2014年10月19日日曜日

「思考停止」は卵の「殻」

IDE:現代の高等教育(2014年7月号)から、「みんなと同じ」をご紹介します。

先日ある学会の討論の場で、一人の国立大学教員が「最近の学生は思考停止している」と発言した。討論やグループワークを盛り込んだ授業でそれなりに「考えている顔」は見せるが、話を聞いてみると考えていないことがわかる、そもそも考えるという習慣が身についていないのではないか-という指摘に、ともにテーブルを囲む40人ぐらいの大学教職員は、なるほど、と大きくうなずいていた。

その光景を見ながら、東日本大震災の被災地、福島県の農村で出会った一人の大学院生の女性の姿を思い浮かべた。

早朝からひどい雨で、時々、雪も混じる寒い日だった。彼女は、教員や後輩の学生と一緒に、レインコートに長靴といういでたちで畑に座り込み、土や枯れた農作物を採取したり、土中の水分に含まれる化学物質を調べたりの作業に追われていた。

セシウムを吸収しない栽培法を研究し、原発事故で農業を再開できない農家の人たちを助けたい。その思いで2年以上、毎月、貯金を取り崩しながら通っているのだという。

顔も手も泥だらけになるのもいとわず、思いを語る姿に感銘を受け、その活動を書かせてもらいたいと話した。快諾してくれた。

ところが後日、彼女に電話をし、明日の紙面で記事が掲載されることを伝えたところ、意外な一言が返ってきた。

「私の年齢だけは書かないで」

大学に入るまでに2年浪人しているが、そのことは友だちや研究室の仲間にすら明かしていないというのだ。「修士1年で25歳は、おかしいじゃないですか」。電話の向こうの声は必死だった。

「おかしい」-その言葉が耳に残った。毎月被災地に通い、泥だらけになりながら調査を続けるという、だれにでもできるわけではない尊い活動を続けながら、なぜ、みんなと同じでいたいと望むのか。

「同じでいたい」は、言ってみれば思考停止だ。自ら考え、判断し、行動することは不要で、隣の人のふるまいをまねればいいだけ、そこには思考は働かない。

だがもしかすると、私たちはそれが当たり前の世界に生きているのかもしれない。何しろ、年齢で「すべきこと」が決められているのだから。6歳に始まる義務教育、その後は高校に進み、18歳で大学に入る。3年生になったら就職活動を始め、就職する。女性の場合はさらに、30歳になるまでに結婚し、出産し……。

「みんなと同じ」であることが大事とし、思考を停止させることは、子ども時代は、いじわるな級友から身を守り、先生から目をつけられないための隠れ蓑になる。出る杭は打たれる。決められたありようから外れることは、痛い目に遭う覚悟を伴うのだ。

だから、頭では彼女の言葉を理解できた。と同時に、胸が締め付けられる思いだった。浪人していた2年間を隠していて友だちと話が合っただろうか。何とか整合性が合うように、ずいぶんつらい思いもしたのではないか。

そう考えつつも、老婆心が邪魔をし、電話の向こうにいる彼女に、「それでいいのですか」と問いかけてみた。浪人の2年間は、人に言えない無意味な時間だったのか、この先もやはり○歳になったからこうしなければならない、で自分の人生を自分で縛っていくのだろうか、もったいないのではないかと。

彼女はしばらく考え、2年間にさまざまな人と出会い、自分の生き方に影響を及ぼしたこと、大学ではさらに多様な出会いがあり、年齢を言えない自分を苦しく思っていたことを、一気呵成に話し始めた。

小一時間も話しただろうか。彼女は「年齢を新聞に出してほしい。明日の新聞を、自分が変わった記念にとっておきたい」と言い切った。

今どきの学生を席巻するという「思考停止」はひょっとしたら、卵の「殻」かもしれない。じっくり考えて自分の意見を練り上げていくことは「みんなと同じ」でいることを許さず、息苦しい。今は、片時もスマホを手放さず、人とつながっているのが安全だ。だが、それを守る殻の中でヒナは成長し、外に出て翼を広げる時を待っている……。

その成長を促し、どう大きく育てるか。電話一本で殻にひびが入った大学院生と違って難しいが、やはり大学は面白い。