2012年2月29日水曜日

いつまで続く模索と試行錯誤

天野郁夫さんが書かれた「国立大学の法人化-現状と課題-」(名古屋高等教育研究第6号)をご紹介します。

この論考は、国立大学が法人化して2年目に入った2006年(6年前)に書かれたものですが、この中で指摘された多くの課題が、今なお未解決のまま残存しています。

該当すると思われる部分を抜粋します。関係者は、改めて制度面、運用面について検証及び改善に向けた努力を深める必要がありそうです。


4 法人間の差異と格差-人的な資源

学長は法人化後、経営協議会と教育研究評議会から同数選ばれる委員からなる、学長選考会議によって選任されることになった。いいかえれば最高経営者としての学長は、「同輩集団」の直接選挙によらず、経営協議会委員という学外者を加えた学長選考会議が、大学の内外を問わず最適任者を選任できる仕組みになったのである。

しかし現状では学長は、学長選考会議で選任されるとは言っても、ほとんどの場合、選考手続きの一環として行われる教職員の意向投票を参考に、しかも学内から選任されるケースが圧倒的に多い。また、理事等の役員についても、一部学外から財務・人事等の専門家を任用する例がないわけではないが、一般的には、学内の教授陣のなかから任期付きで選任される場合がほとんどである。つまり現状では、国立大学法人の経営管理層の供給基盤は、それぞれの大学の現有する人的資源の量と質によって、大きく規定されていることになる。

法人化によって、文部科学省の直接的な「統制と庇護」から解き放された、一般の事務職員の場合にも、法人職員としての意識変革だけでなく、新しい経営体制に対応した職務の遂行能力の形成や向上が、重要な課題のひとつとなっている。しかし現状では、法人化からまだ2年ということもあるだろうが、どの大学法人とも、研修等を含む職員の人事政策の本格的な検討や策定を進めているようにはみえない。新しい任用試験制度の導入や、大学独自の方針による職員の新規採用、外部者の中途採用、地方自治体・企業等との交流人事も、一部の大学でようやく始まったばかりである。とくに、小規模の大学法人の場合、限られた数の職員を対象に、新しい試みを導入する余地はきわめて小さい。

大学の側からはしばしば厳しく批判されてきたことだが、これまでは、文部科学省の主導下に行われてきた本省と各大学、大学と大学の間の事務系管理職や一般職員の人事交流が、そうした人的資源の大学間格差を是正する上で、大きな役割を果たしてきた。しかし人事権が各大学の学長の手に移ったいまでは、人事交流や研修を含む人材育成に、大学間の協力体制を組み、共同で努力しないかぎり、職員という人的資源の大学間格差は固定化され、さらには拡大するおそれすらある。とりわけ、小規模大学の場合、他大学との安定的で計画的な人事交流なしには、人事の停滞により組織の活力が失われる危険性が大きい。国立大学協会は任用試験制度の実施主体となり、また各種の研修セミナーを立ち上げるなど、一定の努力をしているし、ブロック単位で大学法人間の人事交流を進める動きもある。そうした協力や共同事業の輪をさらに広げていくことが重要だが、それと同時に、法人間の連携や再編の問題も、そうした視点からあらためて検討される必要があるだろう。

一般の事務職だけでなく、理事等の経営管理層を含めて、法人化された大学の経営や運営に専門的な力量を持った、また流動性に富んだ人材をどのように育成していくのか。それは個別の大学のみでは対処し得ない、重要な課題として残されている。


5 意思決定の構造変化

わが国の大学の管理運営は、さきにも指摘したように一世紀余の長期にわたって、構成員、とくに教員間での情報の共有と合意を前提に行われてきた。学長も、部局長も、教授会構成員によって選任される同輩集団の代表者として、調整者的な役割を期待され、実際に果たしてきた。これに対して法人化後は、学長が強いリーダーシップを発揮できるよう、選任制度が変わり、また学長の任命する役員を中心とした強力な執行体制の構築がはかられることになった。それはトップダウン型の大学経営をという法人化のねらいからすれば、当然のことといってよい。

しかし、その新しい、トップダウン型の大学経営の理念を実現するためにも、実際の教育研究活動の担い手である各部局との関係が、きわめ重要であることに変わりはない。ほとんどの大学法人が、法的には設置義務のない部局長会議を置いているのは、そうした現実的な判断によるものだろう。ところが部局長が代表するその部局では、法人化後も構成員全員の参加による教授会自治が一般的であり、部局の長も構成員の直接選挙にもとづいて選任されている。つまり、部局長は大学執行部の一員である以前に、各部局の同輩集団の代表なのである。

法人のトップダウン型の経営は実質的に、こうしたボトムアップ型の意志決定の方式を残した各部局の、具体的にはその代表者である部局長の理解と合意なしには成り立たない。部局長会議や全学委員会は全学的な、意志決定とは言わぬまでも合意の形成と、それに必要な情報の伝達と共有の場として、不可欠のものと見なされているのである。

こうした現実の大学法人の運営の在り方は、学長や理事を始めとする大学法人の執行部が、既に見たように、もっぱら自大学の教職員(主として教員という同輩集団)の中から選任されている現実とも、深くかかわっている。学長は別として、理事等の教員出身の執行部スタッフのほとんどは、任期(通常2年)が終われば再び出身の部局に戻り、教育研究活動に専念する。それは法人化後も、国立大学の執行部が実質的に、経営や財務の専門家ではなく、一時的に教育研究活動を離れた、いわば素人の教員によって構成されていることを意味している。学長のリーダーシップや執行部の機能が強化されたとはいえ、国立大学は法人化後も依然として、同輩集団による大学経営の現実から大きく抜け出してはいないのである。

もちろんそれは過渡的な状況であり、やがては学外者の登用を含めて、大学経営の専門家の育成が進み、経営層と教員層とが職能的に分離していくことは十分考えられるし、またそうあらねばならないだろう。しかしそれには、長年にわたってボトムアップ型の大学運営に慣れてきた教員集団の、抜本的な意識変革が必要とされる。それは困難な、長い時間と努力を必要とする道程といわねばなるまい。

情報の共有を前提にしてきた、ボトムアップ型の運営システムになれてきた、部局の一般教員からすれば、執行部の権限強化によるトップダウン型の大学経営は、情報の流れの変化や遮断を意味する。役員会と部局教授会の間で、いわば中間管理職的な立場に置かれることになった部局長の位置は、きわめて微妙である。どちらを向いて情報を発信し、その職責を果たしていくのか、上意下達と下意上達の狭間で、部局長の地位や役割が確定していくまでには、さらに多くの時間が必要とされるだろう。

地位や役割の確定の問題は、職員の場合にも同様である。人事権を文部科学省が握っていた法人化前の時代には、たとえば経理、財務、企画、労務など、自立的な大学経営に欠かせぬ高い専門性を持った職員を育成する努力は、政府によっても大学によっても、ほとんどなされてこなかった。もちろん、職員の間に専門的な分化がまったく見られないとするのは、言い過ぎだろう。職員の大学内での職歴には、経理系・教務系・総務系・施設系といった、大まかな系統があることが見て取れる。しかし、大学事務職員の世界は、上級の管理的な職務になるほど、スペシャリストよりもジェネラリストの世界である。そして現実に、「行政と法規」による支配の下にあった、つまり自立的な経営努力の必要とされなかった時代の国立大学では、そうしたスペシャリスト養成のための積極的な努力は不要視されていたのである。

それだけではない。教授会自治中心の大学運営のもとで、職員は教員に対してつねに従属的・補助的な位置に置かれ、自発的な活動や企画立案的な仕事を、ほとんど期待されてこなかった。法人化後は多くの大学で、職員の出身者が(といっても、事務局長のポストにあった文部科学省の移動官職がほとんどだが)、理事として役員会に加わり、また全学委員会にも職員が正規の委員として参加するようになった。新設された企画室・評価室・監査室等のスタッフ的な役割をはたす組織では、教員と職員の双方が室員として共同で業務を担っている場合も少なくない。それは、法人化がもたらした大きな変化であり、一歩の前進であることは間違いない。

