2011年10月14日金曜日

就職の危機管理無かった大学人

今春卒業者が3年生になった2年余り前から”就職氷河期の再来”といわれている。1986年に始まった内定率調査は、10月から3回の各調査時点で史上最低を記録した。就職環境の悪化は、わが国のみならず先進諸国のリーマンショックに端を発した経済の停滞が大きく影響していることは間違いない。しかし、就職氷河期の再来、すなわち大学生の就職危機の要因はそれだけだろうか。

大学は拡張に拡張を重ねてきた。その結果、大学・短期大学卒業者が同一年齢のおよそ半数にのぼっている。半数がかつてのように”大卒者”としてほぼ同じ処遇を得られる社会はあり得ないと、わたしは認識している。しかし、そうした認識は、規模を拡張すれば今日の危機は必定であるにもかかわらず、大学の教員にも職員にもなかった。大学は、就職の危機管理が欠けていたのである。最大の問題は、眼前の学生に対応していない教育の継続である。規模を拡張した結果、学生の水準が下がったにもかかわらず、伝統的な教授法をとり続けてきた。伝統的な教授法は、すべての大学には通用しないという危機の認識が欠けている。

さらに、産業社会の構造や仕組みは激変している。生産の低賃金国への移転、そして需要地への移転にはじまり、販売やアフターサービスも現地法人への移行が進んでいる。したがって、人材需要は世界の各地に拡散しているのである。

教員は、現実を踏まえ、先を見通して学部・学科の教育方針を徹底的に議論し共通の認識を持って教育に取り組まなければならない。これには入学者選抜も含まれる。もはや、少なからぬ大学で入学者選抜は成立しなくなっている。推薦入試に加えてAO方式入学が蔓延し、事実上の無試験入学者が激増している大学が少なくない。一般入試が始まる前の12月に定員の50%、70%の入学者を確保し、安堵している大学がある。何のために、だれのために安堵しているのか。

一方で、就職部局の拡張、キャリア開発支援授業科目の開設が急速に進んできたし、現在も進んでいる。しかしその多くは、規模の拡張にとどまり、科目数をいたずらに増やしただけである。

大学は、本来の教育をどうするのかを熟慮し、根本的に構築し直さなければその存在価値を失う。大学が構成員の生活を守ることは、教育の成果があってこそであり、それは第一義ではない。

”教養がある”とは、”危機管理ができる”ことであると、わたしは定義している。すべての大学教職員に、危機管理の力が求められている。(IDE 2011年10月号