2016年8月21日日曜日

タコツボにこもる教員と逃げる学生

ガラス張りの研究棟」(IDE 2016年8-9月号)をご紹介します。大学の今を知ることができます。


あちこちの大学のキャンパスで、「ガラス張り」の研究棟を目にする。各階の廊下を歩くと、壁やドアが全面ガラス張りで、室内が丸見えの建物だ。そして、必ずといっていいほど廊下にいくつかテーブルが置かれ、人が集まりやすいよう工夫されている。

先日も、ある公立大学でそうした研究棟を訪ねた。案内役の教員によると、テーブル設置は、教員同士、あるいは教員と学生が集まり、議論する場として構想されたのだという。ご丁寧に給湯装置までついていた。

学部・学科の「タテ割り」の中で自分の専門という「タコツボ」にこもり、隣の研究室の人とすら意見を交わさない「相互不干渉」では、新しい知を創りだすことはできない。みんな出てきて、議論しようよ。アカデミックはそこからだーそんな思いを根底にした建物のようだ。

だが、なかなかそれは伝わっていない。「このテーブルで議論している教員や学生を一度も見たことがない」と教員は言う。よく見ると、ガラスの壁とドアの前に大きな書棚やホワイトボードを置いている部屋がいくつもあった。これでは出入りがしにくかろうに。多少の不便さは我慢してでも、タコツボを守りたいということなのか。

研究室をタコツボに見立てると、もっぱら責を負うべきはツボ主の教員のように感じるが、そうとは言い切れない面もあるようだ。社会と協働で学生を育てる試みを続けている教員がこのところ、「学生が逃げる」と嘆くことが多くなった。

九州のある大学教員は、数年前から地元の農家や漁協などの助けを得て、学生の力を引き出す活動をしている。例えば特産品のカキ養殖では、種付けから収穫、商品開発、販路拡大まで、漁師たちと共に行う。実際に作業をする中で、学生たちは、養殖に悪影響を与える環境の変化や漁業の未来などの大きな社会問題に行き当たる。同時に、現場では多様な考えを持つ人々とぶつかり、時に厳しい叱声も浴びせられる。これまでは、そうした実践を通して、見違えるほど成長していくのを感得できたという。

だが今は、「外部の人に少しきつく叱られると、(履修を)やめさせてください、と泣きを入れてくる」と話す。絶えず温かく励まし、褒め続けないと意欲が低下する。親にすら叱られた経験がないのかと疑いが湧く。一方で、そうした授業内容が、学生の授業評価アンケートで猛批判を浴びるケースも目立つように。教員は「社会に出て行くために力をつけておこう、という思いが通じないのか」と肩を落とす。

「逃げる学生」の存在は、日本特有の問題ではないようだ。『アメリカの高等教育』(デレック・ボック著)によると、宿題や厳しい成績評価は学生に嫌われ、授業評価アンケートでの評価を下げることにつながる。だから、ことに非常勤講師や任期付き教員は「学生による授業評価を上げようと宿題を減らしたり成績を甘くつけたりすることになる」と指摘している。

1966年の漫画「サザエさん」に、こんな作品がある。まず、赤ちゃんを背負ったおばあさんが足袋の爪先をつくろいながら、「あたしゃ女子大の英文科を一番で出た」と言う。庭で犬のノミ取りをするおじいさんも「東大出で銀時計をいただいた」と。そこで場面は再び室内に戻り、壁掛けの時計を気にしながらご飯をかき込むお父さんを横目に、おばあさんは「有名校出たけど、どうってこたアない」とつぶやく。そして、受験生の孫を送り出す。いわく、「きら一くにシケン受けといで」。

まだ大卒がそれなりの価値を持っていた時代でも、この程度。いわんや今は。まあ、大学に期待しすぎなのかもしれない。

水鏡してあぢさゐのけふの色  上田五千石

紫陽花は、「七変化」とも呼ばれる。はじめ白が勝っているが、次第に薄青、のち薄紫に。大学は、社会は、どうその色を変えていくのだろうか。

大学経営者の意識

職員問題のいま」(IDE 2016年8-9月号)をご紹介します。学長、理事など大学経営者に求められる意識改革を指摘しています。


一時ほどは教職協働という言葉を聞かなくなった。教員と職員が、それぞれの特質や能力を生かしつつ、協働して仕事をするのは当然のことだが、現実にはそれが当たり前ではなく、職員側から教職協働を進めようという議論が展開されてきた。特に熱心な大学職員は、忙しい合間をぬって、大学院で学び直したり、講習会型にとどまらない研修を受けたり、研鑽を積んでいる。プロフェッショナルとしての大学行政管理職員の確立を目指して設立された大学行政管理学会も来年には20周年を迎える。