ただ、それが職員の能力開発や地位向上にどこまで役立つのかは、微妙な問題である。なぜなら、依然として大学経営の主導権を握っているのは、教員集団のなかから(多くは一時期に限って)選任された役員や室長などだからである。教学と経営のあいまいな分化は、私立大学にも見られるわが国大学の主要な特徴のひとつだが、国立大学法人の場合にも、職員の能力開発と専門性の向上のための方策をあわせてとらない限り、法人化は、教育研究を本来の職務とする教員の、実務スタッフ化をもたらすだけに終わるかも知れない。職員の専門性や企画立案能力が低いまま放置すれば、具体的な大学経営の過程で教員の果たす役割が肥大せざるを得ず、教育研究活動の活性化にマイナスに働くだけでなく、それによって再び職員の能力開発が妨げられるという、負の循環を結果することになりかねないのである。

国立大学の経営は、法人化によって、文部科学省の統制と教授会自治の双方からの、大幅な自由を手に入れるはずであった。しかし現実には、依然として「国立」大学法人であるが故の、文部科学省の間接化したとはいえ強い規制が働く一方で、一世紀余にわたる教授会自治の伝統とそれに由来する、意志決定にかかわるさまざまな慣行を無視することができないという意味で、経営体としての自立性を十分に活かすことができない状況におかれている。

大学が「知の共同体」であることからする、ボトムアップ型の伝統的な教員中心の運営体制から、大学の「知の経営体」への転換とともに避けがたいものになった、学長を中心とする執行部によるトップダウン型の経営体制に、どう転換させていくのか。「大学」と「法人」との、いいかえれば「知の共同体」と「知の経営体」との間の、しばしば葛藤と矛盾を伴う関係をどう調整し、「大学法人」にふさわしい経営の在り方を確立していくのか。新しい大学経営の在り方を構築していく上で不可欠の前提である、役員をはじめとする管理職や一般の職員の職務遂行能力や専門性を、どう開発し高めていくのか。教育研究活動の活性化のためにも必要と思われる、伝統的な教員依存の運営体制からの脱皮、教学と経営の分離や専門的な職能の分化を、どう進めていくのか。発足から2年目をむかえた国立大学法人が直面しているのは、そうした困難な課題である。


6 大学内部の資源配分

法人化によって、文部科学省によるこうした、いわばボトムアップ型の予算配分方式が、大きく変わったことは既に見たとおりである。細分化された基準単価による予算の「積み上げ」方式は廃止され、大学は、運営に必要と文部科学省がみなした経費のうちから、授業料・診療収入などの自己収入を差し引いた額を、「運営費交付金」として受け取ることになった。また、この運営費交付金に自己収入をあわせた資金について、それを大学内でどのように配分し、どのような目的で使用するかについて、各大学法人は大幅な自由を認められることになった。また、これまで文部科学省が大学毎、正確に言えば講座や学科、さらには学部などの部局毎に定め、保障してきた教職員の定数制も廃止されたため、教職員の数、さらには給与水準も、大学が自由に決められることになった。言いかえれば法人化とともに、大学の執行部は、経営上の最も重要な資源である人員と資金の配分について、トップダウン型の決定権限を手に入れたのでる。

問題はこの場合にもそれと、従来からのボトムアップ型の資源配分方式との関係である。法人化以前の国立大学では、講座・学科・学部という教員の組織形態に対応して、一定数の教員と一定額の予算が「行政と法規」によって保証され、それが教授会自治の最重要の基盤となってきた。一定数の人員と一定額の予算は、それぞれの講座や部局にとっていわば長い間の既得権益である。学長を中心とした新しい執行部が、権限を行使してその既得権益を侵し、奪うということになれば、教授会自治が根底から揺らぐことになりかねない。各部局や一般の教員が、新しい予算配分方式の導入に強い抵抗感を持ったとしても不思議はないだろう。実際に法人化2年目の今の時点で、積極的に新しい権限を行使し、人員と資金の大幅な再配分に着手した大学は、ごく少ない数にとどまっている。
教育研究活動の活性化という、法人化本来の目標を損なうことなく、新しいトップダウン型の予算配分方式をどのように導入し、定着をはかっていくのか。大学本部が長期的な経営戦略の遂行に必要な予算を、どのように捻出し確保していくのか。各部局や個々の教員に対する資金配分をどのような基準にもとづき、どのような方法で行うのか。その新しい基準や方法について、部局や教員の理解と合意をどのように取り付けていくのか。国立大学法人にとって、それは今後数年間の、経営政策上の最大の課題といってよいだろう。


7 文部科学省との新しい関係

とくに大学法人の内部では、トップダウン型の大学経営を迫られ、目指さなければならない学長・役員会を中心とした執行部と、ボトムアップ型の大学運営に慣れ親しんできた各部局の教授会やそれを構成する教員との間に、今後もさまざまな利害の対立や葛藤が予想される。しかし、法人化により、少なくとも政府の強力な官僚制的な支配から解き放された国立大学が、自立的な経営に必要な、大幅な自由を手に入れたことは事実である。対立や軋轢は改革の過程で避けがたいものであり、そうした葛藤を経験することを通して、国立大学は着実に変革をとげ、学長の選任や執行部の編成に見られるような、同輩集団を基盤とした「知の共同体」としての性格を維持しつつ、「知の経営体」としての道を探りあてて行かねばならない。

その試行錯誤の過程で、大学内部での対立や葛藤の問題もさることながら、さらに重要なもうひとつの問題は、国立大学法人と政府・文部科学省との間の、これも葛藤をはらんだ関係である。
国立大学法人の自己収入獲得面での経営努力は、「国立」であることによる強い制約のもとに置かれている。そうしたなかで「法人」としての経営努力は、収入の増よりは、より大きく支出の減に向けられざるをえない。しかも国立大学の場合、平均して経常費のほぼ7割を教職員の人件費が占めており、なかにはそれが85%を超える大学もある。経費の節減は、人件費の問題抜きには、考えることができないというのが現状である。

学生-教員比で見た国立大学の教育条件が、私立大学に比べて著しく恵まれていることはよく知られている。しかし学生数の増が厳しく規制されているなかで人件費の削減を図ろうとすれば、教職員数、とくに教員数の削減を図る他はない。実際に国立大学法人の多くは、転・退職した教職員のポストを不補充にする等の方法で、人件費の削減に努力しはじめている。こうした努力をすればするほど、その教育研究活動に及ぼすマイナスの影響が、もともと人的資源の総量に乏しい小規模大学により厳しく及んでいくことは、あらためて言うまでもないだろう。

こうした法人化の現状は、運営費交付金の減額と引き替えに、競争的な研究費という形での外部資金、とくに公的な資金の増額が図られれば図られるほど、大学間の資金面での格差が拡大し、基礎的な教育研究活動、とりわけ教育活動の水準の相対的な低下を招き、とくに中小規模の国立大学法人の経営基盤を弱体化させる危険性が増していくことを示唆している。
大学が自らの経営改善努力の一環として行う自己点検・評価と違って、政府が国立大学法人に対して行う「外部評価」としての法人評価委員会による評価は、間接的であるとはいえ、強い統制的な機能を持っていることを忘れてはならない。大学の多様な活動の何を、どのような方法と指標によって評価するのか。それを、運営費交付金の交付額の決定に象徴される国立大学政策とどのように、どこまで関連付けていくのか。さらには、属性も個性も異なる87の大学法人を、どこまで共通の指標によって評価し、どこからそれぞれの独自性に応じた差異的な評価をしていくのか。それによって評価は、教育研究活動や社会貢献活動を活性化させ、各大学のさらなる個性化や発展に大きく資するものにも、逆に政府による間接的な統制の手段として、せっかく認められた経営上の自由を強く制約し、教育研究活動に枠をはめるものにもなる可能性や危険性を持っている。

