2011年7月20日水曜日

教員養成残酷物語

教員養成は風前のともし火?(梨戸茂史)

わが国の教員養成は、明治期の官立師範学校以来、国が担ってきた。現在でも、国立大学法人の教員養成大学・学部は各県に一つ以上は設置されその役割は大きい。

国立大学の法人化から「効率化係数」がかけられ、毎年1%予算が削減されることが続いた。これって、「リストラ」だ(「リストラクチャリング」=経営の再編)を「首切り」に”翻訳”し、言葉のイメージを変えてその実態の悲惨さを隠すマジック)。「効率化」だってただの「一律の予算削減」なのだ。政権が代わって民主党政権下の2011年度予算では1%が0.5%に緩和?されたらしいけど、2005年度から09年度までの5年間で運営費交付金は04年度と比べ830億円が削減されたことになる。これは予算規模が40億程度の小規模国立大学が20校以上消えた計算だ。

はてさて、一方で定率の予算削減が進行し、他方で「あめ」ならぬ「競争的資金」は”じゃぶじゃぶ”にして、あたかも弱い大学は淘汰されるのが「資本主義の原則」とする。そして、これの行き着くところは、競争的資金の代表である「科研費」が多くとれた大学が良い大学だとして、そこに運営費交付金を評価し直して再配分したらどうなるかをシミュレーション(だいぶ前の財務省財政審議会資料)。

その結果、「地方」「文系の単科」「小規模」の国立大学が軒並み最悪となる。これは金額そのものではなく増減割合で出してある(06年度の科研費配分比率を07年度の運営費交付金に割り当てた)ので実態がつかみにくくなっているが・・・それによると、増加するのは、東大はじめ旧帝大に東工大、神戸大など12大学のみに対し、残りは全部、減少する。そして、下から10大学は東京藝大を除けば、兵庫教育大学を最大に全部教員養成大学だ。これらはほぼ80%の削減率となる。たぶん、これでは大学の維持管理、つまりは経営が成り立たないだろう。名前を挙げるに忍びない?けれど、先の兵庫教育のほかは愛知教育、京都教育、鳴門教育、福岡教育、北海道教育、大阪教育、宮城教育、上越教育の各大学。下から14位と15位には奈良教育と東京学芸大が顔を出す。これは結局のところ、教員養成大学はなくていいという話ではないか。おまけに”新構想”の旗の下、創設された兵庫、上越、鳴門の3大学は、”財政的”には今や何のために存立しているのか分からないようになった。

よく考えると、地方の国立単科大学の切り捨てだ。地方でも理系なら多少なりとも競争的資金なるものが入ってくる余地はあるし、地元に企業があれば何らかの資金的応援もあるだろう。ところが教員養成では、企業相手の売り物がない。教員養成系は、実は、幼稚園から高校まで多教科、多科目の教員スタッフが必要だ。したがって必然的に人件費比率が高い。総支出の8割近くが人件費とも言われ、国立大学の平均の6割よりずっと高い。これらの教員養成大学の理系にしたところで、最先端の研究をしているわけではないから、寄付金や委託研究など外部資金の大幅な獲得は考え得べくもない。人件費減少への対策は涙ぐましい。ベテランの教授や准教授が退職したらその後は給与の低い若手の講師にしたり、非正規の外部講師に頼るところも出る始末。その上、一人あたりの研究費や学会出張旅費も削減、地方の国立教員養成大学は「野垂れ死に」が近づく。

これは、もう国が教員養成をしないでいいということになるのでしょうか。国が小中学校など、国民の教育における人材養成面での責任を放棄せよという話になるのだろうか。(文部科学教育通信 No271 2011.7.11