2011年10月31日月曜日

財務省の論理は国民に理解されうるものか

去る10月18日、「予算編成に関する政府・与党会議」が設置され、「日本再生重点化措置」要望に係る作業が動き始めるなど、政府の平成24年度予算の編成作業もそろそろ山場を迎えつつあるようです。

そのような中、国立大学協会など文教関係団体の予算獲得に向けた動きも目に付くようになりました。来年度の当初予算は、東日本大震災の復興予算の確保をはじめ、取り巻く経済財政状況も加味した極めて厳しいものになることが当然ながら予想されるため、文部科学省関係予算、とりわけ高等教育関係予算も、これまでのように、“結果としてはそこそこ満足いくものになった”というわけにはいかないように思われます。

さて、国の予算を実質的に編成する力を持っているのはご存じのとおり「財務省」ですが、編成に当たって財務省はどのような考え方を持っているのかを知っておくことは、予算の要求省庁のみならず、一般国民にとってもとても重要なことではないかと思います。特に教育予算の動向は、家計にも大きな影響を与える可能性が高く注視しておく必要があります。

そこで、今回は、財務省主計局主計官の神田眞人さんが、財務省の広報誌「ファイナンス」(2011年6月)に寄稿した論考「強い文教、強い科技 序説-客観的視座からの土俵設定-」を抜粋してご紹介したいと思います。

この論考、どれだけの国民の皆さんが目を通されたかはわかりませんが、個人的な感想をまず申し上げれば、様々なバックデータを基にした論理展開に、いちいち納得はできるものの、何か釈然としない後味の悪さが残るものでした。主張は、相変わらず一貫して財務省特有の経済原理主義に基づくもので、裕福な家庭に育ち、高い教育をうけてきた官僚的発想としてはこんなものだろうという感じがしました。厳しい社会経済情勢の中で、明日の仕事や生活をどうしていくかといったことに日々悩む国民の目線からはほど遠い内容だったと思います。

財務省をはじめ、霞が関のお役人さん方は、我が国の将来を背負う素晴らしい仕事を、昼夜の別なく懸命に行っておられると思います。しかし、今回の論考は、よく言われる机上論で物事を考えたもの、現場をおもんばかる気持ちを感じ取ることができないものではなかったかと思います。財務省の主計官という立場にあり、このような内容にならざるを得ないのかもしれませんが、数理的な発想だけではなく、もっと生身の人間の心に染み透るような元気のでる言葉がほしかったと思います。

財務省の役人として、この国や政治家を動かしているという気概があるのであれば、また、予算の規模ではなく配分された予算の使い方に問題があると認識されておられるのならば、霞が関詣でをする一部の学者や団体等の話を聴くだけでなく、ぜひとも教育現場へ自ら出向いて、次代を担う人間を一生懸命育てている親、教員、職員、地域住民、そして何より子ども本人や学生本人から、生の声、真実の声を聴いてほしいと思います。そのうえで、今回のような論考を書かれるべきではなかったかと思います。霞が関の空気や水だけで生きていては、現場のことはわかったつもりになるだけで、現場で生きたお金の使い方ができるようにはならないと思います。

今回ご紹介する論考は、神田主計官の私見をベースに書かれてあるようですが、ここ数代の主計官の論理とさほど変わっていないように思えます。したがって、財務省の公式見解と受け止めても大きな問題はないでしょう。教育予算に関する論理は、こういった業界誌において一方的に主張するのではなく、新聞などの公共的媒体を通じて広く国民に開陳すべきだと思います。そして財務省の論理と国民の目線が乖離していないかどうかについて、国民から意見を聴き検証することを通じて、税金が生き金として使われるようになっていくのではないでしょうか。

総 論

1 はじめに

(1)文教、科学技術が大切なのは当然だ。(以下略)