繰り返しになるが、問われているのは、国立大学法人についてはなによりも、認められた経営上の自由を、厳しい財政状況のもとでどう行使し、教育研究の活性化と水準の向上に努めていくのか、また政府・文部省については、「市場と競争」の秩序の中に投げ入れた国立大学法人とのとの新しい関係をどう構築していくのか、である。模索と試行錯誤の過程は、ようやく始まったばかりなのである。

2012年2月28日火曜日

「体験」と「承認」の実践

社会につなげる人材育成」(日本私立大学協会私学高等教育研究所研究員 岩田雅明)(文部科学教育通信 No.285 2012年2月13日号)をご紹介します。


社会が求める人材

聞き飽きている言葉とは思うが、社会が大学生に求める能力・資質といったものについて改めて考えてみたい。2011年12月に就職情報関連の企業が「学生に求めるもの」というテーマで調査を行っている。それによると文系・理系ともトップは相変わらず「コミュニケーション能力」となっている。2位、3位は文系・理系とも共通で「熱意」、「基礎学力」と続いている。大学教育の中心といえる専門知識はどうかといえば、理系では4位となっているものの、文系では20位と重視される度合いは非常に低いものとなっている。

基礎学力や専門知識といったものは、これまでの大学教育でも養成してきたものであるが、コミュニケーション能力や熱意といった社会力、人間力といったものは、養成の対象とは考えられていなかった。それが最近の低い就職率や、就業後、比較的短期間での高い離職率といった状況が社会的な課題として注目されるようになり、社会の要請と大学教育との間に不整合があるのではないかということがいわれるようになってきてから、大学教育の対象として見直され出したものである。


キャリア教育

大学と社会とのつながりを円滑にするためのものとして出てきたのが、キャリア教育である。働くということを中心にして、自分に合った将来を設計させることをねらいとした教育プログラムである。キャリア教育が注目された直接の契機は、終身雇用の崩壊やフリーターの増加といったことであろうが、大学で教えてくれない人生にとって大事な二つのことは将来を考える方法とお金の儲け方だといわれるように、一般的な感覚としても、将来を考える機会というのは、教育の各段階に応じて設けられるべきであるという意識がベースにあったものと思われる。そして今年度からは、大学でのキャリア教育を義務付ける設置基準の改正も行われている。

現状、全国の大学で様々なキャリア教育が実施されているが、その内容を整理すると3つに分けられるのではないかと思う。

一つは自分を把握するということである。いろいろなアセスメントツールも開発され、それらを使って過去から現在までの自分を見つめ、自分の興味や関心の在り方、適性、強みや弱みといったことを把握するプログラムである。最近はポートフォリオといわれる、行動履歴を集積させて自分の歩みを確認したり、振り返ったりすることのできるシステムを取り入れる大学も増えてきているが、これも自分を把握する手法の一つといえる。

二つ目は、社会や職業を知るというプログラムである。これからの社会の動向について考えたり、OBやOGを含めいろいろな業界の人に仕事についての話をしてもらったりといった内容である。職業興味検査や適性検査などを使って、興味のある職業や適性に合った職業を見つけるといったものも、この範疇に入る。

そして三つ目は、一つ目の自己理解と二つ目の社会・職業理解を重ね合わさせ、自分の将来をデザインさせ、そこに向けて大学生活を送らせるというプログラムである。ここが一番重要であり、一番難しいところである。キャリアデザインシートのようなものを使って自分の将来計画を作成させ、それで終了といったプログラムも以前は見られたが、これではほとんどの学生がキャリアデザインの授業終了とともに、自己のキャリア形成も終了ということになりかねない。重要なのは計画を行動につなげていくことである。このために各大学がいろいろな工夫を実践しているというのが、キャリア教育の現状であると思う。

どのようにしたら計画・理解という段階から、行動に進ませられるのであろうか。一番手っ取り早い方法は強制することであろうが、それは無理であるので、大学の環境、雰囲気を将来に向けて行動しなければならないようにしていくということが考えられる。全学挙げて就職志向、就職支援といったことである。これも確かに必要な要素である。キャリア形成の支援は、継続的・統一的であることが有効だからである。そして実際にこのような方向で進んでいる大学も、次第に増えてきているように感じている。

行動するために必要な力を養成するといった取り組みをしている大学もある。東京女学館大学はコミュニケーション能力や調査能力、外国語運用能力、課題解決力といった有用な能力を「10の底力」と名付け、授業で養成を図っている。前述したポートフォリオといった取り組みも、自分がつけたい力を把握し、その伸び具合を確認できるという点では、同じ方向性を持つものといえる。


梅干し名人と行動力

計画や理解を行動につなげるために、一番必要なものは何であろうか。長年、大学生の就職支援に携わった中で、就職活動に踏み出せない、あるいは踏み出しても一度採用選考に漏れると活動を休止してしまう大学生を数多く見てきた。動く学生と動かない学生の違いは何なのか、ということを考えてきた。表面的な理由はいろいろあろうが、行動の有無を分けているものは自己肯定感ではないかと思う。自己肯定感があれば、困難な事態に陥っても自分なら何とかできるのではないかということで行動が継続できるからである。社会が求めるコミュニケーション能力や熱意・バイタリティといったものも、自己肯定感があれば自ずと身につくものである。では自己肯定感を高めるためにはどうしたらいいのかといえば、「体験」と「承認」という二つのことの実践であると思う。

私事であるが、わが家では毎年、庭の梅の実を使って母親が梅干しを作っていた。ある年、母親が病気で入院をしたため、代わりに私が梅干しを作ることになった。もともと私は手先が不器用で料理は苦手であったので、気乗りがしない面もあった。途中、失敗かと思う場面もあったが何とか干し上げ、出来上がった梅干しを入院中の母親のところに持って行ったところ、母親が、こんな出来のいい梅干しは初めてだと言ってくれた。梅干しを苦労しながらではあったが完成させられたという体験と、母親からの高い評価により、私の自己イメージはこう変わった。「私は梅干し名人だ」と。

学生の自己肯定感を高めるために、大学はできるだけ多くチャレンジの機会を与え、成功したらそれを承認し、失敗したら学びの体験、成長の体験となったという認識を持たせる指導をすることである。また、平素から学生を承認する環境をつくることも大切である。承認には行動を認めることだけでなく、存在を認めることも含まれる。学生の誕生会をしている短期大学があるが、学生は大変喜んでいるという。このような平素の風土が自己肯定感を高める大切な要素である。
http://www.kyoikushinsha.co.jp/book/7285/index.html

2012年2月27日月曜日

リーダーを育てる(ドラッカー)

人の育成にあたって最も有効な方法が、先生役をしてもらうことである。先生になることほど多くを学べることはない。先生役を頼むことは最高の評価である。営業マンであれ赤十字のボランティアであれ、「どうして成績がよいのか、話してください」と頼まれるほど、うれしいことはない。

有給のスタッフについては、内向きになることを防ぐために、意識的に外の風に当てなければならない。大学の社会人向けの講座にも出させるべきである。

企業では、脅威になるがゆえに部下を育てないとは、よく耳にする問題である。しかし一流の組織は仕事のできる人間を必要としている。ここにも非営利組織の強みがある。ボランティアは有給の役員のポストが欲しくて働いているわけではない。したがって脅威でも何でもない。

19世紀の終わりに大作曲家グスタフ・マーラーがウィーンに交響楽団を設立した。メンバーへの要求が厳しかったため、パトロンである皇帝が「やりすぎではないか」と下問したのに対し、彼はこう答えたという。「彼らの腕が上がって、彼らからの要求のほうが厳しいのです」

非営利組織のリーダーたる者、仕事のできる部下からのプレッシャーを歓迎しなければならない。「どうしてわれわれはもっとやれないのか。もっとよくやれないのか」といわれることを欲しなければならない。


2012年2月26日日曜日

社員をクビにしない(土光敏夫)