筆者もこうした場に関わっているが、ここ最近、彼ら自身の関心も変化してきた印象を持っている。以前は、職員の役割の再認識、そのために職員の能力や専門性をいかに向上させられるか、というのが関心の中心があった。職員に対するアンケート調査が多く実施されたのもこうした問題意識を反映してのことである。

こうしたテーマが消えたわけではないが、最近は、大学の経営陣や教員の役割や意識を研究してみたいという職員が増えている。

教職協働のためには、職員だけでなく、教員の理解や変化も必要であること、そうしたきっかけを作り出すキーパーソンとして重要であるはずの経営陣の無理解に意識がシフトしていくのは自然のことであろう。より対等な関係での教職協働が進まない背景には、教員のお手伝いをしていればよいという職員自身の意識の問題も依然として大きいし、身につけるべき能力の問題もあるが、当然それだけではない。職員として頑張り、最終的に理事等での立場で経営の中核として参加できる道は開かれているのか、委員会等の長として職員が任命され、裏方メンバ一としてではなく、正式メンバーとして参加しているのかという機会の問題も大きい。機会があってこそ、成長へのインセンティブや責任感も出てくる。また、評価活動は典型だが、大学に求められる機能が広がる中で、各種委員会も増え、その準備にさく時間も増えている。こうした会議などの効率化は職員ではなく、管理側が対処すべき事柄である。

教職協働の議論で、よく「教員と職員が気軽に話し合える雰囲気」などの重要性が言われたが、そういう問題ではないのではと違和感を覚えていた。若い熱心な職員が、大学全体のマネジメントを向上させるための様々なアクターや諸要因の関係に目を向きはじめたことはよい変化であるが、経営陣の意識も同時に変えていかねば、バーンアウトするのではないかと危機感を抱いている。プロフェッショナルとしての大学経営者の確立をめざす動きも加速することを願う。

2016年8月20日土曜日

これからの学術研究の方向性

内閣府経済社会総合研究所総括政策研究官の大竹暁さんの論考「大学の研究活動と科学技術」(文部科学教育通信 No393 2016-8-8)をご紹介します(下線は拙者)。

学術研究の在り方については、国政レベル、研究現場レベルにおいて様々な考えがあるわけですが、このような政策担当者の意見を十分踏まえ行動していくことも大切なことかと。


日本を巡る課題と科学技術

日本にとって科学技術の持つ意味は何か、何故、政府が投資をするのか。これは必ずしも自明ではない。資源が少なく、国土も狭隆で、その70%が山岳地帯で、知恵で付加価値を生み出さないと1億2千万人の国民が持続的に生存できない、と言うのは真実だが、ならば何故科学技術か。その理由を再度検証したい。

(1)歴史的背景

一つには、我が国は科学技術で国を興してきた歴史的背景がある。日本は明治維新で開国し、同時に世界に追いつくために近代化を図った。折しも、イギリスの産業革命から一世紀を経過し、科学と技術は相互に依存性を高めていた。そこで、日本は大学に工学部を作り、科学の基礎、科学的な思考を中心に据えつつも、現実の課題を解決するために、基礎的な学理を組み合わせて新たな学理を生み出した。大学の工学部は、産業の基礎になる技術的基盤を固め、その発展に必要な人材を供給し、さらには新たに直面した課題を解決し、その結果を統合して学理として発展させてきた。

筆者は、工学部は日本の近代化に大きく貢献したことはもとより、戦後の高度成長期に最も顕著に効果を上げたと考える。金属工学、造船学、電気工学、化学工学等の工学は、成長期の日本の産業と対応して、その発展をもたらしたと言っても過言ではない。傍証ではあるが、1979年に米国で社会学者エズラ・ヴォーゲル氏がJapan as No.1と題する本を刊行し、日本の産業体制や勤勉さなどが日本の生産性につながっており、もっと学ぶべしとすると、日本に対する警戒心とともに日本の強みを習おうとする動きが各方面で起こった。科学の世界では米国科学財団(NSF)が1984年にEngineering Research Center(ERC)制度を発足させるが、これは大学に、革新的な研究、工学教育と産業の支援を結びつけたこれまでの学問分野を横断する研究センターを作ろうというもので、まさに日本の工学部の原点の発想と言える。日本のオリジナリティが世界的に評価されたのである。今日、ERCは米国における新たな工学拠点の創成に大きく貢献し、例えば医工連携ロボティックスでは手術ロボット・ダヴィンチ等の進展をもたらしている。

