2011年12月28日水曜日

笑う門には福来る

明日から帰省(パソコンのない環境)のため、今年の日記は今回でひとまず休憩です。今年の日記を振り返って眺めてみますと、東日本大震災をはじめ、いろんなことがありました。

来年は、過日閣議決定された来年度の予算(国立大学法人関係)にも表れておりますように、国立大学改革の推進強化、とりわけ「改革の加速化」が一層強力に求められる年になりそうです。予算に関する文部科学省の会見でも、大臣から「国立大学の大規模な再編成については、国立大学の成果や需給バランスなどを見極めながら機能強化を図っていく」との見解が示されました。これまで以上に、緊張感を持って、自らを成長させ、考え、行動し、大学や社会に貢献していかなければなりません。

さて、この日記をお読みいただきました皆様、今年も大変ありがとうございました。来年も皆様にとりまして、今年以上に笑いの絶えない明るく幸せな年になりますようお祈りいたします。

今年最後にご紹介する記事は、広島大学高等教育研究開発センター長の山本眞一氏が書かれた「大学の危機-年の終わりに考える」(文部科学教育通信 No282 2011.12.26)からの引用です。


マクロ・メゾ・ミクロの危機

さて、大学を巡る昨今の状況を何と表現したらよいだろうか、と思いを巡らせているうちに思ったのは「大学の危機」である。もちろん、危機はこれまでにもあった。しかし改めてこのことを考えておくことは、来年以降のわれわれの立ち位置を明確にするためにも必要なことであり、年末ということもあってすこしまとめて考えてみたい。

大学の危機といっても、いろいろなレベルがある。論者によってはさまざまな問題を分類するとき、マクロ(大問題)、メゾ(中問題)、ミクロ(小問題あるいは各論)と三つの概念を使われるようであるが、それに倣うとすれば、大学の危機は、1)大学全体としての危機、2)国立や私立など設置者別の大学の危機、3)皆さんがお勤めのそれぞれの大学の危機、の三つに分けて考えるとよい。

第一のマクロレベルのすなわち大学全体としての危機は、こうである。今、世界は知識基盤社会に向けて大きく変貌中であり、その中でグローバル化の動きが著しい。新興国や途上国には300万人にも及ぶ留学生やその予備軍がいるそうであるが、彼らはより有利な留学先を求めて、世界の大学をみつめている。世界の主要大学は、いまや彼らの厳しい評価の眼にさらされているといっても過言ではない。また、国によっては大学セクターを主要な輸出産業と捉え、自国の高等教育のメリットの売り込みに余念がない。わが国としても無関心ではいられない。


世界の潮流に関心をもつ

これらの動きの背景には、世界レベルでの高学歴化、あるいは学歴社会化の進行がある。明治の昔を振り返れば、われわれ自身も封建的身分社会を脱却して、学問によって身を立てる道を選んだはずであるが、いつの間にか学歴社会は悪であるかのような風潮が蔓延して、それとともに、学校で得られた教育や学歴が実力と一致しないという空疎な教育システムを抱えるに至った。わが国の大学は、その厳しい入試で人材選抜(スクリーニング=ふるい分け)を果たすことによって、ようやく社会的機能を果たしてきたが、十八歳人口の減少の中でその選抜機能も大きく低下した。いまや多数の高校生は受験勉強とは無縁の中で大学入学を果たす時代である。

しかし、選抜機能をあきらめて実質的な教育で勝負するのは、大学にとっても容易なことではない。分野によって異なるとはいえ、個々の教員の大幅な裁量に委ねられている教育研究活動の中で、社会が大学教育の中身の有用性を無視すれば、教員はますます「虚学」としてのアカデミズムに傾くという悪循環を招く。政府が「教育の質保証」を最大の政策課題に挙げ始めているのも、大学の実態と世界の現実とのギャップに対する危機感の現れであろう。

また1990年代から、大学が研究活動や研究人材養成を通じて、各国の経済発展に大きな貢献をしているという認識が高まり、各国において大学院教育が重視され、これらのことはOECDなど国際機関においても優先検討課題であり続けているが、わが国においては博士課程修了者の就職難を始め、さまざまな問題が浮き彫りになって、むしろ博士課程の縮小論すら叫ばれている。これは全く世界の傾向に逆行するものと言わざるを得ないが、もともとの原因が、大学院出を評価しないわが国社会の現状にあるとすれば、その解決は容易ではない。


社会に意味ある強い存在として

第二に、メゾレベルの危機である。まず私立大学においては、十八歳人口が減少する中で、学生確保を巡る競争的環境が激化し、すでに4割の大学では定員割れをきたしている。わが国の経済が低迷状況にあって、以前ほど学生が豊かではないという現実を考えると、この先の進学率の大幅上昇は期待できない。わが国の私学は、明治以来これまで、国民の旺盛な進学意欲に依拠しつつ発展を遂げてきたが、ここへきて大きな転換点を迎えている。進学率の上昇や若者人口にのみ依拠することなく、これからの発展方策を考えなければならない。当然それは教育分野やその内容のあり方にも及ぶことであろう。

一方、国立大学においては、政府財政の緊縮が進む中、いかにして資源を確保するかという問題がますます深刻化の度合いを深めつつある。資源不足は教育研究活動そのものに加えて、教職員の多様化や数の減少に伴う組織の大幅改編にも及ぶであろう。もともと戦前の旧制大学や専門学校等を母体として発足した新制国立大学である。伝統的任務をいかにして新たな存在意義に転換するかが、危機脱出のポイントではないか。今年6月、国立大学協会が「国立大学の機能強化~国民への約束」と題する文書を公表したが、文科省以外に応援団が少ない国立大学にとって、国民の支持を取り付けられるか否かが国立大学の運命を左右する。また政策当局には、国立大学の意義を、高等教育システムの中でより積極的に位置づける努力を望みたい。なお、公立大学については、設置自治体との関係が近いだけ、危機と好機が同居している状況であり、経営には最新の注意が必要と思われる。

第三に、ミクロレベルの危機である。学生数の不足が、多くの私立大学を苦しめているのは、何よりも当事者の皆さんがよくご存じである。対応方策はそれぞれの学校によって異なることは承知であるが、いかにして学生を集めるか、いかにして若者にのみ依拠する現状を脱却して留学生や社会人にも魅力のある大学づくりをするか、これは危機であるとともに自大学改革のための大きな試金石である。改革に成功した大学のみが、発展のチャンスを掴めることを再確認しなければならない。

国立大学においては、競争的環境の中で、いかにして評価・評判を勝ち取るかが、法人化後の各大学の経営にとって大きな関心事であろう。国立大学はもはや一枚岩ではない。本来ならば、すべての国立大学全体が結束して、政治家や行政、産業界など関係者に強力に働きかけ、かつ交渉することが、発展戦略としては有利と思われるが、多様化する現実には抵抗できなくなっているのが現状である。このため、遺憾ながら結束を断念して、自大学の他大学とは異なる特色を鮮明にし、私学以上にしっかりとした教育研究の成果を発信し続けることによって、個別に社会の支持を取り付けていく以外にこの危機を脱する道はない。それは公立においても同様であり、つまりはそれぞれの大学が大学としての本質を見失うことなく、社会に意味ある強い存在となるよう努力をし続けることではないだろうか。来年が少しでも良い年になることを祈らざるを得ない。(文部科学教育通信 No282 2011.12.26])