人は、すぐあれはこの点が駄目だと欠点をいうじゃないですか。神様はそんなことしませんね。誰だって長所があるもんだ。長所をみないで人事をやるなんておかしいですよ。そういうところで外れた人はぼくの直属にします。それがぼくのやり方ですよ。

意見はいいますよ。これは対等だから大きな声でやり合います。新入社員が相手でもね。熱を入れて喋るから社長は怒ったなんて誤解されることもあるが、ぼくは怒ったことなんてないんだ。


2012年2月25日土曜日

Heroes 2011, Japan

2011.03.11 東日本を大きな地震が襲いました。その後すぐ、海外から多くの支援が届けられました。日本を思うすべての方々へ、感謝の気持ちを。(You Tubeから)




楽譜のダウンロードはこちら
http://hatamariko.com/2011%20Japan.mus.pdf

15ヶ国語での歌詞はこちら
http://www.hatamariko.com/information/heroes-2011japan-lyrics/


We will stand strong again 仙台の八幡小学校 海外からの支援に感謝の歌(2012年2月24日 産経新聞)

東日本大震災で校舎にひびが入るなどの被害が出た仙台市青葉区の市立八幡小学校の6年生が、外国からの支援に感謝の気持ちを伝えるため、英語の歌の合唱に取り組んでいる。

2月には国際放送を通じて世界各地に発信された。

教師たちは「大人になっても、自然に海外の人に感謝の気持ちを伝えられるようになってほしい」と願っている。

Thank you, friends for away For all you think, feel and pray for me and my family (遠くにいる友達へ 私たちの家族のために思ってくれてありがとう)

6年生約110人がひしめく音楽室に歌声が響きわたる。子供たちが真剣なまなざしで追っている英語の譜面にふりがなを書くのは禁止だ。指導する学年主任の深瀬光子教諭(48)は「耳から覚えたそのままの音で、外国の人に語りかけるように口ずさんでほしいから」と話す。

昨年4月、別の小学校から転勤してきた深瀬教諭は担任する6年2組の子供たちの前に初めて立ったときのことが忘れられない。「なんでこの子たち笑わないの…」。暗い表情に驚き、子供が何げなく発した言葉に衝撃を受けた。

「6年生は教室が1階だから地震が来たらすぐ逃げられるね」

震災時、5年生の教室は4階にあり、この子供たちはそこで大きな揺れに遭遇していた。「普通なら、休み時間に校庭に一番に出られるとか、そういう喜び方をするのに…」

この子たちに何か前向きになれる取り組みをさせたい。そんな時、保護者を通じてある歌を知った。「Heroes 2011, Japan」。音楽家の秦万里子さん(55)が作詞作曲、お笑いコンビ「パックンマックン」のパトリック・ハーランさん(41)が英語詞を手がけ、日本への支援に感謝の気持ちを伝える歌だった。

「子供たちが大人になったら海外の人とたくさん知り合い、あの震災はどうだったか、被災者として話す場面もきっとある。そのとき、この歌を口ずさんで覚えた英語で自然に感謝を伝えられるようになれると思った」

今年1月、震災1年に合わせて発表しようと、歌を吹き込んだCDを1人1枚配って練習を開始。2月には、練習に取り組む姿が、世界約130カ国・地域に向けたNHKの英語放送で紹介されたという。現在、3月の卒業式などに向けて練習に励んでいる。

子供たちの、支援に感謝する気持ちもより強くなったという。

齋地南さん(12)は「他の国で大きな災害があったら今後は私たちが助けてあげたい」。廣田海斗くん(12)は「いち早く駆けつけてくれた海外からのボランティアの人や、体を張って助けてくれた自衛隊の人にも感謝の気持ちを伝えたい」。

We will stand strong again I, We, Japan(きっとまた立ち上がってみせる わたし 私たち 日本)

子供たちの明るい歌声は今日も校舎に響いている。

2012年2月24日金曜日

弱者の共倒れ

震災の影響もあってか、多くの人が、人間の”絆”の大切さを強く意識するようになってきたような気がします。しかし、一方では、相変わらず「孤立死」といった悲劇が連日紙面を賑わせています。

社会全体で弱者を救うためには、一人一人が慈愛の心を持つ、持つように心がけることが肝要かと。言葉だけでなく行動で。

天声人語(2012年2月24日付)

一つ屋根の下、という表現がある。そこにあるべきは一家だんらんであり、つましいけれど幸せな日々だろう。しかしこの現実を前に、ありきたりの言葉は意味を失う。

東京都立川市のマンションで、45歳の女性と4歳の息子らしき遺体が見つかった。床に倒れた母親の死因はくも膜下出血。知的障害がある坊やは一人では食事ができず、手つかずの弁当はあるも胃は空だった。2人ぐらしのお母さんを突然失い、空腹のうちに息絶えたらしい。

一家の亡きがらが、時を経て自宅で発見される事例が相次いでいる。さいたま市では、60代の夫婦と30代の息子。家賃と水道代が滞り、電気とガスも止められていた。近所づきあいも、生活保護の申請もなかったという。所持金は1円玉が数枚だった。

札幌市では姉(42)と障害のある妹(40)、釧路市では妻(72)と認知症の夫(84)。いずれも、病気や高齢などのハンディを抱えた「弱者の共倒れ」である。なんとか救えなかったか。

衰弱の末の死は緩やかに訪れるはずで、複数が同時に事切れたとは考えにくい。一つ屋根の下、残された人の落胆や焦りを思う。札幌で姉に先立たれた妹さんは、携帯電話のキーを何度も押していた。

こうした悲劇には、公共料金の滞納、たまる郵便物などの前兆がある。微弱なSOSが、プライバシーの壁を越えて行政に届く策を巡らせば、かなりの孤立死は救えよう。懸命に生きようとした人の終章を、天井や壁だけが見届ける酷。きずな社会への道は険しい。

2012年2月23日木曜日

秋入学移行問題

東大の秋入学-その意味を考える」(広島大学高等教育研究開発センター長 山本眞一)(文部科学教育通信 No.285 2012.2.13)から抜粋してご紹介します。


秋入学と大学の多様化

東大の案は、しかしそのような対策の意味もあってか、過去に議論されてきたような純粋な意味での秋入学よりは複雑な仕掛けである。つまり、高等学校以下の教育に与える影響を最小限にとどめるには、入試の時期は現行から大幅に変えることは難しい。そのためもあろうが、「ギャップ・ターム」という半年間の余裕を入学前に持たせてある。この半年は「入学前」とあるから、まだ大学生ではないがしかし浪人ではなく、入学が約束された「予定者」である。この間に何をやるかは、実際には東大が考えているよりもはるかに多様なものになるであろうが、それが高等学校までの受動的な学習と大学入学後の能動的学習とのギャップを埋めるものになるかどうかは、依然として議論の余地が大きいと考える。あまりに過剰に大学が関与すれば、学部教育の期間が実質4年半に延びるだけということになって秋入学のメリットの半分が損なわれるであろう。しかし学生の自己責任だけであれば、学生の学力問題に加え、東大など有力大学ならともかく、多くの大学にとって半年後の入学者数の予測が立ちがたくなる心配もあろう。

それよりも、一番大きな問題は、今回の東大のプランが実行された場合、大学の多様化を推し進める決定的要因になるのではないかということである。東大の中間まとめでは国際化の必要性とくに学生の多様性や海外大学院への留学の容易化を強く主張しているが、そのようなことが言えてかつ実行に移せるのは、選抜性が高い研究中心大学だけであろう。多くの大学は大衆化の中で、かつ18歳人口の減少に苦しみつつも、国内市場での生き残りをかけて頑張っている。高校卒業後に空白ができることに不安を抱くのは、学生だけではなく、学生確保が何より大事な多くの大学の方ではあるまいか。私学では秋入学以降による授業料収入の減少問題をどのように解決するかという難問もある。就職時期の弾力化、通年化も就職に強い有力大学にますます有利に働くだけという、影の声があることも忘れてはならない。したがって、秋入学に移行できる有力大学とそれに関心を示しつつも結局は踏み切れない多くの大学とに分かれて、これが意図しない、しかし目に見える形での多様化のボタンを押す結果となってしまうのではないか。その意味で、東大が今回協議の対象としている11大学が、いずれも研究中心大学であることが気がかりである。

いずれにしても、動かないと思われていた山が動く可能性がでてきた。そのこと自体は決して悪いこととは思わない。秋入学をテクニカルな問題の議論に終わらせるのではなく、東京大学が意図しているごとく、わが国大学の国際化さらには大学改革全般の問題に関わらせるよう、幅広い議論が巻き起こることを望むものである。

2012年2月22日水曜日

大学のセンセイは人気の商売?

