2011年4月17日日曜日

政治家よ、学者よ、しっかりしてくれ!

個人的に納得の記事があったので。

菅首相への批判 ただ「辞めろ」は無責任だ(2011年4月14日 毎日新聞)

統一地方選前半戦での民主党敗北を受け、野党だけでなく民主党内からも菅直人首相の退陣を求める声が出てきた。強い余震が続き、東京電力福島第1原発の危機的な状況がなお続く中での退陣論だ。果たして政治がこんな状態でこの難局を乗り切れるだろうか。不安と不信を募らす国民は多いはずだ。

まず、この非常時に退陣要求が出ること自体、菅首相の責任というべきだろう。震災前から予想されていたとはいえ、統一地方選での敗北は多くの国民が原発事故や大震災の被災者支援などに関し、政権の対応に不満を持っている表れである。

ねじれ国会の下、首相がどう復旧・復興策を実現しようとしているのかも、なお明確ではない。一時、自民党の谷垣禎一総裁に入閣を持ちかけたが、拒否されるとその後はなしのつぶてだ。首相を支える民主党執行部も今度は与党の国民新党への気兼ねなのか、この時期およそ優先度は低いと思われる郵政改革法案を審議する特別委員会を12日設置した。自民党が反発するのは当然だ。

既に指摘したように何より首相には「最終責任は自分が取る」という迫力が欠けている。「非常時だから野党は協力するのが当たり前だ」といった謙虚さに欠けた姿勢では、やはり与野党の協力体制はできない。

ただし、だからといって今、首相退陣を求める意見にも到底、賛同はできない。谷垣氏は「菅首相は国民の厳しい声にどう応えるか、自ら判断すべきだ」という。自発的に辞任せよというわけだ。だが、菅首相が退陣し、どんな体制を作ればよいのか。具体的な言及はない。

当面、衆院を解散して民意を問うことができないのは野党も承知のはずだ。では、首相さえ交代すれば連立を組んでもよいと考えているのか、あるいは「私が首相になる」と谷垣氏は考えているのか。このリーダーのもと、こんな体制にすれば原発対応も復興も進むという具体的な案もないまま、ただ「辞めろ」というのは無責任というものだ。

民主党内では小沢一郎元代表が13日、菅首相を強く批判する書面を出し、小沢元代表を支持するグループから退陣論が出ているが、こちらも「首相交代した後、どうする」が見えない。

仮に今、首相が交代すれば、国民のみならず、国際社会も「いよいよ日本は政治の統治能力を失った」と不安を募らすのではなかろうか。内向きな政局発想から今も抜け出せないことに驚くほどだ。

被災地では多くの人々が余震におびえながら忍耐強く避難生活を続けている。首相も与野党議員も「党利党略」「個利個略」を捨て、総力体制を築くべきだと再度指摘したい。


先生方が互いに「先生」と呼び合う復興会議に未来はあるのか?(2011年4月17日 INSIGHT NOW)

東日本大震災でわかったことがある。政治家、官僚、東電・・・日本のエリートの方々は、集まっていても、あまり役に立たないのではないかという現実。「先生方」が、各々の「先生方」を、「先生」呼ばわりする組織では、危機管理能力なんて存在しなかったという、日本というシステムの恐ろしい現実である。

サンデー毎日の4月24日号で、「街場の原発論」と題して内田樹さんがこのように指摘されている。「エリート達は、受験秀才です。彼らの仕事は、正解を答えることであり、誤答を嫌います。誤答をするくらいなら、黙っている。でも、危機というのは、資源がない、情報がない、人員がない、時間がない。という状況のことです。そのような状況下で、最適判断を求められると、受験秀才はフリーズしてしまう。」「このように判断したことには十分な根拠があるという条件が整うまで、秀才は何もしない。その間に、もっとも貴重な資源である時間は、不可逆的に失われてしまう」。このような人達に、日本の管理運営を委ねるようなシステムを採用してきたことに警鐘を鳴らされている。

その道の秀才は、畑の違う分野には、同じような秀才が居ると信じている。だから、お互いが「先生」と謙遜し合う。秀才だから、自分を全知全能だと言ったりはしない。賢くて変に傲慢じゃないから、その得意分野だけの智慧を出そうとする。

その「先生方」達の意見を聞く、また、その上の「先生方=政治家」達は、その無責任な意見を、それぞれの思惑と立場で聞く。その偉い先生方は、自分がいちばん偉いと各々に思っているから、その分野の「先生方」は、自分にいちばん正しいことを伝えてくれていると信じている。

でも、その専門の「先生方」は、お金をもらったり使われたりする身分なので、いちばん偉いと想っている先生方達の思惑と立場に合わせて意見を言う。心の中では、政治家の先生方を、少し蔑んだりして見たりしているのに・・・。

そうやって「先生方」達は、集まって意見を聞くほどに、バカになり、ヘボくなり、ドジな結果を招くことになる。

公式的には、 先生×先生=ヘボ の法則である。

高学歴&高収入な先生方は、自分より高学歴&高収入な人達の意見を聞く傾向がある。勉強をして先生になった方々は、正々堂々とした誤答を、「正答」にしてしまう心弱さがある。

東日本大震災の後の荒野。長引く原発の問題。この状況で、みんなが100%納得する「正答」なんて導き出せるわけがない。しかし、高学歴&高収入な先生方は、この期に及んでも、「美文」を用意されようとする。いまある大きな危機と将来を、簡単につなげられるこの有事だからこそ、華麗なレトリックを駆使して復興案を書かれようとしている。その政治のために、先生方が、いっぱい官邸に呼ばれるわけだ。

管総理大臣は、東日本大震災復興構想会議をスタートするにあたり「64年の中で最も大きな危機だが、これを乗り越え、創造的復興案をお示し頂きたい」と期待を述べた。単なる復旧案ではなく、「創造的復興案」の策定をするらしい・・・。

では、その創造性とは、どこから来るのか? その創造性は、あらゆる分野の先生方を集めたら生まれてくるのか? 仮に生まれてきた「創造的復興案」を推進する創造性は、本当にあるのか?

専門の先生方が集まってできる「創造的復興案」は、復興の考え方と順序が指し示された「美文」であろうことは、間違いない。

しかし、そのプランを推進し実行するのは、この国の政府と国民である。政府の長である首相が「創造性」の全権を、先生方に委ねた時点で、そんなものに真の創造力が宿らないことを理解されていない気がする。「創造性」とは、「会議の時間」と「先生方」があればできるものではない。

R・フロリダの『クリエイティブ都市論』には、「創造性は居心地のよい場所を求める」という副題が付いている。居心地の悪い首相が集めた復興構想会議に、創造性なんか期待できるわけがない。

きっと・・・この「創造的復興案」は、美文のままで終わる。どうせ、復興案は各省の官僚の権限争い場になる。最初から政府に「創造性」がないのだから・・・結果は、目に見えている。

私には、正直、良くわからない。このような東日本大震災復興構想会議に名前を連ねる先生方の真意が・・・。「創造性」を求められて、管総理大臣に苦言も呈さずに、自分に日本を再建する「創造性」があるという顔をされている皆さんの気持ちが・・・。いつまで、同じコトを繰り返されるのか?う・・・ん、わからないっ。