2015年9月27日日曜日

社会から支持される大学であるためには(1)

下村文部科学大臣が、新国立競技場の整備計画が白紙撤回されるに至った一連の混乱の責任を取り、9月25日に辞任を表明しました。しかし、安倍首相から慰留を受け、10月の内閣改造までは続投するようです。まさに「10月改造を事実上の引責とし、誰も深手を負わない茶番劇」(報道)です。

計画の白紙撤回により、多くの時間と税金の無駄を生み、あげくには国際的な信用を失墜した責任は極めて重大であるにも関わらず、遅きに失した今回の無責任な対応は、納得のできるものではありません。

さて、その下村大臣がこれまで力を入れてきた政策の一つが「国立大学改革」でした。

文部科学省が、国立大学の第三期中期目標・中期計画の策定に当たって、全国立大学に対し留意を求めるため6月に発出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」と題する通知を巡って、大きな論争が巻き起こりました。

問題となったのは、この通知の中に書かれた組織の見直しに関わる記述『「ミッションの再定義」で明らかにされた各大学の強み・特色・社会的役割を踏まえた速やかな組織改革に努めることとする。 特に、教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする』の後段(太字)部分です。

一部の国立大学ではこれに即応する形で、教員養成学部(新課程)を廃止し新学部を構想、あるいは、人文社会系学部の見直しを行うなど、教育組織の再編を進めています。

例えば文部科学省は、次のような資料を公表しています。



より詳細にお知りになりたい方は、「平成28年度 国立大学の入学定員について(予定)」(文部科学省ホームページ)をご覧ください。平成28年度開設予定の学部等の内容(財務省への概算要求ベース)が記載されてあります。

なお、余談ですが、上記通知文の前段に書かれてある「「ミッションの再定義」で明らかにされた各大学の強み・特色・社会的役割を踏まえた速やかな組織改革に努めることとする」についても大きな問題をはらんでいると個人的には考えています。

文部科学省の「国立大学改革プラン」に基づき策定された「ミッションの再定義」について、文部科学省は「各国立大学と文部科学省が意見交換を行い、・・・各大学の強み・特色・社会的役割(ミッション)を整理しました」とホームページで述べています。

しかし、実のところ、その策定は、ほとんどが文部科学省主導で進められ、最終的には、文部科学省の意向に沿った文章でなければ認めてもらえないというありさまだったこと、また、文部科学省の上から目線の指導の下、無理をして特色めいた事柄を抽出したり、いくばくかの目立った実績をあたかも強みとして見せることに大学の労力が費やされたと聞いています。

そのような過程で策定された「ミッションの再定義」を踏まえた改革に努めることが求められていることにも留意しておく必要があるでしょう。

さて、話を戻しましょう。上記通知については、既にご承知のとおり、文系軽視との批判が、マスコミはもとより、日本学術会議、日本経済団体連合会(経団連)などから噴出しました。

印象深かったいくつかの記事を抜粋して時系列にご紹介します。(全文をお読みになりたい方は、各見出しをクリックしてください。)