大学の教員になる方法・理系の巻」(梨戸茂史)(文部科学教育通信 No.285 2012.2.13)から引用してご紹介します。 


このページを読んでおられる方の大半は、大学の教員と推察いたします。だから関係のない方も多いでしょう。いっとき話題になった鷲田小彌太著「大学教授になる方法」、この新版が出ている。

本書が面白いのは、大学教授になることのメリットやデメリット、なるための裏技などが公開されているところ。まず、メリットは「給与が保証され、休日が多い」「研究費つき」「長期留学や学会出張の名目で、遊学や名所見物が堂々とできる」「社会的に一定度の信用がある」「定年が遅い」など。デメリットは「足の引っ張り合いは日常茶飯事」「平均して、大学卒業後10年間の準備期間が必要」「少子化」などがあるそうだ(少子化はこれから大学が定員割れから縮小、廃校など危機が来るという話。でもまあ、すぐにはそうなるまい)。また、通常、大学の教員は博士号を持っていることが前提だが、修士号すらなくとも大学教員になる方法だとかサラリーマンから転身する方法、おまけは教授になるための学術論文を書く方法なども掲載。有益な本だと思う。

前作の「大学教授になる方法」から10年だった今回の著作には、前者を読んで大学教員になったという読者の手紙が掲載されているのが特色。

しかし、理系となると話は別。ほぼ絶対に博士号が必要。そのためには学部の時代から研究室に入って実験などを手伝う必要がある。「生き物」を扱ったり、一定時間の実験を必要とする研究ならば、下宿はあっても帰れない。寝袋で研究室泊まりは日常の風景。アルバイトもままならない。博士号が取れても、その先はポスドクの悲哀が待っている。先のあてのない肉体労働者だ。それでも教授(准教授)に忠誠を誓わなければ、未来はない。

ところで、「博士号とかけて足の裏に付いた米粒ととく」という有名な話があるのも理系の世界。そのこころは、「取れないと気持ちが悪いが、取っても食えない」。

理系ポストの採用基準は、「業績=論文」。論文とはもちろん国際的な雑誌に投稿した論文で、数も込要。ただ単に数ということだけでなく、インパクトファクターという雑誌のランクも関係するそうだから大変。もっとも採用のための委員会(現場)に立ち会った経験から言えば、説明役の先生の専門には皆ロ出ししない(内容が分からない?)から、言うがまま。論文数や掲載誌だけは文句がつけられる。でもあまり難点を指摘すると自分の時にしっぺ返しを食うからまずい。

その先、見事大学のポストにつけても、助数は任期があってふつうは3年くらいだから、その間に業績を挙げつつ次のポストを探さなければならない。教授になったらなったで、大学内部で予算の取り合いやら、居心地が良いとは限らない。学内政治にも神経を使う。また、理系は実験にお金が掛かり、学会のボスがそれを取り仕切るし、産学共同研究で企業からお金をもらうのも、時流に乗っている研究ならば万歳だが、地味な基礎研究ではそれも無理。学生や助教の就職先の面倒をみるのも大変。最近は教員のポストが減ってきているために、社会人入試で入る学生を喜んでいる教授もいるとか。就職の面倒を見なくてすむからだ。

社会人といえば、企業の研究職から大学に転身するケースもある。当然ながら企業にいる間に海外の大学院で博士号を取るとか、論文博士になっておくとか、準備は必要。社会経験を積んだ教員は、企業の様子もわかるので学生の評判はいいそうだ。

ともあれ、好きなことを研究してお金がもらえ、自由人のイメージの大学のセンセイは人気の商売かもしれない。賛同します?


2012年2月19日日曜日

ミッションを感じさせる(ドラッカー)

非営利組織の強みは、報酬のためでなく大義のために働くところにある。それだけに、組織の側に、情熱の火を燃え続けさせる責任がある。仕事を労働にさせてはならない。

情熱の維持については、非営利組織の中では病院が特に不得手なようである。あまりに多くの仕事が定型的である。辛いことから身を守るために無感覚になろうとしているということもある。

したがって病院において大事なことは、いろいろな部門の人を集め「われわれが誇りとするものは何か」「われわれはどのような素晴らしいことをしたか」と聞くことである。「心臓発作で一晩に六人運び込まれたが、みな助けた」との答えを得ることである。何事も成果に焦点を合わせなければならない。

ミッションを感じることこそが非営利組織の活力の源泉である。しかし、そこには困った問題もついている。成果をあげられない者を抱え込むという問題である。できない者もまた戦友である。そのため、仕事ができなくとも辞めさせることには二の足を踏んでしまう。

この問題についてはここでもう一度シンプルな原則を繰り返させていただきたい。挑戦してくるならばチャンスを与えるべきである。挑戦してこないならば辞めてもらうべきである。


2012年2月18日土曜日

執念をもって仕事せよ(土光敏夫)

仕事に困難や失敗はつきものだ。そのようなとき、困難に敢然と挑戦し失敗に屈せず再起させるものが、執念である。そればかりでない。およそ独創的な仕事といえるものも、執念の産物であることが多い。湯川博士は中間子理論のヒントを寝床の中で得たという。しかしその背後には、寝ても覚めてもその一事に凝り憑かれた長い執念の期間があったことを忘れてはなるまい。

物事をとことんまで押しつめた経験のない者には、成功による自信が生まれない。能力とは「自信の高さと幅」だといえる。自信を一つ一つ積み上げることが、能力を獲得する過程である。執念の欠如する者には、自信を得る機会が与えられない。


2012年2月12日日曜日

親の後ろ姿を見て子供は育つ(土光敏夫)

だいたい子供は親の後ろ姿を見て育つというじゃないですか。
親が誰に恥じることなく生きていれば、何も言わなくともそれは背中に現れる。
もともと血はつながっているのだし、いちいち細かいことを言わずとも、そこは以心伝心、節目ふしめにアドバイスしてやれば、あとは自分でなんとかやっていく。
過保護が度を越すと、それはかえって子供を不幸にするだけです。


2012年2月11日土曜日

強みに焦点を合わせる(ドラッカー)

重要なことは実力であって見込みではない。要求は厳しくしなければならない。基準は途中で引き上げることはできない。したがって時間は与えてよい。ゆっくりやらせてよい。何度やらせてもよい。しかし質を落としてはならない。

二つの基本とすべきことがある。一つは身体障害者協会のスローガン、「できないことのために雇ってくれる必要はありません。できることのために雇ってください」である。聴覚の鋭さが必要な仕事では、むしろ目の見えないことが武器になる。

もう一つは、私が11歳のときに学んだことである。ピアノの先生が怒ってこういった。「ピーター、プロのようにモーツァルトを弾けるとは思っていません。でも音階はきちんと弾きなさい」

人事は強みを中心に行わなければならない。第二次世界大戦中に陸軍の参謀総長をつとめたジョージ・C・マーシャル将軍は、最高の人事を行い続けたことで有名である。

ここから学ぶべき教訓は「強みに焦点を合わせよ」である。そのうえで要求を厳しくしなければならない。そして時間をかけてていねいに評価しなければならない。向かい合って、約束はこうだった、この一年どうだったか、何をうまくやれたか、と聞かなければならない。

