2013年7月31日水曜日

大切な日本の精神

NHK解説委員室ブログから、羽衣国際大学准教授のにしゃんたさんが書かれたおかげさまで」(2013年7月22日)をご紹介します。


はじめまして、にしゃんた、と申します。今日皆さんの前でお話する御縁を頂いたことに心より厚く御礼を申し上げます。

私はスリランカ出身です。生まれたのは、国の真ん中らへんにある、キャンディーという街。実は、街そのものが世界遺産でもあります。

ここには、お釈迦さんの歯を祀る「仏歯寺」というお寺があったり、毎年8月には、何百頭という象さんが、綺麗なおべべを着て、優雅に道を練り歩くペラヘラ祭なんかも有名です。

私たち小さい時は、牛さんが引っ張る、牛車に乗って学校通ってました。学校行く時は、道端で沢山の象さんに会いまして、象を数えるのが日課でした。子どもの間には奇数の象さんに会うと良いことが起きて、偶数に会うと悪いことが起きる。そんなジンクスがありました。ですから学校で先生に怒られた時なんかは自分が悪いんじゃなくて象さんの数のせいだと思っていました。

そんな私が日本を最初に知るきっかけになったのは、小学校の教科書。「日本からの手紙」という一章がありました。内容は、お父さんに付いて日本にやって来たスリランカ人のお嬢さんが、国の友達宛てに、日本の様子を書いた手紙です。そこには日本人は、お箸でご飯を食べるんだとか、日本人はみんな忙しそうに生活しているんだとか、書いてあるような面白い文章でした。次、中学生になると、ちょうどスリランカにテレビが流行る時でして、丁度そこに「おしん」が放送されました。おしんは、人気でした。なんでかというと、おしんの中で映る日本と当時のスリランカが似てました。物はないのだけれども、笑顔絶やさず、一生懸命に前向きに生きている姿が「同じだね」と親近感をもって日本を見てました。

しばらくすると、また新しい日本の象徴がスリランカにやって来ました。それは、日本の中古車。スリランカ人は最初戸惑いました。というのも、「おしん」の映像には車のくの字も出てこない。とても同じ国とは思えない。でもどうやら同じだと解った瞬間、スリランカでは、日本人気が爆発しました。「あの貧しい日本が車を作れるようになった。私たちも頑張れば日本のようになれる」と。私にとってその機会がまさに、親近感を覚えていた日本が、夢を与えてくれる国に変った瞬間でした。

その後、ボーイスカウトのスリランカ代表として日本を訪れる機会に恵まれ、日本への思いがいっそう強くなりました。

そんな憧れの国、日本に留学したいと言ったら、親父が家を担保に入れてお金を作ってくれました。お金を握りしめて片道切符で日本に来たのは、1988年、私が18歳の時です。スリランカから持ってきたお金は、向こうでは大金でも日本のお金に替えたら7万円にしかなりませんでした。日本語学校の最初の月謝にも足りない。そこで最初に寝泊りをさせてくれた滋賀県大津市坂本の青木さんが、足りない2万円を貸してくれて、学校までの定期代も払ってくれました。

日本に着いてすぐに冬を迎えます。私は常夏のスリランカで生まれ育ったので、日本にはセーターなんかもちろん持って来てないんです。薄着で寒そうな格好の私を見た周りの日本人たちが、風邪をひかせまいと、セーターをかき集めに奔走してくれた。そしてあくる日には4畳半の自分の部屋の半分がセーターの山になってました。セーターは暖かく、風邪一つひくこともなく、冬を乗り越えることができました。

日本語学校の先生は、授業終わった後も時間を惜しまず教えてくれて、日本に来て1年で日本語能力試験一級にも合格出来ました。日本語学校での2年間は、温泉街で布団の上げ下ろしと、お風呂掃除のアルバイト。大学に進んでからは、住み込みで、朝夕の新聞配達と折り込み作業しました。歯医者の小森先生は虫歯を、接骨院の井上先生も怪我を出世払いで直してくれました。

その後、大学院に進んで、経済学の博士号をもらいました。日本で学んだことを、最初は国へもって帰ろうと思っていましたが、そのまま日本に残り、今は日本の次の世代に教えています。来日20年で日本の国籍も頂きました。その後に、福井出身の千恵さんが結婚してくれて、2人の可愛い子供も産んでくれました。

スリランカから日本に来た私は今、小さい時から恋い焦がれていたこの国の国民になっています。26年間住んでも1日たりとも、この国に飽きたことがない。自分でも不思議なぐらい。きっと根っからこの国が好きなんだと思います。自分の実力とは思えない、目に見えるもの、見えないものによって生かされていることを強く感じます。そんな今の有り難い毎日、ここに来るまでの過程も合わせて一言で総括すると、それは「おかげさまで」ということになります。

日本に来たばかりのころは発音がわからず、「おかげさま」という言葉をはっきりと聞き取れるようになったのは、大学時代。住んでいた嵐山のアパートの、窓から覗けるとこに住んでいたお婆ちゃんが、毎朝庭に出ては太陽を見上げ「お天道さん、おかげさまで今日も元気で迎えることが出来ました。今日もよろしゅー頼みます」と手を合せていました。当時の私には、彼女の言動はすごく不気味で仕方がなかった。でも今はもちろん大好きな日本語の一つです。

私は今、京都を拠点に生活をしています。京都は、日本を学ぶ格好の教科書で、この街をとても気に入っています。何百年も続くようなお店なんかもざらにあって、主人に教えを請うと、知らなかったら、意地になってでも調べて、教えてもくれます。日本文化の坩堝と言われるだけあって、この街もまた「おかげさま」と「感謝」の気持ちで満ちています。

あの時、嵐山で太陽に崇めていたお母さんを思い出します。この年になって、いつの間にか太陽に感謝する自分になっていることに気付きます。太陽に向かって「おかげさまで」と手を合わせることはまだないですが、それも時間の問題のような気もします。

嬉しいこと、良いことだけではなくて、理不尽なことや悪いことも、受け入れる大らかさ、周りの関係を大事に思う気持ち、謙虚さ、感謝する気持ちなどを全て束ねるこの「おかげさまで」こそ、私が学んだ、便利で、面白くて、そして最も大切な日本の精神なんです。今の日本が蓄積してきているこの強さ、優しさ、しなやかさ、美しさ、そして豊かさが、この「おかげさま」精神の賜物ではないでしょうか。これは日本の最大の無形文化遺産でもあります。

世界的に食うか食われるかの価値観が蔓延っている時代だからこそ、是非、究極の平和論でもある「おかげさまで」を世界中の人にも広めてほしい。さらにはそんな激動の時代だからこそ、日本を背負い立つ若い世代にも、「おかげさまで」を大いに活用しながら育ち、今度また、たくさんの方に「おかげさまで」と言われるような生き方を歩んで頂きたい。

今日も、おかげさまで、このような形で皆さんの前でお話するご縁を頂いたことに厚く御礼を申し上げます。本当に有難うございます。