2011年2月19日土曜日

IR(Institutional Research)に何を求めるべきなのか

近時、大学を取り巻く厳しい社会的、行財政的環境の変化に適応していくためには、大学経営人材、中でも経営トップを支える大学職員の養成が緊要な課題とされています。

同時に、経営トップの判断に不可欠な、戦略的大学経営に資する様々なデータの取得・分析・提供(提言)を効率的・効果的に行うIR(Institutional Research)機能の充実強化も益々重要視されています。

これまでこの日記でも、IRに関する情報をお知らせしてまいりましたが、今回は、国立大学財務・経営センター教授の金子元久さんがIDE(現代の高等教育)(N0.528 2011年2-3月号)に寄稿された「IR-期待、幻想、可能性」を抜粋してご紹介します。(太字強調は私の判断です。)

IR-期待、幻想、可能性


簡単に整理すれば大学におけるIR(Institutional Research)とは、1)データ収集・蓄積、2)特に教育機能についての調査・分析、そして3)大学経営の基礎となる情報・分析の提供をさす。それは大学にとって何を意味するのか。

現在の日本の高等教育が様々な意味での転換点にあり、個々の大学の経営能力が問われていることを考えれば、こうした意味での活動に関心が高まるのは、当然といってもよいかもしれない。私どものグループが昨年に行った「全国大学職員調査」(有効回答者数、約6,000人。http://ump.p.u-tokyo.ac.jp/crump)でも大学の現状について「企画調査能力をさらに強化する必要がある」という設問について、<そう思う>あるいは<ある程度そう思う>という回答がほぼ9割を占めた。こうした意識は大学の管理運営に直接に関わる人々にほぼ共有されているといえよう。


日本の大学とIR

ところで考えてみれば、IRの活動は日本でもこれまで行われてこなかったわけではない。

特に1960年代後半の学生運動の昴揚期には、大学というものの存在自体が社会的な関心を呼んだこともあって、大学についての調査研究をおこなう組織が、いくつかの大学に作られた。1970年には広島大学に「大学問題調査室」が作られ、これが現在の同大学「高等教育研究開発センター」に発展した。同じ時期に同様の組織が作られた例はほかにもない。ただし多くの大学ではこうした組織は学生運動の退潮とともに衰微し、存続した組織もその関心は、むしろ専門的な高等教育研究に向かい、個別大学そのものの改革との接点を失っていったことは否めない。

これを第一波とすれば、第三波の動きは1990年代に始まった。1991年の大学設置基準の改正によって、大学に自己評価が義務付けられ、それへの対応を直接の契機として、自大学の現状についての調査、資料整理への要求が高まったのである。たとえば東京大学では、1992年に「東京大学調査室」が学内措置として設けられ、これが1996年に「大学総合教育研究センター」となった。またこの大学設置基準の改正による一般教育の規定の緩和を受けて一般教育担当部局の改廃を行い、部局に代わる一般教育実施組織として、「大学教育センター」などの名称の組織を設置し、これに大学教育についての調査研究の機能を持たせる国立大学も少なくなかった。また私立大学でも 自己評価報告書の作成を目的とする組織を作った例が少なくない。

しかしこうした組織もその後は必ずしも期待された役割を果たしてきたとはいえない。私自身が、こうした組織の設立にかかわり、数年間はその責任者を務めた経験からいえば、それは理由のないことではなかった。

第1に、基本的なデータの収集整理という機能についていえば、一通りの統計をそろえるのは必ずしも困難ではない。むしろそうしたものは、従来の事務局の体制の中で報告を求めたほうが効率的ともいえる。しかしそれと、もう少し広い視野で大学として必要なデータを普段から蓄積するという要求はきわめて異なる。大学に関するデータはきわめて多様であって、一般的にデータを蓄積することなどはあり得ない。1991年から数年の間に各大学が作成した「自己点検」報告書が、結果としてほとんど顧みられることがなく終わったのは、こうした問題と密接にかかわっている。

第2に、とくに大学教育改革に必要なデータは、計画的・体系的な調査を行わなければ得ることができない。しかし、学士課程、大学院のいずれについても教育はいわば学部、研究科の専管事項であって、そこに事務局に直属する一組織が、鼻を突っ込むことにはきわめて大きな抵抗がある。しかも学部教育に関する調査は、いわば、大学教育の現状の問題点を明らかにするという意味では、現状を告発する役割を負っている。それに対して各部局が警戒するのは当然ともいえよう。とくに各部局からなる管理委員会などによってこうした組織が管理されている場合には、運営そのものが難しくなる場合がある。

