学も見られた。このような取組を組織的かつ実効性のあるものとし、さらに全学的な取組に展開するよう努めることが必要である。


施設・設備の整備状況

各教職大学院で、概ね認可時の計画どおり履行されているが、ネットワーク環境の整備など、学生の学習環境の整備に課題があるなどの指摘もあり、引き続き、教職大学院の目的に照らし、十分な教育成果をあげることができるよう、必要な施設及び設備その他諸条件の整備が求められる。

全文はこちらをどうぞ
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/02/1301983.htm


(関連記事)

4教職大学院に改善を要請 定員割れなど、文科省 (2011年2月4日 共同通信)

*1:大学の設置等の認可の申請及び届出に係る手続等に関する規則(抄)(平成19年3月30日 文部科学省令第10号)第14条:文部科学大臣は、設置計画及び留意事項の履行の状況を確認するため必要があると認めるときは、認可を受けた者又は届出を行った者に対し、その設置計画及び留意事項の履行の状況について報告を求め、又は調査を行うことができる。

*2:文部科学省告示第44号(抄):大学設置基準(昭和49年文部省令第28号)第53条の規定に基づき、新たに大学等を設置し、又は薬学を履修する課程の修業年限を変更する場合の教員組織、校舎等の施設及び設備の段階的な整備について次のように定める。3 文部科学大臣は、大学等の設置を認可した後、当該認可時における留意事項、授業科目の開設状況、教員組織の整備状況その他の年次計画の履行状況について報告を求め、必要に応じ、書類、面接又は実地により調査することができるものとする。ほか

2011年2月2日水曜日

国立大学の学長に期待される役割とは

国立大学が法人化して丸7年が経過しようとしています。この間、国立大学法人は様々な意味で大きな変化を遂げてきました。その中で大学構成員の先頭にたって改革を進めてこられた学長さんたちのご苦労はさぞや大変なものだったにちがいありません。

変化を好まないネガティブな教職員が少なくない中、あらゆる場面で彼らからの批判や抗議をくぐりぬけながら、法人としてのあるべき姿を追求し続けなければならない使命感や、大学経営に関する頼るべき前例も知識・経験の抱負な参謀的役割の事務職員もいない中で連日究極の判断を求められる緊張感に押しつぶされそうになりながら耐えてこられた(あるいは現在も耐え続けておられる)学長さんも多いのではないでしょうか。

そんな国立大学の学長さんに関して、私たちがこれからの学長像を考えていくに当たって参考になる論考を抜粋してご紹介します。この論考は、神戸大学の川嶋太津夫氏(当時)が書かれた「国立大学の法人化と学長職の変容」と題するもので、私にとっては、鋭く実態が捉えられておりとてもわかりやすく的確な示唆を与えてくれるものでした。問題は、この正論を現場にいる教職員がどのように認識し実行していくかなのですが、そこが難しいのが大学経営でして・・・。(太字は私の判断で強調したものです。)

国立大学の法人化と学長職の変容


1  はじめに

国立大学の法人化は、国の行財政改革が大きな推進力となったことは否定し得ないが、国際的な視点で見れば、早晩法人化は避けられない事態だったであろう。各国に共通するのは、高等教育への政府からの支出の減少、大学の活動に対する社会からのアカウンタビリティと質保証の要求の高まり、そして何よりも、知識基盤社会において知識の継承と創造の中心アクターとして、国際的な国家間競争への大学の貢献に対する期待の高まりが指摘できる。言い換えれば、このような大学を取り巻く劇的な環境変化のもとでは、個別大学に大幅な自律性や裁量権を与え、機動的な大学経営を可能としない限り、各大学も、また国家そのものも知識基盤社会における国際的な経済競争に打ち勝てないということである。そのため、年度予算のほぼ50%が運営費交付金として政府から措置されるものの、各国立大学には独立した法人格が付与され、財政的に自立し、自律的・機動的に経営できるよう「国立大学法人」が設立された。まさに世界中で起きている「知の共同体」から「知の経営体」への転換がわが国でも起きたのである。この国立大学の「大転換」において、学長の役割や権能も大きく変ることが期待された。


