2014年11月10日月曜日

大学は何のためにあるのか

大学に行く理由」(2014年10月31日日経ビジネス)をご紹介します。


数日前、ツイッター上に流れてきた一連の資料が、タイムラインの話題をさらった。

内容は、このようなものだ。

この中で、論者は、日本の大学を「Gの世界」(グローバル経済圏)に対応した「G型(グローバル型大学)大学」と、「Lの世界」(ローカル経済圏)に対応した「L型(ローカル型)大学」という二つのコースに分離させるプランを提示しているわけなのだが、特にツイッター上の人々の注目を引いたのは、7ページ目に出てくる図表だ。

この図表は、「L型大学で学ぶべき内容(例)」として、以下のような実例を挙げている。

※文学・英文学部→「シェイクスピア、文学概論」→ではなく→「観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の名所説明力

※経済・経営学部→「マイケル・ポーター、戦略論」→ではなく→「簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方」

※法学部→「憲法、刑法」→ではなく→「道路交通法、大型第二種免許・大型特殊第二免許の取得」

※工学部→「機械力学、流体力学」→ではなく→「TOYOTAで使われている最新鋭の工作機械の使い方」

いかがだろうか。

私は、一瞥して、アタマがくらくらした。

大学に通う人間が、シェイクスピアや、憲法や、物理数学の基礎理論の講義をすっ飛ばして、観光英語の習得にはげみ、会計ソフトの使い方に血道をあげ、工作機械の操作法を身につけねばならないのだとすると、そのキャンパスでは、いったいどんな会話がかわされるものなのだろうか。

「おまえ2限のTOYOTAアセンブリーラインカンバンしぐさ心得、単位とれそうか?」

「てゆーかASAKUSAおもてなしイングリッシュ必須700カンバセーションがキツ過ぎてそれどころじゃない」

「それより、イケてるパワポプレゼンでクライアントもメロメロさ講座が〆切間近だぞ」 

いや、このお話(L型大学の話)が出てきたのが新橋の居酒屋のカウンターで、熱をこめて語っているのが、そこいらへんの田舎コンサルのオヤジであったのなら、私とて、適当な相槌を打っておくにやぶさかではない。

事実、

「学問なんてものは学者さんがやればいいことで、オレら市井の男たちには関係ないよな?」

てなことを主張してる中小企業の管理職はヤマほどいるわけだし、正直な話をすれば、私自身、その彼らの主張にまったく理がないとも思っていない。

でも、これは、文科省経由で出てきているお話だ。

お話の出どころは、「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」という、文科省が招集している歴とした審議会である。

ちなみに、先の資料は、その「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」の第1回の会合(平成26年10月7日開催)の折りに配布された資料のうちのひとつで、経営コンサルタント冨山和彦氏の手になるものだ(こちら→「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議(第1回) 配付資料」の「資料4」)。

ということはつまり、天下の文部科学省が招集した会議で、こういう内容の資料が配られていることになるわけで、てなことになると、私もさすがに、国家百年の未来を、懸念せずにはおれないのである。

お国のトップが、新橋の酔っぱらいがクダを巻くみたいな調子で、お国の将来を背負って立つ次世代の若者たちの教育計画を立案しにかかっているんだとしたら、それこそ一大事ではないか。

というよりも、これは、大学教育破壊計画と言えないだろうか。

このお話には伏線がある。

というよりも、エリート教育と産業用人材の育成を分離して考える計画自体は、自民党内および経済界の中に古くからわだかまっていた、いわば保守本流の思想なのであって、いまさら私がびっくりしてみせているのは、実はカマトトぶりっこなのである。

2000年の7月、前・教育課程審議会会長であった小説家の三浦朱門氏は、斎藤貴男氏の質問に対して以下のように答えている。

《学力低下は予測しうる不安というか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。落ちこぼれの手間ひまをかけたせいでエリートが育たなかった。だから日本はこんな体たらくなんだ。つまり、できんものはできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺をあげることにばかり注いできた労力を、できるものを限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。》(出典は『機会不平等』斉藤貴男著、文芸春秋)

それ以前にも、たとえば、1995年の7月に、経済同友会副代表幹事だった桜井正光氏が、さる私立大学の学生生活指導担当者の研修会で、こう述べている。

《--略-- 現時点で必要な人材を、その人材が要求する金額で採るとなれば契約社員のような形になって、これだけでも新卒一斉採用は崩れるしかないのです。あとはロボットと末端の労働力ですが、賃金にこれほどの差があるのでは、申し訳ないけれど東南アジアの労働力を使うことになるでしょう。》

こうして文字にしてしまうと、どうにも冷血かつ野卑な奴隷監察官の台詞じみて聞こえるかもしれないが、実際のところ、こうした考えは、わが国の良民常民の中で営々と受け継がれてきたド真ん中の思想だったわけで、少なくとも私の両親の世代の庶民は、おおむね、こんな調子だった。

私なども、おそらく古い親戚の間では、大学を出たおかげで生意気になった小僧ぐらいに思われいてるはずだ。

たいした学問がついたわけでもないし、博士か大臣になったわけでもない。なのに口ばっかり達者になって、法事や墓参りを億劫がるのは、親が見栄を張って大学なんかに行かせたせいだ、と、そう考えている旧世代が、まだそのへんに生き残っている。だから面倒だというのだ。