(2)それにしても、これだけの重要性がありながら、どうしてこれまで議論が深まりにくかったのだろうか。戦後、イデオロギー対立が激しく、具体的な政策論を建設的に闘わせる土俵が見出せなかったこと、GHQ・GSによる教育改革が極めて「民主的」、分権的であり、大きな方向転換が困難な構造となったこと、そもそも、戦中・戦前の「国家教育」と戦後の「民主教育」の非連続性が著しく、一般国民が虚無的になると共に、物質的成功に関心を集中したことなどが挙げられる。

この分野の特殊性は、小生の経験から整理すると、下記の通りである。

1)いずれも「偉い先生」の世界であり、外部からの批判も内部の相互批判によるピアプレッシャーも他に比べると難しいところがある。文教・科技に関わる方々は、大学の学長、ノーベル賞学者、文化勲章受章者、オリンピックメダリスト、そして、学校の先生方と、卓越した存在であり、社会的地位も高い。また、学問が専門化、細分化される中、昔の博物学者の時代と異なり、分野外からの批判が困難になってきている。更に、学者にしろ、芸術家、スポーツ選手にしろ、日本の名誉を背負って世界でトップを目指してもらわなくてはならないが、逆に、それぞれ、自分のやっていることがこの世で最も重要だと考えがちになってしまうのもやむをえないことである。高度な専門性や大学の自治、学問の自由といった概念に守られ、情報開示も不十分なところがある。

そのため、競争や優先順位づけが難しい構造にある。このままでは、横並び、水脹れの膨張になったり、質を高めるインセンティヴを弱めてしまうので、成果(アウトカム)についてアカウンタブルな世界に転換し、情報公開も充実することによって、健全な競争環境にすることが必要ではないか。そして、その競争の際に、長期的な視座を失わず、リスクアバースにもならないようにし、また、価値観の多様性も育むべきではないかと思われる。

2)これまで投入量(予算の「高さ」)の議論に逃げ、資源配分や質の議論が蔑ろにされる傾向があった。危機的状況にある財政にもかかわらず、かなりの優遇をしてきたものの、成果がよくみえないし、資源制約を前提としない環境であると、効果的、効率的な施策を考えるインセンティヴが弱くなる。昔、防衛費やODAでGDP何%という議論があったが、今、そのような主張が残っているのは、教育や科学技術だけであり、選択と集中、質の向上といった議論がみえにくい点でかなり異質な世界となっている。また、量的保証の下で分配すると、施策の重複、モラルハザード、逆選択のリスクも高くなる。

3)長らく、入り口のイデオロギー対立に閉ざされて、抽象論が走り、具体的な議論が低調であったのではないか。施策と成果についてデータに基づいた議論も論文も著しく少ない。そもそも、学力についての経年データが十分に存在しない。しかも、政策の方向についての議論も不十分であり、例えば、就学支援というとき、裕福な家庭や怠惰な生徒を含めたバラマキではなく、貧困家庭でも頑張って良い成績をとれば、社会が教育の機会を守る、といった真の公平性が追求されても良いはずだが、そういった議論は低調であった。こうした状況の中で、デジタル教科書等、教育のICT化といった議論が、商業的要請からも強く主張されることもあったが、コンピュータディスプレイではなく人間どうしで向き合う機会の大切さ、特に集団的に共存しあう訓練の必要性、読み書き算盤といった基礎修練の重要性も認識され、文科省でもしっかりした議論がなされる可能性がでてきたことは歓迎できる。要は、政策のプロコンをしっかりと丁寧に議論していくことに尽きる。

4)凝集力が高く閉鎖的なプロの世界で議論が完結することが多く、幅広い視座が欠如する嫌いがあった。例えば、地域の主体性(オーナーシップ)から生まれる革新のダイナミズムを惹起できないか、民間企業も科学技術にもっと貢献する余地があるのではないか、といった議論は、最近ようやく惹起してきたにすぎない。

各 論

2 高等教育

次に高等教育について考えてみたい。我が国は高等教育に十分な公財政支出をしていないとの論調が時に聞かれる。確かに、GDP比で見た場合、我が国の高等教育に関する公財政支出は低い水準のように見えるが、私費負担も併せて考えれば、主要先進国と遜色のない水準であり、国全体としてみれば、決して高等教育を蔑ろにはしてはいないことが見て取れる。