(2)国際競争力ランキング

第二に、世界各国の競争力ランキングがある。有名なものはスイスの国際経営開発研究所(IMD)や世界経済フォーラム(WEF)があるが、日本はIMDの総合競争力では1993年には調査対象国第1位であったものの、近年では約60力国中20位代と低迷しているが、科学技術インフラは常に第2位と評価されている。WEFでは2014-15年で総合競争力は144力国中第6位で、中でも科学者・工学者の能力は第3位とされている。つまり、日本の競争力の源泉の一つは科学技術であると世界は評価しているということである。

以上のような歴史的背景、世界的に見た日本の長所から見て、科学技術は日本の持続的な発展の大きな可能性の一つと言える。国と地方公共団体の科学技術投資は年間4兆円に達しようとしており、公共事業費が7兆円規模であることを考えると大変大きい。さらに、民問の投資はその4倍に及ぶ。では、科学技術関係者はこの期待にどう答えているのか。

日本の科学技術の特徴

(1)日本の科学技術の現状

-科学技術投資

先にも述べた通り、日本の科学技術投資は多額で、国の経済規模であるGDPに対して3.75%(2013年)であり、2011年に韓国に抜かれるまで世界第1位だった(韓国は4.36%(2012年))。その8割は民間負担であり、政府負担は3.5兆円で増対GDP比0.73%と、EU全体の0.69%、英の0.5%を上回るものの、米国、独の0.86%、仏の0.8%、韓国の1.04%に見劣りする。

-人ロ1万人当たりの研究者数

一方、人口1万人当たりの研究者数は実数で66.2人、大学教員等を専従換算をしたとしても51.5人と、米46.8人、英41.8人、独40.1人、仏37人と比べ、韓国の58.0人に次いで高い割合となっている。大学に限って言えば、24.5人(専従換算で10.5人)、米6人、独11.8人、仏10.1人、韓国8.8人となり、英25.2人に次いで割合が高い。

-大学の論文の生産性

大学の論文の生産性を見ると2004~6年の平均値で、日本が0.39件/人であるのに対し、米0.66件/人、英0.51件/人、独0.44件/人である。また、日本全体での論文の質を引用度で計ると、トップ10%及び1%に入る論文数の世界でのシェアは2000年以降急速に低下している。この間、世界では国際共著が増えているが、その伸びは世界に比して低い。ただし、2000年以降のノーベル賞の受賞者は米国に次ぐレベルで、画期的な成果として青色発光ダイオード、iPS細胞、ロボットスーツの開発なども出ている。ただし、これらは10~20年以上前の研究成果の結実であるものも多い。

-海外との交流

海外との交流では、日本人研究者の海外への派遣数は2012年では16万5千人を超えているが、大部分が30日以下の短期滞在で、30日を超えるのはわずか5千人である。世界の研究者移動のパターンを分野別に見ると、どの分野でも米国、台湾などと比べ研究者の出入りともに少ない。

-産学官連携

日本では産官学の各部門間の資金と人の動き(クロスフロー)が欧米に比して少ないとされる。資金に着目すると、民間研究資金から大学へ支出されるものの割合は日本0.7%に対し、米1.1%、独3.8%、仏1.0%、英2.3%、一方政府から民間に流れる資金の割合は日本3.8%に対し、米26%、独10%、仏14.5%、英18.8%となっている。

-学位の取得状況

人口百万人当たりの博士号取得者数は120人程度で、欧米の170~300人程度に比べ少なく、企業研究者に占める割合は4.3%と米国の10%に比して低水準である。

これらを概括すると、日本は民間企業が科学技術投資の8割を占め、産学官の間の資金及び人のクロスフローは少ないが、人口当たりの研究者は欧米に比べ多く大学の生産性は低い国際的な頭脳循環には遅れ国際共著など国際協力活動はまだ低調である。

(2)日本の科学技術の課題

では原因は何か。大学関係者等の科学コミュニティからは公的な資金の投入が伸び悩んでいることが問題だ、世界的な競争環境の中でしのぎを削っており、論文数を稼ぎたい、そのために国内に長くいたいなどの声がある。