つまり、「学問なんてものは、学者がやっていればいい」と考える層は、依然として、うちの国のコア層なのである。

なにより、安倍首相ご自身が、そうおっしゃっている(こちら→「平成26年5月6日 OECD閣僚理事会 安倍内閣総理大臣基調演説」)。

今年の5月に開催されたOECDの閣僚理事会の席で、世界中のVIPを前に安倍首相は

「だからこそ、私は、教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています」

と言い切っている。演説の全文は、いまでも官邸のウェブサイトに残っている。

もう一度よく読んでみてほしい。安倍さんは

「学術研究を深めるのではなくて」

と、あきらかに言ってしまっている。

ということは、一見、素っ頓狂な勇み足に見えた一コンサルタントの提案は、実に、首相の意を受けた(あるいは「忖度した」)プランだったのであり、彼の言う、L型、G型という安物の商品企画みたいなプランニングは、この先、本当に実現してしまうかもしれないのである。

なんということだろう。

安倍首相ならびに文科省は、大学の機能のうちの研究・教育機関としての部分はコストパフォーマンスが良くないという理由から、最上級のノーベル賞候補育成の部分だけ残して解体してしまいたいのかもしれない。

でもって、偏差値トップ校以外の普通の大学は、ホワイトカラー育成牧場みたいなもの改造する、と。

このプレゼン資料の中に底流している「劣った者がローカルにとどまり、優れたものがグローバルに羽ばたく」という思想は、文科省が出してくるあらゆるプランに通底している。のみならず、安倍首相ならびにその応援団である財界人がことあるごとに繰り返している日本改造計画の基本スキームでもある。

が、実際のところ、「グローバル」と「ローカル」を分かつものは、必ずしも「優劣」ではない。

英語のテストで優れた成績を残した生徒が海外に留学する例はもちろんあるし、同じジャンルの工業製品のうち、最も高い売上を記録した優良ブランドだけが海外に輸出されるという局面もある。

が、元来、「ローカル」と「グローバル」は、「地場のもの」と「国際市場向けのもの」を峻別するための暫定的な指標に過ぎない。

両者の間にある違いは、優劣ではない。

どちらかと言えば、「換金性」(金に換算できる性質)や、「普遍性」が、「グローバル」の条件であり、逆に「ローカル」にとどまるものは、「個別的」で「独特」で「換金不能」な物件ということになる。

たとえば、鮒寿司や納豆やある種の萌えコンテンツや、留め袖や文楽のようなものは、どうしても「ローカル」にとどまる。劣っているからではない。独自で、文化的で、翻訳困難で、換金性が低いからだ。

対して、電気カミソリや、USBメモリや、小麦粉や、忍者ソードは、グローバルな市場に出て、海外の顧客を相手にするようになる。単に優れているからではない。平明で、普遍的で、市場的で、換金性が高く、移動に好適だからだ。

もうひとつ大切なポイントは、「グローバル」「ローカル」というこの二区分法が、元来、商品を評価するための指標だということだ。

であるから、企業や、商品や、ビジネス上の慣習や、市場や価格について語るにおいて、「G型」と「L型」の区分けは不可欠であるのだろうし、また、商品に限って言うなら、「Gの世界」と「Lの世界」の間には、基本的な「優劣」の差があるとも言える。

しかし、「人間」「学問」「教育」「文化」「国民生活」といった「カネに換算できない諸価値」について、「グローバル」「ローカル」の二区分法を当てはめてしまうと、GとLの物語は、いかにも乱暴な話になってしまう。

ついでに言えば、「劣った者がローカルにとどまり、優れた者がグローバルではばたく」という文科省の発想の前提は、そのまんま植民地商人の精神性そのものであり、大学を卒業した人間に「G」と「L」の焼き印を押して区別しようとする態度は、ほとんど奴隷商人のやりざまと言って良い。

エリート教育についてもひとこと言っておく。

安倍さんは、裾野も山腹も無しに、頂上だけで山が作れると思っている。

いや、安倍さんが何を考えているのか、本当のところはわからない。

でも、こっちから見ていると、そう思っているように見える。

そう見えてしまうところが、つまりは、あの人の教養の乏しさなのだと思う。

とすると、大学のキャンパスというのは、長い目でものを見ることのできる人間を育てる空間だったわけで、安倍さんはそこでしくじったから、大学を壊そうとしているのかもしれない。

建前論を言うなら、大学は、そもそも産業戦士を育成するための機関ではない。

労働力商品の単価を上げるための放牧場でもない。

「じゃあ、何のための場所なんだ?」

と尋ねられると、しばし口ごもってしまうわけなのだが、勇気を持って私の考えを言おう。

大学というのは、そこに通ったことを生涯思い出しながら暮らす人間が、その人生を幸福に生きて行くための方法を見つけ出すための場所だ。

きれいごとだと言う人もいるだろう。

が、われわれは、「夢」や「希望」や「きれいごと」のためにカネを支払っている。

なにも、売られて行くためにワゴンに乗りにいくわけではない。

最後に、これは、森田真生さんという独立数学者がその「数学ブックトーク」というイベントの中で紹介していたお話の受け売りなのだが、安倍首相のためにあえて引用することにする。

いまは、誰もが知り、誰もが使い、すべての産業の基礎を作り替えつつあるデジタルコンピュータは、20世紀の半ばより少し前の時代に、ごく限られた人間の頭の中で、純粋に理論的な存在として構想された、あくまでも理論的なマシンだった。

「もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育」というところから最も遠く、実用と換金性において最弱の学問と見なされていた数理論理学の研究者であったチューリングやノイマンの業績)の研究が、20世紀から21世紀の世界の前提をひっくり返す発明を産んだのである。

なんと、素敵な話ではないか。

目先の実用性や、四半期単位の収益性や見返りを追いかける仕事は、株価に右往左往する経営者がやれば良いことだ。

大学ならびに研究者の皆さんには、もっと志の高い、もっと社会のニーズから離れた、もっと夢のような学術研究に注力していただきたい。

採算は度外視して良い。

大学は、そこに通った人間が、通ったことを懐かしむためにある場所だ。

本人が通ったことを後悔していないのなら、その時点で採算はとれている。