2014年10月21日火曜日

学会とは「知的闘争の場」

IDE:現代の高等教育(2014年8-9月号)から、「学会のマナー」をご紹介します。


6月末に開かれた高等教育学会を覗いて、とても気になる場面があった。2時間の自由研究発表で、5人の発表があった。持ち時間は1人20分、15分で発表を終え、5分の質疑応答。100分で5人全員の発表を終えた後に、20分の総括討論を経て終了というスケジュールである。

旬のテーマだったので、初日の朝一番の発表にしては傍聴者も多く、それぞれの発表もそれなりに聞き応えのある内容だった。ただ、決められた15分で発表を終え、その後の質疑に応じた発表者は1人のみで、他の4人は20分全部を発表に使ってしまい、質疑に回す時間がなくなった。傍聴者は最後の総括討論まで、4人に質問をしたり議論する機会はなく、総括討論も時間不足なまま尻切れトンボの印象だった。

さすがに、司会者も気になったのだろう。「あえて、発言者に苦言を呈するが、研究発表は講演会ではない。研究成果を発表し議論をして、それを元にさらに研究を進めていく場だ」。こんな趣旨の注意をしていた。

実は、過去にも、教育社会学会で似たような体験をしたことがある。発表を終えた大学院生が、「用事があるから」と言って、総括討論に残らず、退出してしまったのだ。

前回のことも思い出しながら、改めて学会発表とは何なのだろうかと考えた。他の学会の事情はよく知らないが、高等教育学会では本人が申請すれば、中身の出来不出来にかかわらず発表の機会が与えられる。

だからこそ、発表の後の議論は重要だ。発表者の問題設定は適切なのか、分析手法に問題はないのか、得られた結論は正しいのか……。傍聴者と議論を闘わす中で、研究の質が問われ、磨かれて、そこから次の研究への道標が得られる。自説を言い放しで終わるのならば、個人のプログや政見放送と似たようなレベルといわれても仕方ない。

確かに、伝えたいことがたくさんあるのに、与えられた時間が少ないという悩みは理解できる。だが、研究者同士で壮絶な知的ファイトを展開する場面がなくなったら、学会の意味はない。

こんな事を知り合いの研究者と話していたら、「最近は業績評価が厳しいので、とにかく学会発表をやりたがる傾向がある」「学会費を払っているのだから研究発表は権利だと考える若手もいる」などという自虐的つぶやきを聞いた。もちろん、このことだけで、学会全般を論じるつもりはない。ただ、もしも学会が「知的闘争の場」という緊張感を失ったら、学問の自由が危機に晒される事だけは間違いないと思う。