しかし、現在の国の財政状況を考えると、資金の大幅な増額は望みにくい。納税者の視点から見ると、ノーベル賞等の顕著な成果の例はあるとしても、公共事業に次ぐ規模の投資に見合うと言えるか論文だけでなくもっと様々な成果があっても良いのでは、と問われる。多額の資金を使いつつも研究者数が多く、研究の質が上がっていないので、さらに資金の増加を、との声を上げる科学コミュニティが十分共感を得る環境にあるかは楽観視できない
民間からは、資金のクロスフローが少ないことに関しては日本の大学はスピードが遅く、サービスの質がコストに見合わない(ニーズを汲み取ってもらえない)と言われ、また博士人材に関しては専門性が狭く、幅広い活躍が望めないと言った声が聞かれる。

ただし、行政の側に対しても毎年新たな研究制度が出来、様々な制度変更が度々行われるので、その対応に追われ、じっくりと研究に望む時間が奪われている、との批判もある。

第5期科学技術基本計画と大学

政府の科学技術基本計画は1996年から5年ごとに策定されてきた。第2期基本計画では科学技術基本計画によって目指すべき国の姿が記され、第4期基本計画では重点分野を科学技術の分野から、国が直面する課題解決の観点へと整理するなど、社会のための科学技術の観点を強く意識するよう発展してきた。2016年4月から5力年の第5期科学技術基本計画では、来たるべき将来の社会を「超スマート社会」として、その実現のために科学技術が多様な局面で社会に深く関わっていくことを想定している。計画の基本的な柱としては、未来の産業創造と社会変革、経済・社会的課題への対応、科学技術イノベーションの基盤的な力の強化、人材、知、資金の好循環システム、の4つが挙げられている。

日本の英知と人材の源である大学にはこれらの全てで大きな期待がかかるが、特に基盤的な力の強化が中心になる。つまり、人材力の強化、知の基盤の強化とそれに関連するオープンサイエンスの推進、資金改革の強化が主として大学に大きく関わる

(1)人材力の強化

人材について言えば、若手研究者のキャリア問題があるが、これと絶えず表裏の関係にあるのは多様なキャリアパスの確立である。国立大学では、運営費交付金の削減による定年制ポストの減少と一部大学での定年延長が、若手のキャリアパスを不確実なものにする中、むしろシニア層を年俸制、任期制に移行し、若手に定年制のポストを振り分けることが重要で、それにより博士課程進学者の将来への展望を拓くべきである。一方、博士号取得者は本人及び社会が投資をしたとも言えるので、社会の多様な場所で活躍することが新たなイノベーションの展開には重要である。博士号取得者は年間1万5千人程度だが、もっとも楽観的に見積もってアカデミックポストに就ける者は3分の1以下であり、他は社会に出て様々な課題に挑戦することが求められる。そのためには博士課程教育の中で、専門性のみならず、科学的な思考を実践して高度な課題設定、解決の力を洒養していくことが求められる。博士は視野や専門性が狭く、修士課程修了者を採用して教育する方が良いとする企業の問題意識にも応えることができる

(2)知の基盤の強化

知の基盤の観点からは、イノベーションの源泉としての学術研究と基礎研究の推進に当たって、いかに社会の寄与する面を意識するかが課題ではないか。こう言うとすぐ実用化できる研究に偏重するのではないかとの疑義をもたれるが、そうではなく、常に研究の多様な可能性を意識し、その中で社会が直面する様々な課題と向き合う姿勢も重要ということである。その視点に基づいて、どのように研究の成果を産業界や他の社会の多様なプレーヤーにつないでいくかにもう少し考えを巡らすことが求められている

一方、世界的な潮流となりつつあるオープンサイエンスは、公的な資金を活用した研究については研究データなど公開して、人類共通の資産として活用していこうというもので、英国王立教会が科学雑誌を発刊した350年前から続いてきた科学の進め方、すなわち科学者自身が発想し、考案し、実験し、その結果を論文として公表するというやり方を大きく変え、互いにデータを公開して他者のデータも活用して、かつデータに語らせることも含め新たな成果を得ることになる。折しもICTの進展やビッグデータに伴うデータ駆動型科学(第四の科学)の進展とも重なる。ここで重要なことは、何をオープンにし、何をクローズにするかである。まず、安全保障、経済的な活動やプライバシーに関わるものは除外される。ただし、各国とも様々な戦略や戦術を持って対応し、どこを公開して、何をどういう理由で伏せるかは知恵を絞っていると思われる。まずは、地球観測などの世界的に共有した方がメリットの高いものから対応していくのが良いのだが、研究不正を防ぎ、国際共著などの質の高い国際協調を図る手段ともなる。