これらのことすべてに、明快でシンプルなミッションが必要である。ミッションは、どのような能力をも上回るものでなければならない。それは人の目線を引き上げるものでなければならない。世の中を変えることに貢献できたと思わせるものでなければならない。誰もが無駄に生きているわけではないといえるようにするものでなければならない。

最悪というべきは、階層的な考えを組織にもち込むことによって、人材の育成を阻害することである。その典型が、ハーバード・ビジネススクールのMBA(経営学修士)にしかポストを与えないことである。あるいは、昇進させていく者を早い段階に決めることである。

大事なのは成果である。一つの仕事ではなく一連の仕事での成果である。なぜならば、人とは、向き不向き、出来不出来があって当然だからである。人の組み合わせが悪いために仕事がうまくいかないこともある。誰とでもうまくやれるとは限らない。他の仕事も試させなければならない。

挑戦する者には機会を与えることが原則である。挑戦しない者は放っておいてよい。


2012年2月10日金曜日

教職協働と職員の能力開発

アルカディア学報 No.464(日本私立大学協会)に掲載された論考を引用しご紹介します。

教職協働は大学の特性に応じて 役員・教員・職員調査結果からの示唆(山本眞一・広島大学高等教育研究開発センター長)

望まれる職員の能力開発

近年の職員能力開発の中心課題の一つに「教職協働」がある。この意味するところには、さまざまなものがあると考えるが、私なりにこれを定義すれば「教員と職員とが目標を共有しつつ協働して業務を遂行すること」となる。つまり、単に教員と職員とが役割分担すれば済む話ではなく、お互いの能力や特質を活かしつつ、溶け合うような関係でさまざまな仕事を行うような密接な関係でなければならないと考えるのである。

職員は教員と机を並べて一緒に仕事をすれば、それだけで教職協働が成り立つものではない。目標共有を前提とした実質的な教職協働を行うには、職員はその案件について教員と同等の知識や見識を持つことが望ましく、そのためには企画力や構想力を含め格段の研鑽が求められる。もちろん、これは教員の真似をしてアカデミックな能力を磨くべしということではない。あくまで、大学の諸業務に関してのことである。

それにしても、国立大学の実情にはかなり問題がある。私がかつて1980年前後に経験した国立大学事務局では、教員主体の学内委員会で職員が内容に関わる発言をすることは、もってのほかという雰囲気があった。仮に職員側に発言するだけの能力があったとしても、それを表に出すことがはばかられていた時代であった。職員の能力開発が市民権を得た今日、そのような不文律はもはやないのではないかと考えるが、逆に委員会で職員に原案づくりを頼んでも、それは先生方の仕事だと言わんばかりの消極的な態度を示す職員がいる。霞ヶ関の審議会では、原案づくりの主導権を事務局が握って離さないのと比べると何と違いが大きいことか、と思わないでもないが、逆に職員の能力開発が、事務能力の向上などテクニカルな側面に偏っていて、内容を伴う実質的な能力開発にはまだまだ問題が多いからではないかと心配している。

役員や教員の視点からも検討

教職協働に関しては、私が2007年に全国の事務職員1400人から回答を得た意識調査のデータがある。

これによると総務系や財務系の業務(教育・研究に直接関わるものを除く。以下同じ。)については、職員の過半がこれらの業務は職員主体でやることが望ましいと答え、残りの職員も教職協働を選択し、教員主体で企画立案して職員が従うべしとする回答はほぼ皆無であった。また、教務や学生系の業務については、教員主体で企画立案して職員が従うと答えた者は ̄~2割程度に留まり、残りの多くは教職協働を選択していた。つまり、大学の諸業務の多くは職員主体あるいは教職協働で行いたいというのが大方の意識であった。

ただし、これは職員側の意識であって、教職協働の相手方である教員の意識を調べたものではない。このことの不十分さを痛感していた私は、たまたま科研費による調査研究の機会を得たので_011年2月、今度は職員だけではなく、役員や教員をも調査対象にして全国の国公私立大学を対象にアンケート調査を行った。その結果、約2300人から回答を得たが、内訳は役員が約600人、教員が約800人で、残りは職員であった。結果の詳細は現在なお分析中ではあるが、この機会に教職協働に関係するいくつかの項目について、とりあえずの結果を紹介したい。

大学の業務遂行のための能力開発が必要かどうかという基本的な問題については、役員に関しては回答者の7割が、そして職員に関しては6割が「とても必要」と答え、これは教員に関してのそれが3分の1程度に留まるのに比べて対照的であった。しかも教員自身が教員の能力開発の必要性に賛意を示す割合は、役員や職員の回答に比べて一番低かった。もっとも能力開発の中味については、役員に関しては企画力や構想力、職員に関しては新たな業務の処理能力を挙げる者が一番多く、教員に関しては大学改革の現状や知識を挙げる者が多かったから、単純に比べることはできない。

教職員の意識の相違をどう考えるか

印象的であったのは、教職協働についての意識が教員と職員とでかなり別れる傾向が見出されたことである。総務系の業務処理について、職員の3分の2は職員主導を挙げ、教職協働を選択する者は3分の1に留まったのに対し、逆に教員の3分の2は教職協働であり、職員主導という意見は3割程度であった。また、教務系の業務処理については、職員の8割近くが教職協働という意見であったのに対し、教員のそれは6割弱に留まり、残りの4割強は教員主導でという意見であった。

もっともこのような対照的な結果は、教員と職員の対立の証拠だと単純に割り切ることはできない。相手の領分の仕事に関心があるということは、逆に教職協働を進める前提としては良い傾向であるかもしれない。ただ、教職協働についての意見を国立大学と私立大学とに分けて分析すると、教務系では大きな意見の相違はないが、総務系については、職員主体という選択をする教職員が私立大学に多く見られる。これはなぜかと考えると、実は教員も職員もそのバックグランドが国立と私立とで相当に違うことが分かる。

教員と職員との学歴を比べると、私立の方が国立より両者の差が小さく、また出身大学と同じ大学に勤務している職員は私立の方が遥かに多い。また、現職までの経歴を比べると、国立では教員は教員として育ち、職員も職員として育ってきた者がほとんどであるのに対し、私立では教員も職員もさまざまな経歴を経て現職についている者の割合が多い。このことは、教員と職員の数の比率の差異に加えて、教員や職員の意識に何らかの影響を与えているに相違ない。

それでは具体的にはどのような対応をとればよいだろうか。現状を容易に修正することはできないから、教職員のバックグランドの特性に応じた教職協働を考える必要がある。さしあたり、私立大学の方が職員の経営参画意欲が旺盛のようであるから、これを積極的に活かしつつさらに能力開発を進めることが効果的であろう。これに対して、国立大学では職員の能力開発の基本から見直し、教職協働が実質的に成り立つよう、さまざまな業務を主体的に行うにふさわしい能力開発を早急に始めることが望まれるのではないだろうか。

2012年2月8日水曜日

学長の選考はどうあるべきか

「アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)No.468」に掲載された論考を引用しご紹介します。
これからの高等教育の発展を考えた時に、大学の最高経営責任者(国立大学法人の場合)である学長の”リクルート”は極めて重要な課題であり、この論考で紹介されている隣国の事例を自分たちのこととして受け止め考えていくことは、とても意味のあることだと思います。


学長直接選挙廃止の動向 韓国における大学の構造改革(両角亜希子・東京大学大学院教育学研究科専任講師)

大学の学長をどのように育成、選出し、評価すべきなのかを正面から議論する時期が来ているのではないかと感じていたところ、韓国の大学でこれがホットイシューとなっていることを知った。韓国での議論を紹介し、日本の大学の学長問題について考えてみたい。


政府主導で国立大学の総長直接選挙廃止へ

韓国では1990年代の半ばから大学設置基準の緩和などの規制緩和が進み、大学の数が急速に増加してきた。その一方で少子化の進行は日本以上であり、地方大学や専門大学で経営の悪化、大学教育の質の低下、就職率の悪化などが社会問題となっている。こうした背景で政府は大学の構造改革に乗り出している。

