2012年11月15日木曜日

教員としての真の力量を高めるためには

文教ニュース・文部科学時評(平成24年11月5日、第2213号)に掲載された「教員養成の修士レベル化」をご紹介します。


8月末に中央教育審議会から「教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について」と題する答申が出され、これを具体化するための議論が始まっている。答申が打ち出した「学び続ける教員像」や「教育委員会と大学との連携・協働」の理念は、今後の学校や教員のあり方を考えれば理に通った方向性であると思う。

議論が分かれるのは、教員養成の修士レベル化だろう。一部に批判もあるが、学校現場に山積する諸課題の幅広さと対応の難しさ、各種資格の高学歴化や諸外国の動向などを考えれば、養成期間の延長は自然な流れだと思う。それに大学の教員養成系のお寒い内情を見ると、失礼ながら学部四年間だけをいくら改革しても実効が上がるかどうか。

反対意見で多いのは「大学院で学ぶより、早く現場に出て実践力を鍛えるべき」という声だ。一理あるが、これでは今と変わらない。それでは不十分だからこそ見直すのではないか。教育活動は多様で複雑であり、不登校児への対応一つをとってみても、本人や家庭・学校の状況によって大きく異なってくる。いわゆる暗黙知の比重が高く、単純なマニュアルは通じない。それゆえ教員としての真の力量を高めるためには、経験を積むだけでなく、それらを通じて本質的な要素を一般化・普遍化し、理論的に深化させる営みが必要になる。経験則だけでなく理論に裏打ちされた実践を伴ってこそ、初めて高い視点から備轍して多様で複雑な課題に効果的に対処できるのではなかろうか。

だが、こうした営みは、多忙を極める現場に席を置いたままでは難しい。退職校長を雇用して新人教員を個別に指導すれば相応の効果も期待できようが、慌ただしい現場にあっては目の前の問題への対応に追われ、自らの実践を振り返る余裕は殆どないはずだ。多忙な日常から切り離され、学びを深めることのできる時間と空間が必要である。

そのような学びに相応しい場が大学院ではないか。ともすると現実の課題とかけ離れた研究に陥りがちな従来の“アカデミックな“ 大学院とは一線を画し、「理論と実践の架橋」を目指す教職大学院こそ、その中核として期待される。現に兵庫教育大学や福井大学などの教職大学院は意欲的な取組を進めており、教員採用実績でも成果を挙げている。

これからは教員養成の場が大学院か学校現場かという二元論ではなく、答申が示すように大学と教育委員会が連携し、さらには地域の教育力も広く結集して、社会全体で教員を育てていく環境を醸成の構築していくことが不可欠である。学位と直結した「修士化」ではなく、多様な学修を含めて「修士レベル化」としているのもそれゆえだろう。

とは言え、一部に定員割れがあるなど教職大学院にも課題は少なくない。文部科学省は、まず有識者会議で教職大学院の設置基準やカリキュラムのあり方を具体的に示し、ここでどのような力が付くのかを早急に明らかにすべきである。それによって教職大学院が教員志望者の有力なキャリアパスになり、教育委員会も現職派遣を積極的に考えるようになるだろう。設置に二の足を踏んできた大学の前向きな検討も促されよう。この課題には政権がどうなろうとも、ぶれずに腰を据えて取り組んでほしい。