時論公論「国立大学をどうするのか」|2015年7月3日 NHK解説委員室ブログ
全国86の国立大学に文部科学省が求めた組織の見直しはどのようなものだったのか。先月、国立大学に出した通知の中で、文部科学省は、教員養成系や人文社会科学系学部は、組織の廃止や社会的要請が高い分野に転換することを求めました。文部科学省が通知で大学の特定の分野の廃止や転換を求めたのは、初めてのことです。
文部科学省は、単に文学や社会学、経済などを学ぶ人文社会科学系の学部をやめて理系に転換することを促すものではないと説明しています。しかし、大学関係者からすると、国の財政状況が厳しい中、国立大学を類型化し、国立大学にかける税金を効果が見えやすい分野に集中的に投機しようというのではないかと心配するのはもっともです。
国立大学は、平成16年度に今の国立大学法人となりました。ただ、収入は、3割から4割程度が国の運営費交付金で賄われています。運営費交付金は、国立大学が6年ごとに見直して文部科学省に提出する「中期目標」をもとに、大学の規模や教育内容などに応じて配分されてきました。今年度の運営費交付金の総額は、1兆945億円。国の財政状況の悪化に伴って、毎年1%程度減り続けていて、この10年間で1300億円減らされました。一方、支出にあたる経常経費は、人件費が法人化の年には40%以上を占めていましたが、業務の効率化などで一昨年度は33%まで下がりました。経営努力で交付金の減額をしのいできましたが、限界だという声が聞かれます。「中期目標」の見直しは、今まさに行われていて、各大学は、先月末までに素案を文部科学省に提出しました。今年度中に素案を訂正した原案の認可を受け、来年4月から実施します。国立大学にしてみれば、食費を切り詰めるだけ切り詰めた状態で、方針に従わなければ今度は運営費交付金という、いわば主食を減らされることを突きつけられ、従わざるを得ないという声もあります。
では、なぜ今回こうした方針が示されたのでしょうか。大学が社会のニーズに十分対応していないという強い意見があります。背景にあるのは、経済界からの要望と、大学改革を成長戦略の1つとして位置づけようという政府の思惑です。
政府の産業競争力会議の中でも大学改革が議論され、「世界一技術革新に適した国を目指す」という方向性が示されました。議論の中では、運営費交付金の配分が一律であることが競争原理に基づいた改革が国立大学で進まない原因だといった意見や、今の大学の教育方法ではグローバル化に向けて突出した人材を育てるという視点が不十分であるといったことが指摘されてきました。経済界側からしてみれば、大学は企業に有能な人材を輩出できていない、経済成長のためには、企業側と大学側のミスマッチは、当然見直してもらわなければならないというわけです。
大学には企業とともにイノベーションの原動力になって欲しいとの考えは理解できます。しかし、バーターとして、ほかの分野に比べて専門性や将来の進路との結びつきが見えにくい人文社会科学系の学部に地域や産業界のニーズにあわせた人材の育成を目指すよう再編を求めることに問題はないのでしょうか。
大学側は、どう受け止めているのでしょうか。
先月開かれた国立大学協会の総会では、懸念の声が相次ぎました。国立大学協会会長で、東北大学の里見進学長は、「社会の役に立つ人材育成のスパンが、今は近視眼的で短期の成果をあげることに世の中が性急になりすぎていると危惧する。今すぐには役に立たなくても将来的に大きく展開できる人材育成も必要だ」と話しました。
文系学部の教員の1人は、大学では「難しい理論より企業現場の生きた知識を学ばせるべきだ」という意見には賛同する部分もある一方で、こうした「現場の知識」は、賞味期限の短い「事実」や「現状」を知ることにとどまり、将来長期間にわたって活用できる「学び」につながらないことも多いと指摘します。いくら即効性があっても応用の利かない講義ばかりでは長期的には意味がないということです。
声高に言われるグローバル人材の育成に際しても、文部科学省の示した考えはマイナス面が大きいという指摘もあります。異なる宗教観や倫理観を持つ諸外国の人たちと相互理解を深めるためには、英語が話せればいいというものではありません。異文化理解の欠如が企業に大きな損失をもたらすこともあります。そうした理解を進めるために不可欠なのが人文科学系の学問です。
地方の社会科学系の学部の中には、地元の企業に多くの学生が就職しているところもあります。地元の経済界が必要とする人材を輩出しているにもかかわらず、一律廃止と受け止められるような文部科学省の通知に、実態を知らない乱暴な意見だと反発する関係者もいます。
国立大学は税金を使う以上、野放図な経営が許されませんが、大学は職業向けの技能を学ぶ専門学校ではなく、学問の自由という観点から見れば、国は「金は出すが学問の中身までは口は出さない」というのが本来の姿です。逆に文部科学省は、金も出さずに「入試も変えろ」「学部も変えろ」と言うだけ。文部科学省の言うとおり、国立大学法人になったのに自立した大学運営は一向に進まず、運営費交付金を巡ってますます縛りが厳しくなるのではないかとの心配ももっともなことです。現場の不安をあおり、混乱を生じさせるようでは前向きな改革は進まないと思います。