2 学長に期待される役割の変化

法人化される前の国立大学は文部科学省の「一部門」であった。したがって、授業料や診療費などの自己収入は一度国庫に納められ、他の政府部門と同じく、年間の業務に必要な経費は、改めて政府(文部科学省の国立大学特別会計)から年度ごとに予算として措置される仕組みであった。予算は専攻分野ごとの学生数や教職員数などの積算基準に基づいているため、大学は年度末までに粛々と予算を「執行」すればよく、資源を目的達成のために効率的・効果的に配分するという意味での「経営 Management」は必要なく、大学は教育研究という業務を「運営Operation」していればよかった。つまり、これを車の運転にたとえれば、法人化以前は、車の運転席に座っていても自らハンドルを握る必要はなく、文部科学省というオートドライブが、毎年目的地まで連れて行ってくれたわけである。大学(教員)は運転(経営)の心配をすることなく教育研究活動に従事していればよかった。しかし、法人化後は、大学が自ら運転席に座って、天候や路面状況の変化や燃費を考慮しながら、目的地にできるだけ早く、そして安全に着くことが求められるようになったわけである。

したがって、法人化前は車の運転席に誰が座るかどうかはあまり重要ではなかった。運転免許(経営手腕)の有無さえ問われなかった。教員の全てが平等に運転席に座る資格を有していたわけで、これが「同僚制 Collegiality」と呼ばれる大学の運営形態であった。しかし、実際には運転席には一人しか座れないので、中世大学以降、運転席に座る教員の「対等なるものの筆頭」を「学長 Rector」として全員参加の選挙で選出してきたわけである。従来の学長は「知の共同体」の「代表者」としての役割以上のことは期待されていなかったのである。学長は、対外的には教員の代表として様々な儀礼に参加し、学内的には最高意思決定機関とされた評議会の議長を務めるのが主たる役割であった。したがって、単なる同僚教員の代表に過ぎない学長が、他の同僚教員に指示を下すこと、すなわち「トップダウン」の意思決定は不可能であった

しかし、20世紀の終盤から 21世紀にかけて大学を取り巻く環境が劇的に変化した。わが国も含めて、大学が政府機関の一部であった国々では大学は政府の一部門から、独立した法人組織へと制度変更されるとともに、「確実なことは不確実なことである」という不透明な競争的環境に各大学は放り出されることとなった。そこで、学長の役割も、これまでの教員の「代表者」としての役割からの変貌を余儀なくされている。先ほどのたとえで言えば、少なくとも運転免許(経営手腕)は必要条件となった(はずである)。では実際にどのように学長の役割は変化しているのであろうか。

英米の大学では、学長は単に教員の「代表者」ではなく、優れた学問的業績を有する教員のなかの「リーダーacademic leader」、さらには「経営者」(それも必ずしも大学教員や研究者である必要はない)としての役割へと大きく変化し、それにともない大規模組織を効率的に経営できる能力、具体的には対人関係能力、コミュニケーション能力、外交手腕や交渉力、そして戦略的な思考と実践力などの資質や能力が求められるようになった。

では、わが国の学長、とくに国立大学の学長にはどのような資質や能力が求められ、あるいはどのような役割が期待されているのであろうか。国立大学の法人化にあたって、文部科学省はその制度の検討を行い、その結果を『新しい「国立大学法人」像について(通称「緑本」)』第2部 組織運営として公表した。その中で、あるべき国立大学法人を検討する視点の一つとして「経営責任の明確化による機動的、戦略的な大学運営の実現」をあげ、そのために学長は「法人化された大学の最終責任者として、法人を代表するとともに、学内コンセンサスに留意しつつ、強いリーダーシップと経営手腕を発揮し、最終的な意思決定を行う」ことが期待されていた 。ここには、先に紹介した欧米の大学長と同じように、単に同僚教員の代表であるだけでなく、強力な「リーダー」であり、「経営者」としての学長像が描かれている。

