2014年5月28日水曜日

文章作法の基本

山本眞一さん(桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授)が書かれた「「コピペ」と研究倫理~許されない理由とは」(文部科学教育通信 No.339 2014.5.12)をご紹介します。


コピーは書き写すこと

私は30歳代の終わりの頃、家族を連れて一年間米国に滞在し、現地の生活を経験したことがある。用務は、文部省(当時)と人事交流をしていた連邦政府のNSF(国立科学財団)の客員研究員として、米国の学術政策や大学の研究活動について調査を行うことであった。首都ワシントンの郊外、バージニア州のアナンデールという地区に住宅を借り、隣近所の付き合いから、ショッピング、学校のことなど、生活者ならではのさまざまな見聞ができたことはなかなか貴重な経験であった。

小学校三年生だった息子は、現地の小学校に入れた。彼の地では日本人のための補習学校はあったが、日本人学校のようにフルタイムで生徒を受け入れる学校がなかったからである。

ただ、その学校では英語が母国語でない生徒のためにESL(English as a Second Language)というクラスが開講されていて、息子もその授業に出ることになった。

最初の日、教師は英語で書かれたテキストを示しつつ、「これをコピーしなさい」と言ったそうであるが、息子は大いに困惑したという。彼はコピーと言われたので辺りを見回したが、どこにもコピー機らしきものが見当たらなかったからである。しかし程なく、日本語の世界における語感とは異なり、英語でいうCopyとは文章を書き写すことだということが分かった。つまり、テキストを手本にしてその文章を自分のノートに写しなさいと教師は指示したのであった。

手本を書き写すということは、日本でも米国でも、学習過程の基本である。とくに型を重視する日本の教育では必須のことであろう。私自身も、数字やかな、そして漢字を学ぶために、特別なノートに薄く印刷されたそれらの文字を鉛筆でなぞりながら何度も練習した記憶がある。文字だけではない。学習過程において、他人が書いた文章を書き写すことも、また学習者のためになると一般的に信じられている。ある新聞社のコラムが大学入試(国語)によく採用されるからとして、そのコラムを書き写したり、さらには高齢者のボケ防止に役立つからとして、それを書き写すための専用のノートまで売られていたりということが、そのような事実の一端を示している。

書き写しからの卒業

ただし、書き写すという行為はあくまで学習の初期段階で推奨されるものであって、やがてはそこから卒業して自分で自分の文章を書かなければならない。少なくとも人に見せる文章であるならば、他人の文章の丸写しは単に笑われるだけでは済まず、剽窃などとしてときには大きな問題になり、本人の職業人生に大きなダメージを与えることになる。大学生には、文章作法の基本としてこのことをしっかりと教え込まなければならない。

しかしながら、授業で学生にレポートを課すと、ウェブ上にある各種の情報をコピーし、これを文書ファイル中に貼り付けて(ペースト)編集し、平然と教師に提出する学生が増えていると聞く。いわゆる「コピペ」である。教師の方も、多人数の授業であればあるほど、いちいちチェックする時間が不足し、うすうす気がついていても、打つ手がないというのが実情のようだ。インターネットの急速な発達は、人々の生活に数多くの恩恵をもたらす一方、このような形で新たな問題を深刻化させつつある。ただし、修士論文・博士論文のレベルになるとさすがに放置はできないので、最近はウェブ上の文章のコピペを見破るコンピュータ・ソフトを導入する大学が増えているそうだ。

また、最近は論文剽窃ではないかという指摘が、外部から大学や研究機関に寄せられるケースが増え、このことによって問題案件が多くなっているのではないかと思うが、それもインターネット自体の普及に加えて、このようなソフトが普及しつつある証拠であろう。私の勤務校においても、最近、会議の席上、これを導入する方針を事務担当者から聞いたばかりである。

コピペが悪い理由

このような事態になっているのは、大学教師の立場からすれば、まことに残念なことであるが、学生がコピペを悪いことだと思わない(どこか最近のニュースでも聞いたことのある言葉だ)のであれば、これを悪いと認識させるよう大学側の組織的な対応が必要になるのもやむを得ない。なぜコピペが悪いのか?

それは第一に他人の文章を無断でコピーしこれを利用することは、他人の著作権を侵害する違法行為であるからだ。著作権が容易に侵害されるようであれば、原著作者の創作意欲を大いに殺ぎ、結果としてその社会の文化水準を低めることになってしまうであろう。著作権を大切にすることは、著作権者の利益を守るだけではなく、著作物が適法に利用されることによって、社会全体の文化水準を向上させる効果を持つものである、ということを人々に認識させなければならない。とくに学位論文を書こうという学生は、これからの社会をさまざまな分野でリードしていくべき人材であるから、彼らに対するこの面での教育は非常に重要である。

第二に他人の文章を無断で利用することは、学術研究のオリジナリティーを損なう行為であり、研究活動の尊厳を損ない、研究倫理に反し、また科学研究の不正行為の一つとして厳しく指弾されるものだからである。過去のさまざまな出来事からも、そしてごく最近の話題からも分かるように、他人の論文の無断借用すなわち論文盗用などを理由に、大学教員の地位を失ったり、研究者生命を絶たれたりする事例は数多く存在している。

しかし一向に後を絶たないのは、例えば研究費獲得を巡る競争の熾烈化、業績確保への強い動機、さらには同業者間の人間関係など、さまざまな理由があるからだと言われている。ただし、そのような理由は、コピペという行為をいささかも正当化することにはならない。中堅以上の研究者には強い倫理観を、そして若い研究者には厳しい教育を施すことが必要な所以である。

研究上の不正行為を防ぐ

コピペが研究倫理上、許されるものでないことは、多くの学会における倫理規程にも反映されている。私が関与している日本高等教育学会においても、2012年の総会において「日本高等教育学会倫理規程」が採択された。それによると、学会構成員に求められる倫理として、専門性、誠実性の追求などの基本原則に加え、研究活動については「データの収集、記録・保存、利用におけるねつ造、改ざん、盗用などの不正行為を行わず、それらへの加担もしないこと」とあり、コピペを含む不正行為を戒めている。けだし当然のことを述べたに過ぎないのであるが、このような倫理項目を挙げなければならないほど、現実の研究環境には厳しいものがあると言えるのであろう。

それにしても、研究者や研究者予備軍に求められるのは、オリジナルな文章作成能力である。私も職業柄、多くの大学院生のレポートや論文を読む機会があるが、たとえ正当な手続きを経た引用においても、長々とこれを示し、それにコメントをつけるようなスタイルのレポートは、なぜか気の抜けたビールのような印象があって、訴える力に弱い。多少稚拙でも自分の考えや分析結果を前面に出し、これを補強するために他人の論文を控えめに引用するというスタイルの方が、はるかに質の良さを感じるものである。

なお、コピペは前述のように研究上の不正行為の一つである。その他の類を含め不正行為の全体像については、いずれ稿を改めて論じてみたい。


※このブログにおける多くのご紹介記事は、ある意味では剽窃に近いものかもしれませんね・・・。