「競争原理」と「大学は国力」ー。最近の高等教育政策のキーワードであろう。
競争原理の背景には、企業が世界的な競争にさらされているのに、大学は象牙の塔でのんびりしているという不信感がある。放っておくと大学は限りなくだらしなくなる。小泉純一郎政権の経済財政諮問会議以降、「大学を競争させる」という考えが定着した。
大学改革とは競争力の強化であり、大学力強化は国力強化という考えが強まった。大学は、次々と出てくる改革要請に疲れ切っている。
文科省は、高等教育の目標を(1)グローバル競争に打ち勝つ人材の育成(2)社会が求める多様で役に立つ人材の育成・供給ーだと言う。だが、これは国や企業側のニーズであって、最も大切な学生側の視点が欠けている。
大学は教育機関である。大学の務めは、グローバル人材を育て国家や企業のニーズを満たすことだけではない。若者一人ひとりが自分の将来を切り開けるように、力を伸ばしてあげることである。その教育力をどうやって評価し、競争させるというのか?
文科省は何もしないでいてくれた方がいい。高等教育はどうあるべきか、ビジョンをきちんと示し、あとは大学に自由にやらせてほしい。自由にさせた上で、7年に1回の認証評価でキチンと評価・指導すればいい。
ところが最近は、「競争的な資金」や「メリハリの付いた資金配分」などといって、文科省が示す要件に合致し採択された事業に補助金を出す政策が増えた。その補助金の取り合いに、かなりの精力を割かれる。
文科省が示す要項に沿って各大学が一斉に頑張ったということだが、奇妙な話である。同じ方向の改革を進めるだけで、その改革が本当に正しい改革なのか、誰も分からない。個性ある大学づくりという文科省方針とも合わない。そもそも改革とは自分の責任と工夫で進めるものではないか。
大学設置基準は学生数に応じた教員数や卒業に必要な単位数を定めている。そうした条件で大学をつくらせ、国立なら運営費交付金、私立なら経常費助成を補助金として出している。それなのに役所の意向に沿った改革の取り組み具合で、補助金に差を付けるという。審査の過程でダメと言われた大学は潰れても仕方ないということだ。
宇沢弘文氏は、地方における大学は私学も含めて共通社会資本だと指摘した。病院や道路と同じで、地方で人が生きていくのに欠かせない。若者が地域の大学で学べる環境は必須である。
国立大は法人化したにもかかわらず、改革の嵐の中で年々減らされる運営費交付金に振り回されている。最近は、教員系や人文社会系を見直し、社会的な要請が高い分野への転換まで求められている。国立大学の主体性はどこに行ってしまったのか。
18歳人口の減少で高等教育を取り巻く環境は激変する。国は過剰介入をやめ、今こそ、真に必要な高等教育の将来ビジョンを示すべきである。

文部科学省が全国の国立大学に対し、人文社会科学系の学部・大学院のあり方を見直すよう求めた通知に反発が強まっている。ことさらに「組織の廃止」に言及するなど問題の多い内容であり、批判が高まるのは当然だろう。
時代の変化のなかで大学がその役割を自らに問い、改革を続ける必要があるのは言うまでもない。しかしこんどの要請は「すぐに役に立たない分野は廃止を」と解釈できる不用意なものだ。文科省は大学界を混乱させている通知を撤回すべきである。
かねて文科省は国立大に、旧態依然たる横並びから脱し、グローバル化や大学ごとの特色を出すための取り組みを求めてきた。その方向性自体は理解できる。
しかし今回、人文社会科学だけを取り上げて「廃止」にまで踏み込んだのは明らかに行き過ぎである。文科省は「廃止」に力点は置いていないと釈明するが、大学側への強い威圧と受け止められても仕方があるまい。
また、通知にある「社会的要請」とはそもそも何か。実学的なスキル育成だけでなく、歴史や文化を理解する力、ものごとを批判的に思考する力を持つ人材を育てるのも大学の役割ではないか。そうした機能を失った大学は知的な衰弱を深めるに違いない。
さきの国立大学協会の総会では、文科省の姿勢に多くの懸念が示されている。日本学術会議も今月23日に「教育における人文社会科学の軽視は、大学教育全体を底の浅いものにしかねない」と強い調子で批判する声明を出した。
文科省は、国立大の運営費交付金の配分権を握っている。この権限をバックに大学に画一的な「改革」を押しつけても真の成果は期待できまい。11年前の国立大法人化のとき、文科省は大学の自主性を高めると説明していた。その約束はほごになったのだろうか。

