2014年12月3日水曜日

できなかった親孝行

母への思いが変わった瞬間(きょうも傍聴席にいます)」(2014年11月18日朝日新聞)をご紹介します。


やせ細っていく、優しかった母。息子は1人で介護を続けた。体力がなくなってきたからか、母は入浴や食事を嫌がり始めた。2人で孤立するなか、息子の心配は、いつしかいら立ちに変わり、そして、暴力へとつながっていった。

東京地裁の715号法廷。10月28日、中野雅昭被告(39)は初公判に、緑色のネクタイをしめ、スーツ姿で現れた。母親に暴力を振るい、死なせたとして傷害致死罪に問われた。裁判員らの視線が集まるなか、緊張した面持ちを見せた。

検察側の冒頭陳述などから、事件をたどる。

中野被告は両親とともに、東京都中野区のマンションで暮らしていた。高校卒業後、スーパーで11年間勤務。だが、上司のパワハラを理由に辞職した。その後、別のスーパーで働いたが、5年前からは無職だった。

父親は15年前に他界。以来、母のれい子さん(当時64)と、2人で生活してきた。定職につかない息子を、母が責めることはなかった。「自分のやりたいことが見つかるまで、待っていいよ」。そう言って、見守ってくれていた。

一方で、れい子さんは骨粗鬆症(こつそしょうしょう)を発症。2011年から入退院を繰り返し、次第にやせ細っていった。

ほぼ毎日の通院には、中野被告が付き添った。食事は中野被告が用意したが、レトルト食品やスーパーの総菜が多かったという。

事件の1年前。れい子さんは雪で滑って、大腿(だいたい)骨を骨折してしまった。入浴やトイレも、1人では難しくなった。時折、尿や便を漏らすこともあったが、中野被告が下着などを手洗いした。

いつも寄り添う2人の姿を、マンションの住民がたびたび見かけている。

被告人質問。

弁護人「1人で介護をするのは、負担だったのでは」

被告「正直、負担でした。でも、仕方のないことだと思っていました」

小さな声で、こうも言った。

被告「とても優しい母でした」

なぜ、暴力が始まったのか。きっかけは、事件のほぼ半月前だ。

被告「1月13日です。おかゆを用意したが、母が食べず、顔を、平手打ちしてしまいました」

弁護人「なぜ暴力を」

被告「朝の『打ち合わせ』で、食べると言っていた。約束を守らなかったので、カッとなってしまいました」

人付き合いが苦手だった2人は、毎朝、れい子さんが集めていたキューピーの人形をそれぞれが持って、人形劇のように「打ち合わせ」をしていた。

ご飯を食べるか、散歩に行くか、お風呂に入るか。

心配性できちょうめんだった中野被告は、打ち合わせで決まったことを守ろうとした。だが、れい子さんは次第に、打ち合わせに反して、「食べない」「しんどいから風呂には入らない」と言うようになった。

被告「日に日に弱っていく母を見て、疲れていました」

「母のため」を思い、食事や入浴の準備をした。だが、応じてもらえない。「打ち合わせ」で決めたことも守ってもらえず、ストレスがたまっていった――。中野被告はそう説明した。

3~4日に一度、れい子さんに暴力を振るうようになった。

そして、1月29日。

中野被告は、れい子さんのためにレトルト食品のおかゆをあたためた。だが、れい子さんは「食べない」。カッとなって、顔をたたいた。

夜、風呂場に連れて行ったが、「しんどいからやめとく」。

布団が敷いてあった台所まで戻って、寝かせた。だが、怒りは収まらなかった。背中を強く蹴った。何回蹴ったか、覚えていない。

れい子さんは、「うぅ」と小さなうめき声を上げた。中野被告は心配になり、「ごめんね、大丈夫?」と聞いた。「大丈夫」。小さな声が返ってきたという。

自分を鎮めるため、中野被告は自室にこもった。10分ほど経ったころか。心配になり、様子を見に行った。れい子さんは薄目を開けたまま、動かなかった。慌てて119番通報したが、病院で死亡が確認された。

検察官「暴力を振るったとき、申し訳ない、とは思わなかったのか」

被告「そのときは、怒りの方が勝ってしまいました」

検察官の口調が、さらに強くなった。

検察官「暴力を振るったのは、あなたの感情によるもの。やむにやまれず、という状況ではない」

被告「……、感情任せの、短絡的な行動でした」

れい子さんは、生活の一部で支援が必要な「要支援1」に認定されていた。だが、デイサービスなどは利用していなかった。

検察官「なぜ、利用しなかったのか」

被告「母とも相談したのですが、人とコミュニケーションをとることが苦手で。人を家に入れることも、極端に嫌がった」

裁判員も質問した。

裁判員「自分1人で介護を続けることは難しい、と思ったことは?」

被告「ありました。でも、自分でやれることはやろうと思いました」

検察側は論告で、「やせ細った母親への暴力がいかに危険か、被告は認識していた」とし、懲役5年を求刑した。

弁護側は、執行猶予付きの判決を求めた。「現代の社会を反映した事件で、暴力行為は偶発的なもの。深く反省している」

最終意見陳述で、中野被告は用意してきた文書を読み上げた。

被告「母に対して本当に申し訳ない。人として、やってはいけないことをしてしまった。今更ですが、親孝行できなかったのが悔やまれます」

判決は10月31日に言い渡された。懲役3年の実刑判決だった。

最後に、裁判長が「裁判員、裁判官からあなたに伝えたいことがあります」と切り出した。

裁判長「被告はきまじめで優しく、きちんとした勤務もしてきたが、社会性の乏しさから不幸な事件につながった。お母さんの死という重大な結果について、さらに反省を深めてほしい。お母さんも、1人できちんと社会生活を送ることを望んでいると思います」

中野被告は、うなだれたまま聴き入っていた。