では、実際に学長の選考に当たって、このような国立大学法人の学長に期待された役割を明確にし、その役割に相応しい候補者の資質や能力を規定した上で、候補者選定が行われているのだろうか。そこで、複数の国立大学の「学長選考規程」等を調べてみると、驚くことに、以下に紹介する大学の規定と、全く同じ表現で、国立大学法人法第12条第7項の規定をそのまま引いたものがそのまま学長の資格とされている。

「学長候補者は、人格が高潔で、学識が優れ、かつ、大学における教育研究活動を適切かつ効果的に運営できる能力を有する者とする。」(M大学)

この表現からは、「緑本」に記述された強力な「リーダー」であり、戦略的な「経営者」としての学長像は浮かび上がってこない。第一に学長に求められる資質は人格の高潔さと学識の豊かさであり、期待される役割は、教育研究活動の適切かつ効果的な「運営」であって、財務も含む大学という複雑な組織の効率的な「経営」能力については明示的に言及されていないからである。むしろ、この規定はアメリカの大学で「最高学務責任者」とされる”Provost=Chief
Academic Officer”の役割に近い。

ところが、学長候補者の資格については、「強力なリーダー」あるいは「経営手腕」について明確な記述がないにもかかわらず、今回の調査ではほぼ全ての学長が、「リーダー」としての役割を「重視している」「やや重視している」と認識している。興味深いのは、その一方で「大学の顔」や「調整者」といった従来の学長像への否定意見(「余り重視せず」)が相当数存在することである。この結果をあえて解釈すれば、国立大学の各学長は、法人化の理念を極めて忠実に内面化しているということであろうか。


4  国立大学長の挑戦

厳しい環境下に置かれている国立大学法人の経営の最終責任者である学長のありかたについて、課題は大きく二つあるだろう。一つは学長選考にかかる課題であり、他方は学長のキャリア・パスと研修に関わる課題である。


4-1 学長の選考方法・過程

国立大学法人法では、学長の選考あるいは解任は学長選考会議の専決事項とされている。しかし、多くの大学では円滑な制度移行を目指して従来どおりの意向投票を実施している。ただし、従来と異なる点は、先にも指摘したように教員だけでなく事務職員にも選挙権を与える大学が増えていること。また、複数の最終候補者に所信表明の機会を設け、それぞれの候補者の大学経営の方針を理解した上で意向投票を実施する大学も多い。これらの方法は、法人化以前の所信表明もなく、いきなり教員のみの投票によって学長を選ぶ方法に比べればかなり大学経営の適格者の選考の改善にはなっているだろう。しかし、意向投票をベースとする限り候補者は学内に限定されるだろうし、人気投票に堕す危険性も回避できない。一気には行かないにしても、英米のように、学長に必要な能力と資質、そして職責を明確にした上で公募し、広く学内外から適任者を探すべきであろう。ただし、学外から学長に就任した場合、学内での支援者が少なく孤立する可能性もありえよう。英米ではそういう場合、学長を選任した理事会が一貫して学長への支持と支援を保証することによって、学長も経営に専念できることになっている。しかし、現行の国立大学法人制度では学長選考会議は学内・学外の委員同数で構成することになっており、学長選考会議が英米の理事会のように自らが選任した学長を一貫して支持・支援できるか疑問である。国立大学法人制度が目指した「強いリーダーシップと経営手腕を発揮し、最終的な意思決定を行う」学長を選任するには、法制度そのものの見直しも必要となるかもしれない。


