2012年6月23日土曜日

黙祷 沖縄慰霊の日

今日(6月23日)、私たちは、戦後67年目の「沖縄慰霊の日」を迎えました。梅雨明けした沖縄では、最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園において、沖縄全戦没者追悼式が開かれ、参列者約5300人が冥福を祈りました。

67年前の今日、多くの住民を巻き込んだ悲惨な地上戦で旧日本軍の組織戦闘が終わりました。この戦いによって県民の約4分の1が犠牲になったとされています。あらためて犠牲者を悼み、平和を祈りましょう。

関連記事を二つほどご紹介します。


沖縄慰霊の日 島人の心に寄り添って(2012年6月23日 東京新聞)

激しい地上戦で約15万人の県民が犠牲となった沖縄。戦後は過酷な米軍支配を強いられ、復帰後も広大な米軍基地が残る。慰霊の日のきょうは県民の悲しみや苦しみ、怒りに寄り添う日としたい。

1945年6月23日、沖縄守備隊「第32軍」の司令官牛島満中将の自決で、日本軍の組織的戦闘は終結した。米軍の沖縄本島上陸から3カ月近く。餓死やマラリア感染死を含めて当時の人口の4分の1を失った事実が戦闘の苛烈さを物語る。

沖縄本島南部の糸満市摩文仁。最後の激戦地跡に造られた平和祈念公園できょう沖縄全戦没者追悼式が行われる。野田佳彦首相も参列し、あいさつする予定だ。首相はどんな言葉を発するのだろう。

戦争で肉親や仲間を失った悲しみ、かつての米軍支配に対する怒り、米軍基地と隣り合わせの生活を強いられる島人(しまんちゅ)(沖縄の人々)の苦しみに寄り添っているか。野田内閣のこれまでの沖縄政策を振り返ると、何とも心もとない。

米軍普天間飛行場(宜野湾市)の返還問題では、名護市辺野古への県内移設を「唯一有効な進め方である」との立場を変えない。

政府の環境影響評価書に対し、仲井真弘多知事が二度にわたって「事実上不可能」とする意見を出したにもかかわらず、だ。

いくら普天間返還のためとはいえ、在日米軍基地の74%が集中する沖縄県に新たな基地を造ることはさらに過重な負担を強いると、なぜ思いが至らないのか。

そればかりか、その普天間飛行場に米海兵隊は垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを配備する計画だという。実戦配備後も事故が相次ぎ、安全性が確立されたとはいえない危険な軍用機だ。
配備を追認する日本政府に、計画中止を求める沖縄県民の声はいつになったら届くのだろうか。

本土決戦に備える時間稼ぎの「捨て石」にされた沖縄。海軍司令官だった大田実少将は最後、海軍次官宛てにこう打電する。「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」

沖縄の日本復帰から40年を経ても、基地提供という日米安全保障条約上の義務を沖縄により多く負わせている現実は、政府も本土の私たちも沖縄への心配りを欠いてきたことを示すのではないか。

慰霊の日は、犠牲者への哀悼と同時に、日本国民が沖縄の人たちに同胞として寄り添ってきたといえるのか、問い直す日でもある。


復帰40年目の沖縄から見えるもの(2012年6月21日 NHK解説委員室ブログ)

今年は沖縄が本土に復帰して40年目の節目の年になります。また今月は6月23日の「沖縄慰霊の日」をまじかにひかえて沖縄県民にとって、この時期はいろいろな意味で「もの思う季節」であります。

沖縄俳句歳時記には「沖縄忌」という季語がありますが、沖縄忌というのは6月23日慰霊の日のことです。毎年6月になると新聞の俳句や短歌の欄に「沖縄忌」を詠んだ作品がたくさん発表されます。

私の心に残る作品の一つに、

生きのびて何をなし得し沖縄忌  知念広径

という俳句があります。私もわずかながら沖縄戦を記憶している最年少者の一人として、毎年6月がくると「あの戦争を生きのびてきた自分は死んだ人たちのためにどれだけの努力をしてきたのだろう」という反省の思いに駆られます。

アジア太平洋戦争の末期、1945年の夏、沖縄では、[鉄の暴風]といわれた激しい地上戦が3ヶ月以上も続いたあげく、日米併せて24万人の尊い命が奪われました。そのうちの約15万人、県人口の4人に一人が「地獄の戦場」に倒れました。私たち沖縄県民のほとんどは戦争犠牲者の遺族といって過言ではありません。