私立大学については別のところでまとめたので詳しく述べないが、「経営不良大学」が指定され、自助努力で改善しない場合は認可取り消しもありうるという政策が進行中だ。全国38校の国立大学についても政府が評価を行い、下位5校を「構造改革重点推進国立大学」に指定し、総長直接選挙制の廃止、学科の統廃合や改編、大学間の統廃合などの構造改革を求め、これを履行しなければ最悪の場合、入学定員の削減や予算減額などの措置を行うことになっている(ハンギョレ新聞、2011年9月23日)。

5大学のうち、江原大学、江陵原州大学、群山大学、釜山教育大学は、評価方法や総長直選制廃止などに対する不満などもあったものの、財政的な不利益を懸念し、最終的には総長直選制廃止を受け入れた。最終決断は学内教職員の投票を経てなされたが、総長直選制の廃止に賛成したのは、江原大学で52%、江陵原州大学で67%であった。忠北大学だけは教授会メンバーの74%が廃止に反対して総長直選制を維持している(韓国大学新聞2011年12月5日、12月9日)。

また、教員養成大学の構造改革においても、総長の選出方法が重要な論点になっている。総長公募制の導入が求められているのである。釜山教育大学、光州教育大学は多くの教授陣が反対し当初は参加しない方針であったが、「構造調整に参加しない場合は翌年の募集定員をそれぞれ22%(88名)、23%(81名)を削減する」との通達を受けて、やむを得ず方針を変更した(ハンギョレ新聞2011年10月20日)。

その結果、すべての教員養成大学11校で、総長公募制の導入などを含む、構造改革推進のための業務協約を教育科学技術部と締結し、2012年3月以降に選出される総長から公募制が実施されることになった(教育科学技術部報道資料2011年10月4日、10月18日)。


私立大学でも広がる見直しの動き

国立大学の総長選出の方法について政策に従わなければ、入学定員や予算を削減して変更を迫るという強行的な手法に驚いたし、韓国においてもこのやり方に対する大学や大学人からの強い反発もあるようだが、ここで着目したいのは「総長を学内構成員が直接選挙で選出していては大学改革が進まない、弊害が大きい」という主張である。

実際、構成員による総長直接選挙の廃止はこうした構造改革という政策誘導・強制による変更に限らず、広がりを見せている。成均館大学をはじめ、相当数の私立大学が総長直接選挙制を廃止し、間接選挙制(直接選挙で代議員や推薦委員を選び、彼らが総長選任権を委任する方式)や折衝制(政府や理事会が複数の候補者を決めたうえで教授団が選挙する方式、あるいは教授団が複数の候補を選出し、政府や理事会が1名を決定する方式)を導入するようになっている(聯合ニュース2011年8月5日)。また、いわゆるSKY(ソウル・高麗・延世)で総長直接選挙制度が廃止され、他大学へも広がるのではと論じられている(金融ニュース2011年11月29日)。

ソウル大学では今年の法人化とともに総長直選制を廃止し、総長推薦委員会の推薦を受けて理事会が選任する予定だ。高麗大学では既に総長直選制を廃止し、2010年12月に新しい制度のもとで総長が選出された。また延世大学では23年ぶりに直選制でない形で総長が選ばれた。理事会の総長候補選考委員会で5名の候補を選定し、最終的に1名の候補者(経済学部教授)を指名し、この総長候補者に対する学内の承認投票が行われ、教授投票率86.5%、賛成率86.6%で承認されたという(韓国大学新聞2011年11月30日)。

韓国で総長直接選挙は1988年から実施されており、大学の民主化と自律化に貢献してきたことは多くの論者も認めているが、それ以上に弊害が大きいという議論が多いようだ。一部には総長選挙のたびに不正や過熱する選挙活動で学内が混乱する問題もあるようだが、ポピュリズムの総長が選出される傾向、学部の利己主義が強すぎる点、選挙功労者がその後の重要なポストに就く人事問題など、様々な弊害が指摘されている。


学長人材の育成・選任・評価システムの必要性

以上は韓国における最新動向であるが、日本の状況にひきつけてこの問題を考えてみたい。多くの大学において実際の学長選考過程は非常に複雑なものであるが、複数の候補者を最終的に学内構成員の選挙結果で決めている大学は少なくない。構成員の直接選挙で学長を選出することが本当に大学改革の推進にとって弊害なのかは実証的に検証してみるべき研究課題の一つであるが、再編・削減などの難しい改革課題が大学に突きつけられる中で、確かにいくつかの大学において韓国と同様の問題が生じているように思われる。

学部の利害代表のような学長が選出され、支持母体である学部の顔色を窺って全学的観点からの大学運営や思い切った改革ができないという話もよく聞く。また、前の学長と方針が全く異なる学長が選ばれ、大学としての方向性に混乱が生じているケースもある。また、国立大学では教職員の意向投票をした上で、学長選考委員会が2位の候補者を学長に選び、訴訟に発展したケースもいくつかある。学内規定に「最終的に学長選考委員会で学長を選任する」とある以上、訴えを起こしたところで勝訴する見込みは薄いが、何が基準で逆転したのかよくわからず納得がいかないという心情も理解できないこともない。学長選考過程において、構成員の意見を聞くプロセスがあることは重要であるが、そもそも学長として誰が望ましいのかについての情報を学内構成員は十分に持ち合わせていないし、不適の学長を選んだ責任を負うわけでもなく、最終的な判断が構成員の直接選挙に任されているという状態はやはりリスキーと言わざるを得ない。

ではどうすればよいのか。難しい問題だが、学長選任過程だけを議論するのではなく、候補者の発見・育成、選任、評価という一連のシステムの中で検討する必要があるだろう。具体的には、次の学長をどのように選ぶのかを議論する以前に、まず学長の評価をしっかり行うことが重要なのではないかと考えている。大学を運営するにあたり、学長はどのような貢献をしたのか、それはなぜできたのか、また十分に機能を果たせなかった点は何であり、何が原因だったのか。こういった問いについて、学長個人の能力・資質の問題としてだけでなく、理事会等の関係も含めた経営システムの問題として学内で検討することが意外と行われていないのではないか。この評価を行うことによって、どのような仕組みを整備すればよいのか、その中で学長に求められる能力や役割、さらには望ましい選任方法も明確にできる契機となるのではないだろうか。
http://www.shidaikyo.or.jp/riihe/research/arcadia/0468.html

2012年2月6日月曜日

財務省による予算執行調査結果2011

少し前になりますが、財務省による平成23年度の「予算執行調査」の結果が公表されています。

予算執行調査とは(財務省ホームページより)

財政資金の効率的・効果的な活用のためには、予算の「プラン(予算編成)」・「ドゥー(予算の執行)」・「チェック(評価・検証)」・「アクション(予算への反映)」のサイクルにおける「チェック」・「アクション」機能を強化し、予算へ的確にフィードバックすることが重要であるとの観点から、予算の更なる効率化に向けた取組みの一つとして実施しています。
予算執行調査とは、財務省主計局・全国の財務局の担当者が、事業の現場に赴き、実際に予算が効率的かつ効果的に執行されているかといった観点から行う調査であり、平成14年度から毎年実施しています。
調査事業については、例年4月に選定し、調査を開始。調査結果及び翌年度への予算への反映状況についても公表しています。
http://www.mof.go.jp/budget/topics/budget_execution_audit/sikkou_gaiyou.htm

このうち、国立大学法人関係では、「授業料減免」「電気料等」「特許等の管理状況」についての調査が行われています。概要は、以下のとおりですが、各国立大学法人は、調査の趣旨・結果等を踏まえ、適切に対応していくことが求められています。


1 国立大学における授業料減免

(調査の視点)

