2012年7月27日金曜日

大学の“学校化”

教育評論家の梨戸茂史さんが書かれた「教育ななめ読み-学校化」(文部科学教育通信 No296  2012.7.23)を抜粋してご紹介します。


本来、大学は「学問」を「教授」する場と考えられてきたはず。ところが今や、中央政府である文部科学省は、大学の「単位」制度の在り方を強調し、勉学時間の確保を強く勧める。

もともと、学校化という用語は、近代が生み出してきた制度に対する批判として用いられてきた。イヴァン・イリイチの『脱学校論』で唱えられた思想で、「学習は本来、自発的・自立的に行うことができる活動であるのに、学校はそれを『教わる』という他律的な活動に還元してしまう」と言う(今井康雄編『教育思想史』有斐閣)。

最近の大学を見ると、その教育が “学校化”しているように思える現象がいろいろ目に付く。

例えば、異様に高い授業への出席率(それ自体は喜ばしいが少しヘン?)。板書が読みにくかったり略語を使えば「読めマセーン」の大合唱(聞いてないのか!と言いたい)。「教科書のどこに書いてますか?」と質問(教科書通りに教えないと文句が出る)。強く言わないと宿題もしないし課題を出さないと勉強しない(学習文化が解体しているし、学習意欲を含む勉学姿勢を含む全般的な意欲が低下)。簡単に言えば、大学がどんどん専門学校化、いや高校化している。大学教員の研究すら、ほとんどが、「授業研究」。すなわち、基礎学力が不足している学生に何をどのように教えたらいいのか?やる気のない学生のモチベーションをどのようにあげたらいいのか? などなど。「とほほ」の現象だらけ。

その原因は、第一に、大学生の学力がかなり落ちたこと。学力だけでなく「やる気」のない学生も増えた。第二に、それと同時に学生の精神年齢も低下している。第三には、文部科学省が大学に対して、学士力(大学生として当然身につけるべき学力)を保証し、それを証明する大量の書類を提出せよなどというようなことを要求していることと関係していそうだ。教員も政府も、大「学生」を「高校生」だと思っている?(確かに、昔は、ひどい授業も多かった。休講の方が多かったり、研究が大事、学生を教育しようなんてこれっぽっちも思っていない先生も少なくなかったから、そこに回帰するのは間違いではあろう)。

さらに、「出席原理主義」は、毎回授業の出席カードに先生から受講生全員にコメントを記すことの義務づけや、欠席した学生には授業後に電話をいれなければならないところまで進行する。IT時代になったので、学生証がICカードになり、それを壁の機器の前にかざすことで出席の登録が行われ、一定時間が過ぎれば「遅刻」が記録される。教室を出る時は、もう一度、機器に触れると、退席が記録。(うっかり早く授業を終わろうものなら、教員の熱意が疑われそうで、怖い・・・。ここまでIT化しているのに、半面、学生への連絡は昔ながらの「掲示板」での掲載しかないというのだから時代遅れだ)。

確かに、いかにおしゃべりさせずに話を聞かせるか? どうやって興味をもたせるか? という教育技術的な工夫をしている方々は少なくないだろう。でもそれは枝葉的なもの。本質はやはり『授業の内容、教師の人間的魅力』そして、『授業で話される研究の面白さ』でしょう。それこそ、大学の醍醐味。研究と教育の二本の柱を持つ大学教育ではないか。

「教育(授業)優先」が進み過ぎると、この先、優れた授業やその方法をマニュアル化する方向になるかもしれない。そのうち、小・中・高校のように、「指導計画」「指導案」を毎回書いて提出せよとなるのか? 文科省様、ちょっとやり過ぎでは?