摩文仁岬の平和祈念公園の「平和の礎」には敵味方区別なく24万人余の戦没者の名前が刻まれています。6月23日には朝早くからたくさんの遺族や関係者が訪れて香華をたむけます。私も年中行事のように「平和の礎」に足をはこんで物思いにふけるのですが、「これほどの戦争犠牲者のためにこの国はどれだけの償いをしてきたのだろう」と考えこんでしまいます。

日本政府は、「戦後処理」として戦没者の遺族の経済的援護や慰霊祭などの精神的援護を行ってきました。とくに沖縄県では戦没者の遺骨収集と不発弾の処理は大きな戦後処理の継続事業として取り組まれています。遺骨収集だけでもあと40年、不発弾の処理にはあと80年はかかるといわれています。

ところで、沖縄にはもっと大きな戦後処理の課題が残っていることを忘れてはなりません。日本政府はこのことにはあまり触れたがりませんが、いま問題になっている普天間飛行場をはじめとする沖縄の米軍基地のほとんどは67年前の沖縄作戦で米軍が日本軍から奪い取った作戦基地であったという事実です。つまり、現在の沖縄の米軍基地の中心部は沖縄戦の負の遺産だということです。

ここで現在問題になっている沖縄の米軍基地の原点を確認しておきたいと思います。

私は、沖縄戦の特徴を次の五項目にまとめてみました。

第一に、沖縄作戦は日本軍にとって本土防衛のための時間稼ぎの捨て石作戦であった こと。

第二に、時間をかせぐために、陸・海・空における全面的な特攻作戦を展開して、住民をまきこんでの、長い激しい地上戦闘になったこと。

第三に、沖縄守備軍は現地自給方針のもとに一般住民まで根こそぎ動員して戦闘に参 加させた結果、軍人をはるかに上まわる住民犠牲をだしたこと。

第四に、軍民混在の戦場で、集団自決やスパイ狩りや食糧強奪、壕追い出しなど、日本軍と住民のあいだに忌まわしい事件が発生し住民犠牲をより悲劇的にしたこと。

第五に、沖縄を全面的に占領した米軍は南西諸島を日本本土から行政分離して、次な る作戦に備えて巨大な軍事基地を建設し、今なお占領状態が続いていること。

以上のように、現在の沖縄の米軍基地は、沖縄戦の負の遺産であって、戦後進駐軍によって建設された本土の米軍施設などとは違うのです。沖縄作戦で米軍が日本軍から奪い取った軍事基地がいまなお存在し機能しているということです。普天間飛行場だけではありません。極東最大の戦略空軍基地である嘉手納基地、ホワイトビーチ軍港、伊江島、国頭の訓練場、さらには沖縄本島周辺の海上射爆訓練場等々、沖縄全域で昼夜かまわず戦闘訓練の爆音をまき散らしているのです。

これらの米軍基地は、はじめは日本の軍国主義化を押さえ込む抑止力という名目で駐留を続けていたのですが、やがて朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン・イラク戦争などと、たえまなくつづく米軍のアジアにおける軍事行動の発進基地・補給基地・訓練基地として利用され続けたのです。

このような軍事植民地といった状態は40年前の本土復帰によってもほとんど変わりませんでした。それどころか、日本政府は日米安保条約をもちだして米軍の沖縄基地の継続使用を認め、思いやり予算までつけて米軍基地の維持・強化につとめているありさまです。

40年前の本土復帰は、米軍支配下の沖縄住民がねばりつよく島ぐるみの復帰運動を続けてきた成果でした。沖縄住民は米軍のきびしい圧力に抗しながらも一丸となって「核も基地もない平和な沖縄を返せ」と叫びつづけました。しかし、72年5月、ようやく悲願の本土復帰が実現したとき多くの県民は失望しました。日米沖縄返還協定は、27年におよぶ異民族支配から脱却して「平和憲法の下の平和な島」に生まれ変わろうとする百万県民の期待を無惨にも裏切ったのでした。

あれから40年目の慰霊の日を迎えました。今年は「平和の礎」の24万人の死者たちの前で、「基地の島・沖縄」のこの現状をなんと説明していいか心が重くなってきます。

しかし、これはわれわれ沖縄だけの問題でしょうか。「普天間」に象徴される現在の基地問題を「沖縄問題」だけに終わらしてよいものでしょうか。

戦争で傷つけられたこの小さな島で、国民が他国の軍事基地の重圧のもとで、米兵犯罪や爆音被害などで苦しみ続けている異常な状態を、「抑止力」という名の下に「甘受せよ」と押し付けてくるような国を国際社会ははたして一人前の主権国家として尊敬し信頼するでしょうか。この国が140万県民の悲願である「核も基地もない平和な沖縄」を一日もはやく実現させ、国際社会において信頼され尊敬されるような地位を獲得することを願ってやみません。