2012年12月11日火曜日

設置認可の在り方

日本経済新聞社編集委員の横山晋一郎さんがIDE「取材ノートから」(2012年12月号)に書かれた論考を抜粋してご紹介します。


真紀子大臣と設置認可

原稿締め切り間際に、呆れたニュースが飛び込んできた。11月2日、田中真紀子文部科学相が、大学設置・学校法人審議会の答申を覆して来春開校予定の秋田公立美術、札幌保健医療、岡崎女子の三大学の新設を認可しないと言い出したのだ。しかも四年制大学が約800もあることを指摘して「教育の質が低下している」と語り、当面は大学新設を認めず、委員の大半を大学関係者が占める設置審の在り方など設置認可制度を抜本的に見直すとした。

突然の“政治決断”に波紋が広がった。何の瑕疵もないのに不認可とされた三大学は一斉に撤回を要求、私大団体も批判の狼煙をあげた。与野党を巻き込む政治問題に発展する中で、大臣は6日「新基準で再審査」へと方針転換を図ったが、7日には与野党の調整に押し切られて「現行制度で審査」と表明せざるを得なくなり、8日に正式認可した。

田中氏の文科相起用に「また騒動を起こすのではないか」と危惧する声が多かったが、まさにその通りの展開。騒動に巻き込まれた三大学はとんだ災難である。大臣に振り回され放しの文科官僚も気の毒だった。職を賭してでも大臣の暴走を食い止めようという気骨のある官僚はいなかったのかとも思うが、それだけ“真紀子パワー”は強烈だったということか。

とはいえ、騒動を「大臣の暴走」で片付けてしまうことには違和感が残る。確かに三大学の不認可は無茶苦茶だし、「認可前に建物を建て、教員も採用している」との批判は設置認可制度の理解不足を自ら暴露した。そうした点は大いに批判されるべきだが、一方で今の設置認可行政に疑問を抱く人は少なくないからだ。

最たるものは、18歳人口が減少を続け私大の四割が定員割れを起こしているのに、四年制大学が増え続けていることだろう。新設から数年で、募集停止に追い込まれた大学すらある。中央教育審議会が「質の保証」を声高に指摘しなければならないほど、大学教育への信頼は揺らいでいる。それでも大学は増え続ける。大学界が社会の常識と乖離していると言わざるを得ない。

これは、設置審委員の大半を大学関係者が占めることと無縁ではあるまい。中央官庁の審議会は、役所と関係が深い“学識経験者”で構成され、官僚主導の政策立案の隠れ蓑になっていると指摘されて久しい。昨年の原発事故では、業界・役所・学者で作る「原子力ムラ」の実態が浮き彫りになった。「学」が同時に「業」でもある「大学ムラ」では、関係はさらに濃密である。よほど意識して大学の外にある意見を取り込む仕組みを作らないと、大学の論理だけが通ってしまう。大臣が提起した委員構成の問題は的外れとは思えない。

ただ、大学の数が多いからと、単純に新規参入を禁じればすむ問題でもない。設置認可の規制緩和は、小泉内閣時代に「事前規制から事後チェックへ」という流れの中で、認証評価とセットで導入された。だが、事後チェックが機能していないのは、大学教育の質が問われる現状を見れば明白だ。

こうした中で新規参入を制限すれば、どうなるか。既存大学が喜ぶだけだ。大学であることが既得権益化し、改革の情熱をそいでしまう。大学の質向上に重要なのは、事後チェックの徹底化ではないか。内実の伴わない大学は退場させるルールを確立した上で、進取の精神に富む挑戦的な大学の参入を促し、大学界に新風を呼び込む。それにはまず、各大学が一層の教育改革を進め、評価制度の実効性も高めた上で、教育の中身について情報公開を徹底させる。その際、退場を決めるのは受験生や保護者、卒業生を採用する企業などの社会であって、行政でないことは言うまでもない。

社会が違和感を抱くのは、大学の数の多さではなく、質が伴わない(あるいは、伴わないように見える)大学の多さなのだ。問題がある大学が減って質の高い大学が増えるのならば、総数が増えても誰も文句を言わない。大臣は設置審の在り方を見直す検討会を立ち上げる方針というが、拙速は避けて高等教育政策全体を俯瞰した設置認可行政への転換策を根本から検討するべきだろう。