(3)資金改革の強化

研究資金の改革については、国立大学の運営費交付金、私学助成といった基盤的経費の重要性は唱えつつ、財源の多様化と一層の運営の効率化の改革を求めている。一方、公募型の、いわゆる競争的資金については間接経費30%の措置の徹底、各種研究費の合算使用や機器の共用化を促す等効果的な活用を唱えている。これとともに、メリハリのある配分など、大学の役割や実績に基づく配分が示唆されている。既に国立大学の運営費交付金の一部傾斜配分や指定国立大学への取組等が始まっているが、筆者は2つの点が課題であると考える。

一つは、現在上位校に集中する競争資金の配分を中位校にも回るような配慮である。これは競争的資金の中で、年間数百万円程度で、出口を意識した研究に対応するものを増やすことでかなり改善するものと見られる。科学技術・学術政策研究所の定点調査によれば、中位校は地元の産業界のニーズ等を踏まえた研究に力を発揮している例が多いからである。

次に、世界を相手に競える大学については、間接経費の措置の徹底が効果的だが、将来的には間接経費の比率を上げる必要があるのではないか。日本の大学はほとんどが国立大学である英国のシステムに近いと考えるが、運営費交付金が削減されている今日、連邦からの資金を研究費に頼る米国の大学のシステムとのハイブリッドにするしかないと思われるところ、米国では大学によっては6~7割と言われる間接経費の措置にならわざるを得ないのではないか。

社会と科学技術の関係

今日、科学技術は人々の生活や社会の隅々に深く浸透し、一時たりとも切り離せない状況にある。社会も人々も科学技術に社会が直面する課題、地球規模課題の解決策や新たな革新の提供を期待している。加えて、特に先進国では人々の教育の向上や情報通信技術の進展が科学技術へのアクセスを容易にしている。従って、一般の人々を含む社会の全ての関与者が科学技術による解決策の共創(Co-design Co-production)に参画することが現実的な時代となっている。先に述べたオープンサイエンスの流れもこれに呼応するものとなる。また、世界的にも、科学技術はかつては一部先進国間での協力を元に国際的な活動が行われてきたが、特に世界の人々に共通する課題について共創となれば、新興国や発展途上国もそれぞれの立場や特徴に基づいて、その設計や推進に関与できることになる。

このプロセスには従来の科学技術関係者だけではなく、一般社会の多くの関係者を巻き込むため、超学際的(Transdisciplinary)とされ、また、学問分野でも人文学・社会科学の役割も重要となる。1999年のブダペスト会議における「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」、いわゆるブダペスト宣言の精神、特に社会における科学と社会のための科学がまさに現実になりつつある。

この流れの中で懸念されるのは、日本の存在感である。従来の日本では、黙々と自らの問題意識を探求して、その成果を世界に問う実力指向の不言実行型が尊重されていた。例えば、国際標準化機構(ISO)の規格化への日本企業の対応では、標準規格など日本の技術力でいかにでも対応できると考え、欧米主導の規格化で辛酸をなめた。この共創の流れも、議論の段階から参画していかないと様々なことが決まってしまう可能性がある。ところが、日本の現状を見ると、科学者は細分化された分野に閉じこもり、社会的課題を意識して国際舞台で活躍する人は多くない。内向きかつ自らの狭い専門に執着する。これでは、科学技術は社会に寄与するどころか、存在意義を失う。今、科学者を始め関係者が高い視点と大きな視野で問題を考えないと日本は救われない。まさに、日本抜き(Japan Passing)となる。

おわりに

日本は開国時には欧米に追いつくため、実学的な工学部を創始して、世界の先進国を目指した。その精神の発揮が今求められていると考える。学問、分野、国の境を越えて、「越境」して日本そして世界の将来のために貢献する、それはまさに科学技術政策の目標であり、質の高い人を育て、最先端の科学技術の成果を生み出す大学に大きく期待されていると考える。(明治大学 特定課題研究ユニット「高等教育研究センター」研究会から)