そして第3の、最も基本的な困難は、大学執行部の側が、こうした調査組織をどのように使うのかという戦略を欠いていることから発する。私の経験からいっても、就任の時点で学部教育の改革を、最重要の課題として強調しない学長はいなかったといってもよい。しかし学内運営の実際に関われば、概算要求などの組織改編についての部局間の調整、様々な予算インセンティブへの対応、あるいは様々の管理上の事件への対応などに追われて、学部教育改革は具体的な課題ではなくなってしまう。個別の調査の必要は生じたとしても、大学教育研究センターの役割は長期的な経営課題とはかけ離れて、しまうのである。

こうした状況の中で、センターの職員も展望を失う。管理職には、大学の部局長の経験者など、一定の管理運営業務についた経験の教員があてられる場合が多いが、そうした経験は大学の一部についてのものにすぎない大学全体が中長期的に大学が直面する課題について明確なイメージにつながるわけではないし、それが大学執行部のもつものと一致するともかぎらない大学教育についての、それぞれの専門分野での教員としての経験や、行政的な経験からの何らかの問題意識も、それだけではデータ収集や調査を通じて明らかにしていく戦略をもたらすものではない

そうした観点から専門的な知識・技能をもつスタッフとして、教育社会学や心理学の若手の研究者が専任の職員として採用されることも多い。しかし一般にこうした若手の研究者が最も能力を発揮できるのは、学術的に一定のパラダイムや方法が形成され、それをさらに発展させていくときである。自ら問題を発見し、それに取り組む方向を探し、またその意義を周囲に説得することを求められる場では、彼らは力を十分に発揮できない結果として彼らの関心は、自分の出身の専門分野の研究に回帰してしまうことになる

こうした構造の中で、日本におけるIR機能は自律的に大きく発展することがなかったといえよう。そしてその背景には、アメリカのIRが恒常的に直面する問題と同様の構図があったのである。


可能性

こうしてみれば、現在のIRへの関心の高まりは、いわば第三の波ともいえよう。そしてそれは、その背後の構造が変わらない限り、ひとつの幻想に終わる可能性をもっている。しかしもう一方で、新しい可能性が生じていることも事実である。

その最も現実的な背景は、個別大学の情報公開への要求である。前述のようにアメリカにおいてIR機能が拡大した直接の契機は、政府と適格認定団体による、各種のデータの要求であった。日本においては大学に対する政府の権限の曖昧さもあって、こうした形での要求がこれまで現実化しなかった。しかし大学教育の機会の供給が需要を大きく上回り、.質的保証が社会的な要求になるにつれて、こうした課題は避けえないものとなっている

昨年の学校教育法附則の改正はそうした動きが確実に具体化しつつあることを示すものといえよう。さらに将来的には、大学設置認可、個別大学情報データベース、そして認証評価機関による学位プログラムを中心とした評価、という形での、多元的な質保証・維持システムが目指されるのではないだろうか。その中で個別大学が、必要とされるデータを体系的に収集、保存し、必要に応じて提供することが不可欠となることはいうまでもない。

ただしそうした意味でのデータ提供のみが問題なのであれば、それは名称はどうであれ、ルーティン的な管理事務機能の一部として処理できないものではない。むしろ重要なのは、そうした機能を基礎としつつ、これからの基本的な大学の課題に取り組むことである。

21世紀の高等教育の課題が、これまでの量的拡大から質的再編に移ることは自明であろう。しかし21世紀の最初の十年が過ぎた今、明らかになりつつあるのは、「質的再編」は、ただ単に「改革」というバラ色のコトバであらわされる理念ではなく、実はきわめて複雑な、しかも深い葛藤を通じて実現されるものとなる、という冷徹な事実ではないだろうか。

社会からの大学教育の実効性に対する批判はさらに強くなる。その一方で、大卒者の低位雇用の状態はさらに常態化する。他方で政府の高等教育支出の停滞・削減は避けることができず、学生に対する負担を増加させることはさらに困難になる。また国際的な競争も具体化する。こうした状況の中で、低コスト・低質、という、日本の大学に共通の特質をいかに脱出するかが、選抜性の高低に関らず大学に問われるのである。

そうした課題にこたえる上で、大学の調査・企画機能は戦略的にきわめて重要な役割を果たす可能性をもっていると私は考える。最近のIRに対する関心の高まりは、実はそうした予感をその背景としているのであろう。しかしIRがそうした、いわば大それた期待にこたえるためには、大学そのものに、きわめて重要な変化が生じることが不可欠の前提となる。

その条件の第1は、大学内部における情報の共有、活用の文化を形成することである。上述のように、政府あるいは適格認定団体に対して、一定の指標を提出することを求める傾向がさらに強まることは疑いない。そうした情報提供は単に外にむかって行われるのではなく、大学の構成員に周知され、また活用されなければならない。とくに教職員がその業務にあたって、大学全体の状況を把握することは極めて重要である。