予算的にみても、高等教育に厳しい削減を行っているわけでは全くない。平成16年の我が国の国立大学の法人化以降の主要な高等教育予算の増減について、社会保障関係費を除いた一般歳出と比較すると、他の歳出よりも高等教育予算に対して多大の配慮がなされてきているのがわかる。

しかし、一方で高等教育に対して、社会のニーズを汲み取っていない、魅力的な大学になっていない、国際競争力の低下等の批判や研究費等の基盤的経費が不足している等の不満も聞こえてきている。

そこで、平成23年度から特に国立大学を対象に、時代の要請に応える人材育成及び限られた資源を効率的に活用し、全体として質の高い教育を実施するため、大学における機能別分化・連携の推進、教育の質保証、組織の見直しを含めた大学改革を強力に進めることとした。以下では、その背景、改革の必要性等について詳述することとしたい。

(1)国立大学

1)まず、国立大学について述べると、大学の経営は苦しい、これ以上の運営費交付金の削減は大学の基盤そのものを劣化させる等とよく耳にするが、決算ベースの収入金額を見てみると実は毎年増加している。平成16年度の国立大学法人化時は2兆4,707億円であったが、直近の決算データの平成21年度は2兆8,862億円となっており、4千億円も増加している。これは、自己収入、補助金収入や競争的資金等による大学の資金獲得努力によるところが大きいと思われる。

2)支出ベースで見ても、国大法人化以降3,400億円増加しており、特に基盤となる教育研究費は平成16年度約3,400億円から平成21年度約4,500億円と約1,100億円増加している。同様に支出の太宗を占める人件費や事務処理上必要な一般管理費も増加している。

しかし、使える金額が増えているのに大学側の不満は減らないどころか寧ろ増えているのが実情である。何故不満が減らないかといえば、つまるところ配分の問題ではないかと思われる。わかりやすくいえば、競争的資金の獲得しやすい一部の理工系や医薬系は増加するが、文系学部や教育系あるいは理系でも基礎研究系の一部については競争的資金が回って来にくい。では、競争的資金等を減らして、使途が自由な運営費交付金を増やせばよいのかといえば、そう単純に事が解決するわけではない。競争原理が薄れてしまい、研究意欲の衰退の虞があるばかりか、今後の大学を取り巻く状況からメリハリの効いた効率的な配分による大学改革を進めなくてはいけないが、これにも水を差すこととなりかねない。限られた資金を如何に有効に使うか問われているのであり、現在、文部科学省、各大学法人及び国大協等で検討している大学改革の方策が待たれるところである。

3)教職員数についてみてみると、学校基本調査によれば、少子化の影響もあり国立大学の学生数は減少しているにもかかわらず、教員も職員も増加を続けている。

諸外国に比べて教職員の数が少ないのではという主張もあるが、OECD「図表でみる教育2010版」によれば、教員と学生の割合でみれば、むしろ日本の教育環境は恵まれている。

4)諸外国との比較について、財政面でみると、国立大学生1人当たりの公財政支出等はG5の中でもトップクラスである。

5)このように見ていくと、我が国の財政支出が少ないというよりも、何処かに無駄があり、効率的な体制がとられていないのではないか、配分に問題があるのではないかとの疑問も浮かびあがる。よくいわれている具体例をあげてみることにしよう。

ア)まず、学生に対する教員割合が他学部に比べ2倍となっている教員養成系大学である。公立学校教員採用者のうち教員養成系大学卒業者のシェアを平成13年と平成22年で比較してみると小学校59%→41%、中学校35%→27%、高等学校16%→となっており、公立学校の教員採用における人材供給ルートの観点で見た場合でも国立大学の教員養成学部より一般大学の方が全ての区分において上回り、全体で採用者のうち教員養成系国立大学の占める割合は31%程度にしか過ぎず、その存在意義は明らかに低下している。一方、卒業者の進路をみると平成22年3月教員養成系大学卒業者15,899人のうち教員就職者は7,113人であり教員就職率は44.7%であった。また、大学所在都道府県の教員となった割合でみれば、27.5%(4,372人)に過ぎず、各都道府県に一つ以上教員養成大学を設置しておく必要性が問われてきている。

