2017年4月30日日曜日

経済財政諮問会議:人材投資と文教施策の在り方

経済財政諮問会議(4月25日開催)において、人材投資と文教施策の在り方についての議論が行われています。議事要旨から抜粋してご紹介します。

<新原内閣府政策統括官>

資料1をご覧いただきたい。

1ページ、ダボス会議のデータであるが、左側にあるとおり、日本の国際競争力は8位で、分解すると、インフラや初等教育の順位は5位であり、右側にあるとおり、高等教育システムの質については37位と評価が非常に低くなっている。これは経営者に対する大量アンケートに基づく順位なので、実社会からの評価が良くないことが反映されていると思われる。同じく2ページの人的資本の指標を見ても、健康、労働・雇用、制度・インフラ等環境に比べ、教育は28位と低くなっている。

他方、3ページ、民間企業の教育訓練支出は1991年をピークに減少傾向にあり、4ページ、特に従業員の少ない小企業ほど人材育成に余裕がない状況にある。5ページ、従業員自身も8割近くの人が、自分の能力開発に問題があると認識している。

以上のように、教育は会社で行うから高等教育に期待しない、といった考え方は通用しなくなってきており、就業に結びつく、役に立つ高等教育への期待が高まっている。

その一方、6ページ、25歳以上の大学入学者は、OECD平均が16.8%に対し、我が国では2.5%しかおらず、再チャレンジがしにくい構造となっている。

8ページ以下は、上位大学の研究能力についてである。アジア域内で見ると、2014年までは上位100校にランキングされている数は22校と1位で、トップの東大のランキングも1位であった。しかし、直近の2017年は中国、韓国に抜かれており、これは9ページを見ていただくと、シンガポール国立大学、北京大学、清華大学といったアジアの大学の質が大学改革で改善したことが影響している。

<伊藤議員>(学習院大学国際社会科学部教授)

資料2-1を使って説明させていただきたい。資料2-2が関連する資料である。今回は大学の改革に関して、アクセスの機会の均等あるいは教育の質の向上、大学改革等をお話させていただきたい。

最初に「1.高等教育へのアクセスの機会均等」が極めて重要で、データを見ると、所得水準と大学進学率あるいは自治体レベルでも財政力と教育行政サービス水準の間に強い相関が見られているということで、意欲と能力のある学生に対する機会均等が求められる。1つには、貧しくても高等教育を受けられるよう、居住地や所得などに関わらず高等教育へのアクセスが確保される制度を整備していくことが重要だ。もう一点、第二子以降の高等教育段階の教育負担のデータを見ると、子どもの数、少子化にも影響を及ぼしている可能性があるということで、第二子以降への教育費負担減免は特に効果的・効率的に充実すべきである。

「2.教育の質の向上」で、教育の質を高めることは言うまでもないが、現状では大学の中だけの教育だが、いわゆるリカレント教育の充実が今強く言われている。最初のポツにあるように、自治体や地元産業界を含めた官民連携のプラットフォームを立ち上げて、その中でリカレント教育の充実に向けた調整あるいは新しい仕組みを構築することが必要である。もう一点、教育の質を上げるための当事者である大学に対するインセンティブということで、現状では私学助成は教職員数や学生数等で配分される数字が決まるが、もう少し踏み込んで、教育の成果、アウトカムを反映した大胆な傾斜配分を行う仕組みが必要であると考えている。大学も、学生の教育の成果あるいは卒業後の生活の質等を把握・公表して、大学が提供した教育の質について説明責任を果たすことが重要だ。