減免予算額と減免実績額の対比(減免予算額は減免実績額と比して適切な額となっているか)
授業料減免基準の改定状況等[家計基準・学力基準](法人化以降、各大学における減免基準の改定状況及び内容はどのようになっているか)
各大学における独自基準による授業料減免の実施状況(法人化以降、経済的理由・やむ得ない事情による減免以外の各大学独自の授業料減免の取組内容はどのようになっているか)

(今後の改善点・検討の方向性)

減免額全体でみれば、減免予算額以上の減免実績を確認できるが、大学ごとに比較すると、減免実績額が減免予算額を上回っていない大学が存在する。これは、授業料減免に係る予算配分が減免見込額を適正に捉えていないためであり、家計基準・学力基準の要件の適正化と併せ、過大な配分とならないようにしつつ、一方、予算超過の大学に対しては減免実績も考慮した予算配分を検討する必要がある。
法人化以降、86法人中55法人が減免基準の改定を実施し、また、47法人が独自の授業料減免に取り組んでおり、法人化以前の各大学における減免基準が統一されていたことからすると大きな変化がみられる。このことを踏まえ、家計基準・学力基準が公平かつ真に必要な者に重点化できるように、各大学の授業料減免への取組内容を勘案した予算配分についても見直す必要がある。
http://www.mof.go.jp/budget/topics/budget_execution_audit/fy2011/sy2401/2401b_10.pdf

(反映状況)

国立大学等の授業料その他の費用に関する省令第11条の趣旨に鑑みれば、国として支援する授業料免除の対象は、経済的理由等により修学が困難な者を第一に考えるべきと思料される。平成23年度及び平成24年度においては、経済的理由等により修学が困難な者に対する直近の減免実績(平成22年度)を上回る予算を措置済。
法人化以降、各大学では減免基準の改定に取り組んできている状況であるが、基準緩和においては自己収入で賄うことを原則とする一方、真に必要な学生に対しては重点化を行えるように、平成24年度予算では授業料減免枠を7.3%から8.3%に1.0%引上げを実施。
また、平成24年度予算では、従来の修学困難者への支援としての授業料減免に加え、大学の教育研究の活性化を図る観点等から、「卓越した学生に対する授業料減免」に係る予算を創設。
http://www.mof.go.jp/budget/topics/budget_execution_audit/fy2011/hanei/tyousa/10.pdf


2 独立行政法人及び国立大学法人等の電気料等

(調査の視点)

各法人の電力供給契約、電気使用状況、節電対策の実施状況等について、下記の調査を行い、更なる経費の削減が図れないか検討する。
契約電力、電力使用状況等
節電対策の取組状況
太陽光発電の導入状況

(今後の改善点・検討の方向性)

契約電力を超えた法人や契約電力の範囲内でも10%を超える乖離がある法人は、契約電力の設定に当たり、過去の電力使用状況や設備の更新状況等を十分に検討し、適切な契約とすることにより、経費の削減を図るべきである。また、契約後は、デマンドコントロール(使用電力の監視)を強化することにより、契約電力の範囲内での使用となるように努めるべきである。
設備等の更新時における高効率熱源機器や再生可能エネルギーによる発電設備等の導入については、費用対効果を勘案し、積極的に検討していくべきである。また、導入した設備等については適切な管理を行い、その効果が十分に発揮できるようにすべきである。
http://www.mof.go.jp/budget/topics/budget_execution_audit/fy2011/sy2401/2401b_53.pdf

(反映状況票)

過去の電力使用状況や設備の更新状況等を十分に検討し、適切な契約となるよう要請することより、経費の削減を図っていく。
http://www.mof.go.jp/budget/topics/budget_execution_audit/fy2011/hanei/tyousa/35.pdf


3 独立行政法人及び国立大学法人等の特許権等の管理状況

(調査の視点)

特許料等を支払い続けている特許権等の管理及び見直し状況等を調査し、定期的に見直し(継続又は放棄の判断)を行っているかどうかについて確認し、継続する必要がない特許権等については権利放棄することにより、特許料等の削減を図る。

(今後の改善点・検討の方向性)

特許料等の維持費のみが発生し、実施料収入がない特許権等については、今後も権利を維持する必要があるか見直しを行い、権利を維持する必要がないものについては権利放棄を行うことにより、特許料等の削減を図るべきである。
見直しを行うことは特許料等の削減に大きな効果があることから、特許権等の見直し基準等を定めていない73法人においては、見直し基準等を作成し、定期的に見直しを行い、特許料等の削減を図るべきである。
http://www.mof.go.jp/budget/topics/budget_execution_audit/fy2011/sy2401/2401b_54.pdf

(反映状況票)

特許権等の見直し基準等に基づき、定期的に見直しを行わせることにより、特許料等の削減を図っていく。
http://www.mof.go.jp/budget/topics/budget_execution_audit/fy2011/hanei/tyousa/35.pd

2012年2月3日金曜日

2012年2月2日木曜日

人を育てる(ドラッカー)

組織は人を変える。否応なしに変える。成長させもすれば、いじけさせたりもする。人格を形成させもすれば、破壊したりもする。

人を育てることについて、われわれは何を知っているか。かなりのことを知っている。特に、何を行うべきでないかについてよく知っている。行うべきでないことのほうが行うべきことよりもわかりやすい。したがって、ばかばかしい間違いは避けなければならない。

第一に、不得意なことで何かを行わせてはならない。学校は生徒のできないことに力を入れる。小学校四年生の三者面談では、「ジョニーは作文がうまい。もっと書かせましょう」とはいってくれない。「算数が弱いので九九をやらせてください」といわれる。

学校の場合はそれでよい。10年後、20年後のことはわからない。基礎を身につけさせ、はなはだしい弱みはなくさせなければならない。しかし、組織で人に働いてもらうには、弱みを気にすることなく強みを生かさなければならない。成人して働くようになった頃には、個性はできあがっている。礼儀、態度、スキル、知識は学ぶことができる。だが個性を変えることはできない。

第二に、近視眼的に育ててはならない。身につけさせるべきスキルはある。だが人を育てるということはそれ以上のことである。キャリアと人生に関わることである。仕事は人生の目標に合わせなければならない。

第三に、エリート扱いをしてはならない。かつて、新卒者から有望株を探すことがはやったことがある。私は1940年頃からいろいろな種類の組織から相談を受けている。私の経験によれば、23歳の有望株が45歳のばりばりになる保証はない。50歳で世界を舞台に活躍している者が、23の頃は薄ぼんやりした青年だったりする。逆に、ビジネススクールをトップで出た者が、6年後には早くも燃え尽きたりしている。

私が知っている中で、人を育てることがいちばん上手な人は、ある大きな教会の牧師である。彼の教会からは大勢のボランティアがリーダーとなって巣立っている。あるとき私はどうやっているのかと聞いてみた。

彼は、若い人たちには四種類の教師を用意してやっているという。第一に、導いてやる相談相手である。第二に、スキルを伸ばしてやる指導者である。第三に進歩を評価してやる評価者である。第四に励ましてやる激励者だという。

彼自身はそのうちどの役を果たしているのかと聞いたところ、「激励者だ。この役はトップにいる者にしかできない。失敗を経験させることが必要なだけに、この役がいちばん大事だと思う。人は失敗することによって育っていく。したがって倒れたとき助け起こしてやる者が要る。それが私だ」といっていた。


2012年2月1日水曜日

「自分だけ成績よければ」はダメ(土光敏夫)

ボクはね、人間関係の基本は、思いやりだと言っとるんだ。近隣に困っている人がいれば助け合う。これは人間の、言ってみれば根本だよ。

教育だってそうだ。周りと競争するのは結構だが、自分のことしか考えないような子どもにしてはいかん。ボクなんかも、橘学苑の校長として多少の教育の端っくれをやっているけれども、これは人間をつくるのが目的だからね。第一番に人間の関係というものを重視して教育しているんだ。自分だけ成績がよくなればいいんじゃなくて、みんなしてお互いに助け合っていくということをね。