イ)次に法科大学院である。後で述べる私大も含めた話となるが、昨年の司法試験合格率は25.4%であり、法科大学院志願者数や募集定員に対する志願倍率は、低下傾向に歯止めがかからない状況にある。司法試験合格者率が10%未満の大学が17校、司法試験合格者が10人未満の大学が35校、中には合格者がゼロだった大学も複数あり、既に深刻な問題となっている。文部科学省において今年度の司法試験の結果から法科大学院への公的支援の見直しを行うことを発表しているが、結果の出ない大学は、受験生からも見放され自然淘汰に向かうのが必然的な流れとなっている。

6)以上の例に限らず、選択と集中によって統廃合も視野に入れて大学改革をしていかないと受験生や社会のニーズに応えられないし、効率的な運営もできない。その一つの表れとして国際競争力の話がある。タイムズ・ハイヤーエジュケーション(THES)で世界大学ランキングを公表しているが、2010年の資料によると東京大学が26位に落ち、香港大学(21位)に抜かれアジアで1番でなくなった。京都大学を始めとして他の大学は50番以下に落ちている。ちなみにトムソン・ロイターが発表している被引用論文数の世界研究機関ランキングにおいても今年4月公表されたものをみると東京大学が11位から13位へ後退しているのを始めとして各大学軒並みランキングを落としている。もちろん、ランキングはその順位を決めるファクターによるので、一概に大学の良し悪しを言うこともできないが、少なくとも国際競争力や大学としての存在意義を持ち続けるためには、各都道府県に同じような大学をつくるのでなく、競争力を持った先端の教育研究を行う大学と地域に根ざしたコミュニティカレッジのような大学とに分化・特化していくことも含め大胆な大学改革が必要となってきている。

7)大学評価については、国立大学の法人化以降、国立大学法人評価委員会や独立行政法人大学評価・学位授与機構等の認証評価機関による事後評価の比重が高まっている。国立大学法人の場合は、国の政策としての中期目標、各国立大学法人が定める中期計画等に対してその達成度から評価が行われている。

評価の重要性はどの分野においても言われていることであるし、膨大な文献が出ているので、本稿ではごく簡潔に記すが、重要なことは、評価は大学の教育・研究の質の保証をするものであり、その質の向上に繋げていくものでなくてはならないことである。従って、留学生の数や論文数といった指標による量の問題は客観的指標として不可欠ではあるが、それだけでは不十分であり、大学が進化していくための大学改革の指針となるものにしていかなくてはならない。

日本より高等教育の評価についての歴史と実績のあるイギリスにおいては、研究評価(Research Assessment Exercise:RAE)を実施し、高等教育が最も効率的に効果をあげる方法は、研究費の重点配分であるとして、評価成績に応じて政府の研究費が傾斜配分されている。これについては、賛否両論あるが、高等教育の質の向上につながったという見解が多い。

日本の国立大学法人においても第1期中期目標期間終了に合わせ、文部科学省において平成22年度からの運営費交付金に対して評価反映を行い、一般管理費相当額の約1%程度(16億円)を評価反映分の原資として再配分したところであるが、トップの評価を受けた奈良先端科学技術大学院大学ですら400万円の増額に過ぎず、最下位の評価を受けた弘前大学も700万円の減額程度であったこともあり、評価の反映という観点からすれば、対外的な評判以外には大学運営上の効果が少なかったという意見もある。次回の評価反映時には、もっとメリハリを効かせ大学改革をより強力に推進する必要があろう。

