2012年11月24日土曜日

大学改革を困難にしているものは何か(2)

前回に続き、黒木登志夫(日本学術振興会学術システム研究センター相談役、前岐阜大学長・名誉教授、東京大学名誉教授)さんが書かれた「大学は自らの力で改革できるか」(IDE-現代の高等教育 No.545 2012年11月号)を抜粋してご紹介します。



3 戦略的な予算と人事が実行されているか

私は、法人化の最大のメリットは、運営交付金に積算根拠がなくなった(つまり「袋」でくる)ことと、非公務員化により定員制がなくなったことだと思っている。「袋」でくる予算は、大学が自らの判断で戦略的に使える。しかし、その額が年々減っているため、戦略よりも大学を維持するのがやっとというのが現状である。これ以上予算が減ったときには、大学は教職員をカットし、組織を「リストラ」するという困難な決断を迫られることになりかねない。そのような状況に備えるためには、大学教職員が危機感を共有し、部局よりも大学全体のガバナンスを考え、教育と研究の質を維持しなければならない。同時に、文科省も、様々な規制,たとえば上述したような予算と学生定員に関する規制を緩和し、迫りつつある困難な状況に、大学自らの考えで対応できるようにしなければならない。

そもそもの問題は、教育予算が一方的に減額され続けていることである。国が財政的に困難な状況にあることは十分に理解しているが、財務当局は、高等教育に対するグランドデザインを明らかにすべきである。われわれは、将来に対する展望をもてないのでいるのだ。

法人化前、非公務員化が問題になったとき、私にはその是非が判断できなかった。しかし、法人化してすぐに、非公務員化は定員制の廃止につながることを理解した。そのようななかで考えたのが「ポイント制」である。すなわち、教授100ポイント、准教授78ポイント、講師73ポイント、肋数60ポイントとし、定員の代わりに、ポイント数を各部局に割り当てるのである。

「ポイント制」は、全国の大学に普及しつつある。しかし、「ポイント制」により、承継職員定員以上に教職員数が増えたときには、退職金が手当てできなくなるのではないかと危惧するあまり実行できない大学もあると聞く。私の理解するところでは、大学の職員には背番号がついているのではなく、人数に見合った「座布団」が積まれているだけである。したがって、たとえ人数が増えても退職金が出なくなるような状況にはならないはずである。

私がプログラム・ディレクターを務めている「世界トップレベル研究拠点(WPI)」は、大学の運営制度改革も目的としている。その一つが、教員の雇用を複数の機関でシェアする”joint appointment”あるいは”split appointment”“といわれている制度である。東大Kavli IPMUの拠点長は東大とUC Berkeleyとの間で、九大12CNERの拠点長は九大とイリノイ大学間で、エフォートに応じて給与を分担できるようになった。東大では、この制度を、国内の研究機関間、さらには大学内にも展開しようと進めており、事実、可能になったいくつかの例がある。

法人化以前から承継した教職員は終身雇用である。一方、外国の大学の多くでは、あるレベルに達したと評価されると、ポジションが保証されたテニュア(tenure)制度を導入している。テニュアには評価を伴うため、大学の活性化につながるはずである。文科省が進めている「テニュアトラック」制度は、若手研究者登用の道を開くと同時に、大学当局に承継職員の終身雇用、テニュアについて考え直す機会を与えたのではなかろうか。

4 大学は部局、教授会支配から抜け出されるか

私が学長のとき、監事は、教職員の意識についても調査し報告してくれた。監事報告には次のようなことが指摘されていた。
  • 法人化に伴う教員の意識改革が十分に浸透していない。
  • 学部意識が強く、教授会決定がすべてという法人化前の意識が根強く残っている。
  • 教授会が大学全体の改革にブレーキをかける場合がある。
  • 学長のリーダーシップにより、学部の自治が侵されるという被害者意識をなくす必要がある。

まさに監事の指摘の通りだと思う。もとより、部局は大学の重要な構成単位であり、教育と研究の現場である。その運営のために教授会を置くことが学校教育法で定められている。したがつて、部局の意見は基本的には尊重されるべきである。しかし、教授会決定を部局の自治の盾とし、部局の利害を第一に考えて行動されたのでは、大学全体としてのガバナンスなどできないことになる。学長裁量予算とポジションを作っても、その使用には部局が目を光らせ、学長に勝手に使わせないようにする。

教員一人一人が、それぞれに物事に応対し、異なる意見を持ち、束縛されず自由に発言できるのは大学の最大の長所であると、正直思う。それは、学問の自由の一つの反映でもある。しかし、ぞれぞれの意見を尊重し、原点に戻って議論するために、民主的ではあるが、なかなか物事を決められないことになる。

私が学長の時、いくつも改革案を学部に対し提案し続けた。しかし、改革を受け入れるかどうかは、学部、特に学部長によって大きく異なった。学部長が代わって初めて実行できた改革も少なくない。特に、工学部のような大きな学部では、「学科の自治」が主張され、学部長は学科間の調整役になってしまっている。

教授会のメンバーである教員も、改革を進めようとすると手強い相手である。英語教育について、たとえばTOEICなどの検定を導入しようとしたとき、反対したのは英語担当の教員であった。教養教育についても担当している教員の反対で手がつけられない。入試改革として過去間活用宣言への参加を他大学に呼びかけたが、入試を担当している教員、入試担当職員の反対で参加できないという大学が多かった。もちろん、彼らの意見にも一理がないわけではない。しかし、その多くの意見には、大局観がないように思う。

墓場の移転と同じで、大学改革には内部の力が頼れないと嘆いた、カーの気持ちがよく理解できる。(続く)