国立大学改革に伴って持ち上がった“文系不要論”の衝撃は大きかった。文部科学省は「誤解」と否定していますが、それでも疑念は拭えないのです。
文科省が去る6月に全国の国立大あてに出した通知が発端でした。教員養成系や人文社会科学系のリストラを求めたのです。
確かに、社会の変化はすさまじい。子どもの人口は先細りですし、地方は過疎化が進み、都市との格差は広がる一途です。人間活動は情報化、グローバル化し、国際競争はし烈を極めています。
大学はレジャーランドでは許されない。それなりの教育研究の成果を社会に還元しなくては、存在意義さえ問われます。時代の情勢に見合った組織への脱皮は急務という文科省の理屈は分かります。
では、そのような改革がどうして“文系不要論”と映るのか。
それは政府の成長戦略と連動しているからでしょう。産業界の利益追求や社会的有用性に奉仕する学問を優遇し、成果を競わせるという発想が読み取れるのです。
科学技術振興やイノベーションの土台となる理系人材の育成はいうに及ばず、文系人材の育成でも職業能力の開発や実践力の向上に主眼が置かれているといえます。いわば、稼ぐ力の強化という視点のみからの改革というほかない。
とすると、実利実益との結びつきが見えにくい人文社会科学は切り捨てられるという懸念が強まるのも当然です。これは学問の自由にかかわる問題でもあるのです。
幕末の開国以来、激動期の為政者は国家の命運を科学技術に託してきた面があります。
「高等生徒を訓導するには、之(これ)を科学に進むべくして、政談に誘うべからず」。明治の元勲伊藤博文の言葉です。西欧列強に対抗して近代化を急いだ時代でした。
大戦中には、文系の高等教育機関は理系への転換を強いられ、科学技術の即時戦力化が推進されました。学徒出陣で戦地に送られたのは、主に文系の学生でした。
「文系の学問は国にとって有害無益なのでしょう」と手厳しいのは、滋賀大学長で経済学者の佐和隆光さん。「社会にどう役立つかで学術的価値をはかる、あしき慣行が国にはある」というのです。
高度成長期の1960年、岸信介内閣の松田竹千代文部相は、国立大は理系を担い、文系は私立大に任せたいとの意向を示したという。多くの国立大文系の学生が安保闘争に参加していたという背景があった、と指摘しています。
「文系の学識とは批判精神です。それで自由や民主主義も守られてきた」と説くのです。
とすれば、昨今の異論排除の風潮と文系軽視の風潮とは、必ずしも無縁ではないのかもしれません。国家が知的資源を一元管理して成長戦略に投入する姿は、開発独裁体制すら想像させます。
科学技術はまた独り歩きする面もあります。その日進月歩ぶりを目の当たりにして、夏目漱石は大正期に著した小説「行人」で登場人物にこう語らせている。
「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止(とど)まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。(中略)どこまで伴(つ)れて行かれるか分(わか)らない。実に恐ろしい」
現代にも通じるような話です。ITやロボット、人工知能、遺伝子工学…。利便性や効率性ばかりを追求した果てに、どういう社会が待ち受けるのか。全ては科学技術の赴くままにという実情です。
最近では、このような将来予測も公表されています。
・2011年度に米国の小学校に入った子どもたちの65%は、大学卒業時にいまは存在しない職業に就く(米ニューヨーク市立大学のキャシー・デビッドソン氏)。
・今後10~20年程度で、米国の雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高い(英オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン氏)。
しかし、科学技術文明には公害や環境破壊、地球温暖化、大量破壊兵器といった負の遺産を生み出してきた歴史がある。その功罪を含めて人間の生存や社会の発展、継承のための「知」を探究するのは人文社会科学の使命なのです。
名古屋市で先週、市民手づくりの哲学カフェが開かれました。教育をテーマに、見知らぬ人同士10人余りが意見を交わした。結論を出すのではない。互いの違いを認め合い、思索を深めるのです。
今やこうした「対話の場」は全国に広がる。稼ぐ力ではなく、本物の「知」に飢えているのではないでしょうか。本来、学問は国家のものではなく、市民のもの。無論、理系と文系を隔てる垣根など最初から存在しないのです。

幹事会声明「これからの大学のあり方-特に教員養成・人文社会科学系のあり方-に関する議論に寄せて」|平成27年7月23日 日本学術会議

日本学術会議は7月、「人文・社会科学の軽視は大学教育全体を底の浅いものにしかねない」と批判する声明を発表しています。


国立大学改革に関する考え方|2015年9月9日 日本経済団体連合会

経団連は9月、文部科学省の通知について「即戦力を求める産業界の意向を受けたものであるとの見方があるが、産業界の求める人材像はその対極にある」との文書を発表しています。ただし、ここで留意しなければならないのは、「経団連が声明を出した背景には、文科省の通知が「文系つぶし」と受け止められ、それが「経団連の意向」との批判が広がっていることがある。就職活動中の学生らに誤解を与えかねないとの懸念があった」(2015年9月10日朝日新聞)、「企業が即戦力を求め過ぎることが背景にあるという経済界への批判もあり、経団連としてはそういった懸念を払拭する狙いもあり、今回の提言をまとめた」(2015年9月9日産経新聞)に十分留意しておく必要があると思われます。