2014年7月24日木曜日

大学のガバナンスと教授会権限

桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれた学校教育法の改正と大学ガバナンスへの影響」(文部科学教育通信 No343 2014-7-14)をご紹介します。(下線は拙者)


身近に感じた教授会万能意識

私は、筑波大学と広島大学とを合わせて20年間にわたり国立大学に勤務したが、その間、センター長という管理職を15年間務めた。その間にはさまざまな気づきがあったが、若手教員の意識と私のそれとの微妙な差異があったのも一例である。彼らに文書を起案させると、発信者について、私なら「○○センター長」と書くところを「○○センター」と書きたがる。また、私なら「教員会議申し合わせ」とするところをすぐに「教員会議決定」とする傾向がある。おそらく彼らには、意思決定の権限・責任の所在が管理職ではなく教員集団にあるという前提があり、これが無意識のうちに行動に出てくるのだと思う。彼らの多くは大学院生以来ずっと大学にいて、外の社会を知らない。したがって、組織の論理はすなわち大学内の論理であり、その大学内の論理に教授会万能的発想が染み付いているのは、ある意味でやむを得ないのである。彼らの行動を制約するのは、学長や学部長など縦のラインではなく、教授会に代表される横のつながりであることがよく分かる。

その教授会万能と深い関係を有するわが国の大学自治の原型は、戦前、帝国大学で起きた二つの事件にあるとされている。その一つは、東京帝国大学における戸水事件である。日露戦争当時に対ロシア強硬論を唱え続けた戸水寛人法科大学教授に対して行われた休職処分が、帝国大学総長の申出なしに行われたため、学問の自由、大学の独立を侵すものとして全学の教授が激しく抗議し、その結果、戸水教授は復職、これに関わった文部大臣と総長が辞職した。二つ目は、京都帝国大学における澤柳事件で、1913年、澤柳総長が7人の教授に対して不適任であるとの理由で辞表の提出を求め依願免官とした処分に対し、同大学の他の教授らが教授会の同意を得ていない等の理由で激しく抗議、その結果、総長は辞職、文部省は教官の任免について総長がその職権の運用上、教授会と協定するのは差し支えなく妥当である、との意見を発表した。これらにより、教員人事に限らず、大学の内部管理における教授会の優位性が確立したとされる。(以上は大崎仁著『大学改革1945~1999』による。)

制度に裏付けられた教授会

この教授会を核とする大学自治の慣行は、その後、滝川事件(1933)、平賀粛学(1943)などによって危機に瀕したこともあり、また戦後大学改革の中で米国流の大学管理運営制度の導入が試みられたこともあったが、学校教育法の中で、教授会の必置と重要事項の審議機能が法定され、さらに国公立大学については、教育公務員特例法の制定により、教員人事手続きに関する教授会等の関与が定められるなどの中で、多くの大学に受け継がれることになった。1960年代後半に全国を吹き荒れた大学紛争の嵐の中で、教授会の権威はかなり傷ついたが、それでも1990年代大学改革が始まるまでの問、教授会による部局自治は学長のリーダーシップを上回る勢いで、大学の管理運営の中心の座を占めていた。私がまだ文部省にいたとき、ある国立大学の学長が「教特法がすべての問題の原因だ」と会議の席でつぶやいたのを今でも覚えている。

その教育公務員特例法は、2004年の法人化に伴い国立大学には適用されなくなり、それでも当初はその精神が大学運営には受け継がれると理解され、そして現に国立大学法人法においても、学長自身の任命は法人からの申出に基づき文科大臣が行うことに変わりはないのだが、近年の文科省の説明では「学長・学部長の選考や教員の採用等の手続は、任命権者としての学長が自由に整備できることとなった」ということだから、これに深く関わってきた教授会の権限は大幅に制約されることになった(本誌No333、山本記事参照)。学長のリーダーシップの確立が、近年の大学改革の重要キーワードだと考えれば、その点では論理一貫していることが見て取れる。

さて先月、国会において学校教育法の一部改正を含む法律改正が行われた。このうち教授会に関する学校教育法上の規定は、従来「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない」(同法第93条第一項)とのみあったのを、二項新設し、教授会は教育研究に関する重要な事項で、学生の入学、卒業、課程の修了、学位の授与は必ず、それ以外は「学長が教授会の意見を聴くことが必要であると認めるもの」に限り、学長が決定を行うに当たり意見を述べるものとする(改正後の同条第二項)とし、このほか学長や学部長等がつかさどる教育研究に関する事項について審議し、及び学長や学部長等の求めに応じ、意見を述べることができる(改正後の同条第三項)と限定している。

随所に見られる合議制

ここからうかがえることは、学校教育法や国立大学法人法に定められた学長の権限、すなわち法律用語で言うならば「独任制」的意思決定メカニズムを維持・強化することに最大限の配慮をする一方、実質的に「合議制」的意思決定メカニズムの中に位置づけられていた教授会の権限をできるだけ縮小しようという政策意図である。ただ、それが当初の意図通りに動くものかどうかは分からない。それは、たとえ独任制的意思決定であっても、現実には多くの合議制的意思決定すなわち各種の会議体の力を借りなければ動かないことは、自民党、内閣、文科省などの政治・行政の意思決定の仕組みを見ても明白であるからだ。今回の法律改正においても、教育再生実行会議や中教審大学分科会など、大学界の重鎮を巻き込んだ審議が必要不可欠であったことを思い起こすべきである。

産業界においても、コーポレート・ガバナンスは社長の独裁ではなく、取締役会、監事、株主総会の役割が大きく、またそういう配慮をするのが優良企業の証しである。ましてさまざまな学問分野の専門家である教授らを動かすには、その専門職にふさわしい扱いをしなければコトが運ばないのは明白である。教授会は学長・学部長の意思決定のブレーキ役であると同時に、気ままな教授たちを動員し大学の活動を円滑に行うための重要な道具立てでもあるのだ。さらに言うなら、私立学校法では学校法人の意思決定機関は理事会であるとされ、理事長ですらその職務執行に際し理事会の監督を受ける(同法第36条)。このような合議による意思決定と国立大学を主として想定した今回の法改正とは、どこでどのように調整されるのであろうか

改正法は来年4月に施行される。教授会の扱いは、当面は各大学の実情に応じてなされるべきであろう。私立大学の中には、教授会が「審議決定」するという規定がある大学もある。また、教授会という名前は止めるが「教学会議」とか「大学委員会」などの名目で、現在と変らない扱いをする大学もあるかも知れない。それに政策当局はどう対処するつもりであろうか。いつものように行政調査を行って、改正法の趣旨に合わない教授会運営を指弾することになるのだろうか。また認証評価のシステムを通じて統一を図ろうとするのであろうか。さらにはどこかの教育委員会に倣って「教授会における採決禁止」のように珍妙な通達を考えているのだろうか。これらは、いずれも世界の一流高等教育入りを目指すわが国にとって得策ではない。もし、世界大学ランキングにおいて「教員・研究者の専門職としての立場を尊重しているか」などの評価項目が入ったらどうするつもりであろうか。関係者の冷静な判断を望むところである。