また、日本の評価制度は、欧米諸国に比べて歴史も浅く、評価手法も発展途上であり、公正な評価ができるのかという不満も耳にするが、第三者評価による競争原理を導入した客観的評価が、不完全でも現状では他に変わりうるものがない最良の手法と考えられている。高等教育の更なる活性化のため、限られた条件の下では一部の大学の学長が行っているような学内資源の再配分を決定するインセンティブ方式(予算執行の自由と責任を部局に持たせ、その業績を評価して予算を増減していく方式)等による競争的評価がこれからは重要となってくる。事後評価だけでなく、科学技術研究費補助金やGP予算等の競争的資金の採択のための事前評価も競争的評価であり、高等教育の質の向上に貢献しているといえよう。

8)昨年12月英国で大学の授業料を3倍にする法案が可決されデモが起き、イタリアでも同様なことが起きた。日本の財政事情からすれば、将来日本でも起こらないとはいえないことであった。日本の国立大学の場合は、「国立大学等の授業料その他の費用に関する省令」に定める標準額(535,800円)の120%の範囲内で授業料等を決定できることとなっているが、全ての国立大学の学部が標準額をそのまま授業料としている。先端施設を用意して国際的にもトップを目指し、良質かつ高度な教育を行うということであれば、多少授業料が高くても学生が集まるだろう。ちなみに、貧しいけれど学習意欲と能力のある学生は授業料減免や奨学金の制度があるから授業料の値上げはさほど問題にはならないと考えられる。このように単に値上げするのでなく、目的をもって大学改革を進めていけば、英国や伊国のようなデモが起きないだけでなく、大学のイニシアティブを持った競争化が進むかもしれない。

3 奨学金

次に奨学金の問題について考えてみたい。教育機会を広く国民に保証し、教育の機会均等を実現していく上で、奨学金制度が重要な役割を果たすことは言うまでもない。近年、奨学金制度は格段に充実が図られてきており、足元で学生数が既に減少に向かう中で、大学生等の3人に一人は日本学生支援機構が提供している奨学金を受給しているのが実態である。

この水準を十分と見るか否かについては、色々な議論があるが、現状を正しく認識することが議論の出発点であり、以下で基礎的なデータに基づいて、奨学金を巡る論点を紹介しておくこととしたい。

1)まず、大卒と高卒で、どれほどの生涯賃金の差が生ずるかを見てみよう。大学を卒業すれば、8,000万円程度余分に自分の収入に帰着する点に着目すれば、大学進学は、一種の自己投資の側面を有することとなる。大学における教育のあり方そのものが社会への貢献度という点で真に評価すべきものとなっているかについては、前項でも述べたとおり議論の余地はあるが、少なくとも社会全体として、大卒者に対して相応の価値を置いていることは否定しがたい。既に大学進学率は5割を超え、少子化の進行に伴う大学全入時代もすぐそこに来ていることも勘案すれば、大学進学者の増加に伴う社会的な付加価値の増加による国力の増加という側面もあるにせよ、大学在籍に伴う費用を国民からの税金で全て負担すべきとの議論には、受益者負担の原則からやはり組みしがたいこととなる。

2)次に奨学金受給者の実態を見てみよう。日本学生支援機構の提供する奨学金事業は、無利子と有利子から構成されるが、いずれも年収要件等の受給要件を課している。限られた財源事情の下で、資源を最大限有効に活用し、真に支援すべきものに重点的に資源配分を行うとの観点から、受給資格を制限することが合理的であるが、問題はその制限のあり方である。

年収制限については、国大私大の別、自宅通学かそれ以外か、世帯の家族構成がどうであるか等によりきめ細かく設定されているが、私大、自宅通学、給与所得者4人世帯のモデルケースをとれば、無利子で収入966万円、有利子で1,218万円以下であることが要件となっている。総務省の家計調査による平成22年の平均世帯収入は625万円(月平均52万円)、より厳密に大学生の両親の年齢も考慮した40代から50代の給与所得者世帯の平均世帯収入は、これより更に高く、それぞれ698万円(月額58万円)、700万円(月額58万円)となっており、これらよりもかなり高いところが上限とされていることになる。