4-2 学長のキャリア・パスと研修

繰り返し述べてきたように、これからの国立大学の学長は「対等なるものの筆頭」ではなく、学識豊かな学者であると同時に強力な「リーダー」であり、経営手腕が強く望まれている。学識の高さについてはともかく、リーダーシップや大学経営手腕については多くの学長にとって新たな挑戦となる課題であろう。その課題の解決には体系的な研修が不可欠であり、国立大学協会でも研修プログラムを実施中である。しかし、いまだ内容と方式については模索中であり、今後は一人ひとりの学長のリーダーシップ・スキル診断、それをもとにしたメンタリングやコーチングを含む個人的な研修の実施、また優れた大学経営の事例分析や実地訪問、さらには民間企業トップとの交流機会の拡大など、研修事業の一層の充実が望まれる。

また、学長のキャリア・パスの分析から判明したように、学部長等の部局長は将来の学長候補者の「人材プール」である。部局長はとかく自部局の利害を中心に思考し、大学全体あるいは内外の高等教育の動向を理解したり、それらに関心を示したりすることが少ない。そのため「学部の経験しかない学部長(学部教授会)が、まま全学の挙動にストップをかけてことが進み難かったことの繰り返しが、戦後いくつもの大学が世界の流れの中で取り残されそうな現状をつくってしまった」。ところが、現在のところこれらの職についている教員に対する研修の機会は、個別大学においても全国レベルでも全く関心が向けられていない。今後、世界の流れに取り残されない大学経営の手腕を有した強力なリーダーである学長を育成するには、将来の学長の有力候補者である部局長に対する研修がぜひとも必要である。

最後に、学長に選任されない場合、ほとんどの副学長は再び教授職に戻るケースが多い。せっかく学長の近くで学長職とはどのような役割かを学び、学長を補佐して大学経営に携わってきた経験や学習が浪費されていることになる。英米では Provost や Pro-Vice-Chancellorと呼ばれる副学長が、新たに他大学の学長に選任されるケースが多い。わが国でも今後大学経営の専門職化を目指すならば、学長の選考方法を先にも提案したように公募制として、(外国大学も含めて)他大学の現職学長、副学長から選任することを真剣に考えるべきであろう。国立大学の多くが教育研究の「グローバル・センター・オブ・エクセレンス」を目指すならば、そのインフラである大学経営とそれに責任を持つべき学長自身、またその育成や選考過程もグローバルなものにすべきではなかろうか。

全文をお読みになりたい方はこちらをどうぞ
http://www.zam.go.jp/n00/pdf/nf006006.pdf

2011年2月1日火曜日

コミュニケーションの技術を伸ばす

信頼関係を築いて好印象を与えるコミュニケーションのポイントは4つある。
  • 相手を打ち負かそうとしない。コミュニケーションを議論と混同している人があまりにも多いのが現状だ。自分が正しくて相手が間違っていることを証明しようとすると、相手は腹を立てる。あなたは誰かからそういうことをされたらどう感じるだろうか。それは職場でも家庭でも同じことだ。
  • 自分のことばかり話さない。相手に話をさせずに自分についての話ばかりしていると、相手のことはどうでもいいという印象を与えるおそれがある。こういう態度は相手に不快感を与えるので、相手はすぐに興ざめをし、あなたとかかわりを持ちたくないという気になってしまう。今後の課題として、自分が話している割合を全体の半分以下にするよう努力すべきだ。
  • 相手の話を途中でさえぎらない。自分が次に話すことを考えながらコミュニケーションをすると、相手の話を聞くことに集中できなくなる。また、自分の考えがまとまると相手の話を途中でさえぎって話したくなる。だが、それは相手への侮辱である。相手の話を最後まで聞く習慣をつけることが不可欠だ。
  • 相手より携帯電話を優先しない。昨今、外の世界と絶えずつながっていなければ不安を感じる人が増えている。そういう人は携帯電話の奴隷になりがちだ。たとえ会話の途中であっても、携帯電話が鳴ったりメールの到着を知らせたりすると、すぐに携帯電話を手にとる。離れたところにいる人のほうが目の前の相手より重要だと思っているのである。

ディスカヴァー・トゥエンティワン
発売日:2006-06-15