特に一般の教職員や学生にわかりやすい形で各種の情報が提供されるとともに、教職員に必要に応じて各種の情報を収集し、分析する能力を形成することが必要となる。教員については、こうした点での技能が一般に高いと思われているが、私の経験からいえば、必ずしもそれが大学の運営あるいは教育について必要な情報についての知識技能につながるわけではない

また職員は、これまで運営業務をそれまでの慣行にしたがって実施することを求められてきたのであって自分の業務に必要な情報を収集分析するための訓練もほとんど行われてこなかった。しかし私どもが行った前述の調査において、業務上どのような能力を身につけたいか、という問いに対して最も要求が高かったのは「データを収集し、分析する能力」で、<非常に必要>が41% <必要>が48%に達した。こうした要求がすでに現場では切実に感じられていることがうかがえる。

第2は、教育改善の実践と学生の学習行動のモニタリングとの有機的な結合である。繰り返し述べるように、これからの大学経営の焦点は具体的な教育改善のメカニズムの形成にある。言いかえれば、抽象的な教育の理念ではなく、具体的に個々の大学の教育がどのようなインパクトを学生に与えることが必要なのか、そしてそれをどのように実現していくのかが、具体的な戦略として示されねばならない

しかもこれに関しては一般的な解があるわけではない。私どもが行った「全国大学生調査」(126大学、4万7千人、http://ump.p.u-tokyo.ac.jp/crump)で明らかになったことのひとつは、たとえば学生の学習時間をとっても、日本の大学がきわめて多様だということであった。しかもそれは、大学の選抜制性や規模とは、きわめて緩い相関しかもっていない。また授業方法にも大学間に差異が少なくない。日本の大学には「個性」があるのである。

ただし逆説的なのは、個々の大学だけの努力では、自分の個性を見つけることが難しい、という点である。こうした意味で、大学間の連携と、それを側面から援助する第三者機関の役割が不可欠となる。このようなメカニズムを活用して、調査結果を学習課程や個々の授業の実践にフィードバックしていくことが求められるのでありその媒介となることがIRに求められる。

第3は、具体性をもった中長期的な経営計画を意識的に形成することである。これは必ずしも自明ではない。国立大学においては中期目標・計画を、なるべく数量的な指標を用いて設定することが求められている。しかしそれは経営計画という観点からはほとんど戦略性のないものになっている。それは目標と学内資源配分との関係がほとんど触れられていないからである。同様の傾向は、私立大学においてはさらに著しい。

これは日本の大学が、基本的には学部などの部局の集合にすぎず、部局間の予算配分が基本的な枠組みになっており、その枠自体を考え直すことはタブーとなりていることを反映しているといえよう。しかしたとえば大学教育のアウトカムが問題とされるとすれば、大学全体としての教育プログラムの構成とその効果、という観点を入れることが不可避となる。そしてそうした観点から、必要なコストとそのもたらす効果を点検することが求められる。とくに大学教育の改善を、きわめて厳しい財政状況の中で達成しようとすれば、教育改善と資源配分の問題とを分離して考えることはもはや許されない

このような意味での中長期的な経営計画が意図されれば、学生の学習行動のモニタリングと教育課程、授業実践、そして資源配分との関係について必要な情報と分析が視野に入る。そのとき初めてIRの機能が必要となるし、意味をもつことになるといえよう。

少し飛躍するようだが、このように考えると IRの導入は、現代の大学を考えるうえできわめて基本的な問題を示唆している。それは「大学の自治」そのものの内実の変化がいま求められているのではないか、という点である。

大学の自治とは、きわめて多様な内容の、しかも即自的にはその価値が自明ではない知識の創造と伝達とを社会の中で発展させていくために発見され、進化してきた、ひとつの英知の結晶であることは疑いない。しかし他方でそれは、社会の中で大学に口を出すことをタブーとし、大学の中では個々の部局に口を出すことがタブーとする、という制度・慣行をも生じさせた。大学自治と閉鎖性とが不可分のものととらえられてきたのである。

しかしそのような意味での閉鎖性はいま大きく問い直されようとしている。それは日本だけの問題ではない。前述のようにアメリカにおいては州政府による大学監視機関の設置が検討されたことがあったが、最近のアメリカ連邦政府のスペリング委員会(2007-2008年)では、連邦レベルでの大学監視機関の設置の可能性が検討され、さらにそうした議論は続こうとしている。

21世紀の前半はこうした意味で大学自治の内実が問い直され続ける時代となろう。議論は様々な形で行われるだろうが、大学の内部においては、IRがその一つの環となることは容易に想像される。

こうした中でIRはいわば、大学の自治への、ひとつの風穴のような存在となるともいえる。大学の中からは この風穴をなるべく小さくしようとする力が強く働くことは当然である。しかし他方で、それは大学という組織が変化して新しいバイタリティを獲得し、むしろ社会全体の変化をリードする存在になる可能性を作る契機となるかもしれない。そうした意味で、この風穴をどう形成し、活用するかが問われるのである。