2012年11月23日金曜日

大学改革を困難にしているものは何か(1)

黒木登志夫(日本学術振興会学術システム研究センター相談役、前岐阜大学長・名誉教授、東京大学名誉教授)さんが書かれた「大学は自らの力で改革できるか」(IDE-現代の高等教育 No.545 2012年11月号)を抜粋してご紹介します。


カリフォルニア大学の名学長といわれたクラーク.カー(Clark Kerr. 1911-2003)は、大学改革が困難であることを嘆いて、次のように言ったという。

「大学を改革するのは、墓地の移転と同じで、内発的な力に頼ることはできない」。

確かに、改革の必要性が繰り返し言われながら、大学の改革は遅々として進んでいない。大学に期待している政府、行政、財界のいらだちも分からないわけではない。しかし、正直な話、ガバナンスに一番問題があるのは、国会であり、政治家ではなかろうか。「政局」と「選挙区」という一字違いの二つの「キョク」にしか関心のない政治家が、国会という墓場の改革に取り組むなど期待できない。しかしこの問題にはこれ以上触れないでおこう。

カーが言うように、大学のガバナンスが一向に変わらないのは、大学の内部に改革への意欲がないためであるのは事実だが、同時に、それを困難にしているシステムがあるのも確かである。ここでは、それらの問題を、私なりの観点で考察してみたい。

1 文科省・大学の相互依存関係から抜け出せるか

大崎仁(元文化庁長官)著『国立大学法人の形成』は、国立大学法人化についての正史とも言うべき内容である。この本の中で、法人化によって、大学が「法人格」を獲得したことが繰り返し強調されている。「法人格」とは、権利義務が法律によって保証されていることを意味している。すなわち、国立大学は、一つの独立した存在として法律的に認められたことになる。法人化前、国立大学は、文科省の一地方組織に過ぎなかったことを考えれば、これは大きな進展である。

問題は、法人格の獲得を、文科省、大学の双方がどの程度認識し、実行しているかである。少なくとも、国立大学法人の発足当時は、多くの大学、学長たちには、文科省に対して新たな関係を樹立しようという意気込みがあったし、事実、文科省と緊張関係になったことも少なくない。『落下傘学長奮闘記』(中公新書ラクレ、2009)にも書いたように、私はそのような立場から、文科省に対しても、大学内部に対しても率直な意見を述べてきた。しかし、法人化の第二期に入ったあたりから、文科省、大学はともに、「お互いが依存し合う心地よい関係」に戻ってしまったように思えてならない。

法人格を獲得したといっても、予算を握られている以上、最後には政府の言うことを聞かねばならないことが少なくない。そのよい例が、今回の国家公務員の給料カットであった。独立した法人である以上、必ずしも従う必要はないのだが、結局、国立大学は給与カットを受け入れざるを得なかった。それでも、病院経営を考えて、医療職の一部の給与を据え置くことができたのは、法人になったことのせめても証しであった。

最近、東大は全学秋入学という思い切った方針を打ち出した。国際化の一環として、文科省は、秋入学の拡大を推進していたが、せいぜい大学院の一部にとどまっていた。それを、全学の学部、大学院まで徹底するというのである。これは、法人化後、大学が自らの判断で行った最大の決断であろう。

法人化されても、文科省による規制は続いている。大崎仁氏も指摘しているように、「理解しがたいような学生定員管理の厳しさ」もその一つである。社会の価値観が変わり、少子化が進む今日、大学は社会の要望に応え、あるいは先取りして、教育を変えていかねばならない。しかし、少しでも学生定員に変更を加えようとすると、文科省の認可が必要となる。

そもそも、概算要求の交渉にも、大学と文科省のなれ合いが見られる。企画段階では、教員が理念に基づき立案したにもかかわらず、肝心の大学・文科省間の交渉段階になると、大学の事務官と文科省の事務官の間の交渉になる。文科省を通ると、今度は、文科省と財務省との交渉となる。教員は説明に行くこともできず、透明性も、公開性もない中で、大事なことが決まってしまうのだ。

2 国立大学は外に開かれているか

国立大学法人法は、社会から孤立した「象牙の塔」の反省から、外に開かれた運営を一つの目的として制度設計された。理事、監事、経営協議会、学長選考会議に外部委員を加えることが明記された。

私は、岐阜大学学長を辞めてから、二つの国立大学の経営協議会委員となったが、外部委員は、大学内部の問題に余計な口出しをする「よそもの」として必ずしも歓迎されていないようだ。しかし、われわれは、大学から一歩離れた立場で、どうしたらよい大学にできるか一所懸命考えている。外部委員は、外に開かれた窓口であると同時に、大学にとっては「サポーター」なのだ。

学内の教員たちは、学長選考会議を無力化し、学内の「選挙」だけで学長を選出するべきであると主張する。それでは、学長選考に外部の意見が入らないことになる。「意向投票」を行ったとしても、法人法にしたがい、それを一つの参考資料として、学長選考会議が主体的に選考すべきであると主張しても聞き入れてもらえない。

法人法は、理事に外部委員を含めなければならないと明確に規定している。しかし、私の調べたところでは、33.7%(30/89)の大学(大学院大学、共同利用機関を含む)で、移動官職である事務局のトップ(事務局長など)を「外部理事」として参加させ、それ以外の人を外から入れなくてもすむような体制をとっている(2012年9月現在)。移動官職は、任命時には外(文科省)の人間かもしれないが、常識的には内部の人間である。法の精神にそぐわないといわざるを得ない。

外部の意見を聞く制度を軽視し、時には排除し、その一方で文科省にすり寄っているのでは、法人化前に戻ったのも同然ではなかろうか。(続く)