実際の受給者の家計の状況を見ると、こうした平均収入以上の世帯が半数近く占めているのが実態となっている。

学費や特に自宅外の場合の仕送り等に相応の保護者負担が生じていることはよく指摘されるが、例えば、「東京」で学びたい、学費が高くても、少しでも有名な大学に通わせたいといった本人或いは保護者の選好による大学選択の側面も一概には否定できない。そうしたブランド選好的な負担に対してまで、奨学金でカバーできるようにすべきというのは、貴重な血税を原資とする以上、行き過ぎた主張の感がある。実際に、地方大学等の改革が伴わないままで、奨学金の対象範囲を拡充することが、却って首都圏等の大学への進学傾向を強め、却って地方大学等の活力や地域における人材養成のダイナミズムを難しくしてしまうといった悪循環が起きてしまうとすれば、それは決して望ましい結果とは言えないのではなかろうか。寧ろ、医学部に地域枠を設けて、地元での地域医療に卒業後、従事して頂く代わりに、受益する地方が奨学金を出すといった取組みを推進する方が好ましいのではないか。

また、あくまで家計基準は、直近の年収をベースとした基準であり、我が国においては、一般に自分の子どもに対して自分の責任、負担で大学に進学させたいという親の意向が強いとも考えられる中で、どれだけ親が子どもの大学進学を予想して、貯蓄行動に出ているかといった実証的なデータもあわせて本来考えるべきとも考えられる。

いずれにしても、奨学金の支給に係る年収制限のあり方が適正なものであるかどうかについては、「教育機会を広く保証する」との抽象論に留まることなく、絶えず実証的なデータに基づいて検証されるべきであろう。

この点、東京大学に入学する学生の両親の年収が高く、1,000万超が半分ということが殊更に強調されて報道されることもあってか、貧しい層の高等教育機会の確保をもっと図るべきといった主張もありうるが、そうであれば、年収要件を更に強化する選択肢も検討されて然るべきと考えられよう。

更には成績要件のあり方についても議論の余地がある。特に、貸与条件の良い無利子貸付の場合、成績要件は、入学時に高校成績のGPAが3.5以上、その後は学部内で上位3分の1以内とされている。大学の教育の質といった面で全く異なる大学、学部間で、どの大学の学部内でも上位3分の1以内であれば可とする現行の方式が本当に良いのかは、成績優秀者の絶対的な尺度、基準をどのように設定するのかといった技術的困難さの問題はあるにせよ、国民目線に立てば、公平な成績要件を追求すべきであろう。

3)最後に、奨学金が本当に有効に使われているのかといった観点の分析も重要となる。奨学金自体に使途の制限はないが、奨学金の存在自体が、余計な支出を誘引しているとすれば問題であり、この点に関しての分析も必要ではなかろうか。現に、奨学金受給者の方が、非受給者より海外旅行等の遊興費に支出する傾向が見られることを指摘する研究もあり、こうした分析の精緻化についても奨学金を巡る議論に当たっては、留意すべきと考えられる。

以上、奨学金拡充論に係る論点をいくつか提示してきたが、重要なことは、要すれば、どういう層がどういう面で、教育機会の喪失というリスクに晒されているのか、逆の視点からすれば、奨学金政策が教育の機会均等の観点から具体的にどのような政策効果を齎しているのかといった観点から、単なる抽象論に留まらない、実証的で説得力のある分析の上に立った政策論議が求められるということである。この点で、奨学金政策に関して、我が国で十分な議論がこれまで積み重ねられてきたかについては、正直心許ないのではないかというのが筆者の率直な思いである。私見では、奨学金は社会構造の格差是正と向学心改善に寄与すべきであり、限られた資源は、可能な限り、貧しい家庭でありながら、頑張って非常に良い成績をとった方に集中することが、公正に適うと共に、効果的なインセンティヴとなると考えるが、いかがであろうか。