「3.大学改革」について、2018年以降18歳人口が減り始めて、2040年までには3割減少する。地方によっては半分にまで減少するところもあるわけで、相当大胆な踏み込んだ行動調整が必要だと思う。そういう中で3点資料に書いているが、1つは人材面・資金面の話で、クロスアポイントの拡大や外部人材の更なる登用を進めることによって大学の質を確保するということ。大学の財政運営に関わる寄附の促進や保有資産の有効活用あるいは出資機能の強化についていろいろ課題があると思うので、これについても洗い出し、しっかり対応することが必要だ。ガバナンスについては、安倍内閣の中でもコーポレートガバナンス等いろいろな形で当事者にいかにしっかりやってもらうか取組が進んでいるが、大学のガバナンスについても、学長の選出の方法や補佐の体制等に関して、しっかりと検証し改革していく。組織再編については、人数、子どもの数がどんどん減っていく中で、残念ながら日本の多くの大学は小規模であるわけで、スケールメリットを生かすためにも、現在の大学の組織の在り方を少し見直していく必要があるのではないか。特に設置者、国公私立の枠を越えた経営統合や再編が可能となる枠組みを構築するいわゆる一大学一法人制度の見直しを真剣に考えていくべきだろう。ここは重要な点になるわけだが、これから18歳の人口が減っていく中で当然経営困難な大学がたくさん出てくると思うが、ここはどういう形で円滑に撤退あるいは事業承継できる仕組みを作るのかということが早急に問われると思う。

最後の3ページに地域人材の育成の話が書いてあり、都道府県が中心となって、関係する大学や公設試験研究機関、地域の高校、地元企業と連携する仕組みをしっかりと作る場を設置すべきである。東京への大学・学部の移転が行き過ぎるかどうかという議論が当然出てくると思うが、基本的に人数が減っていくわけだから、東京の大学・学部についてはいわゆるスクラップ・アンド・ビルドを前提に、要するに、より必要なところに資源を集中する形のものが必要である。

<松野臨時議員>(文部科学大臣)

配付資料2の1ページをご覧いただきたい。今後のイノベーションを創出し、生産性を向上させるためには、一人一人の能力の高度化が不可欠であり、このための教育投資が重要である。具体的には、教育の質の向上と幼児期から高等教育段階までの切れ目のない教育費負担軽減を両輪として加速することが必要だ。

2ページをご覧いただきたい。教育の中でも、イノベーション創出と人材育成の中核として特に重要な役割を担うべき高等教育について、「システム改革」「教育研究の質の向上」「アクセス格差の是正」を3つの柱とする一体改革に取り組む。そのため、2040年を見据えた将来ビジョンの策定が急務と考える。

3ページをご覧いただきたい。今後、18歳人口は大きく減少する。特に、小規模大学が多い地方では、経営悪化により教育機会の確保が困難になるおそれがある。全国で、特色ある「足腰の強い」大学づくりに向けたシステム改革を早急に進めなければならない。国公私立の枠を超えた連携・統合、経営力の強化、大学と自治体や産業界との連携強化等に取り組むとともに、改革が進まない場合の円滑な撤退手続について検討する。

また、地方創生に向けて、地方大学の教育研究の水準の向上や特色ある取組の支援など、地方大学の振興にしっかりと取り組む。東京23区の大学の新増設抑制については、国際競争力や教育研究の質など、教育政策の観点も含めた総合的な検討が重要だと考えており、山本まち・ひと・しごと創生担当大臣ともしっかり連携しながら進めていく。

4ページをご覧いただきたい。イノベーション創出に向けた国際競争力の激化の中で、論文生産の伸び悩みなど、我が国の教育研究力は危機に瀕している。教育の質向上と実践的教育の強化や、社会人・女性の学び直し支援策に取り組む。あわせて、オープンイノベーション創出などの取組を推進する。

5ページをご覧いただきたい。大学の授業料が高額化していることも踏まえ、家庭の所得による進学格差を解消し、少子化を食い止めるためには、高等教育段階の教育費負担軽減が不可欠だ。給付型奨学金の充実や授業料減免の拡充等にしっかりと取り組み、高等教育へのアクセス格差を是正する必要がある。

これまでの取組を更に加速するとともに、少子化や第四次産業革命といった新たな時代に対応すべく、より踏み込んで改革に取り組む。

<山本(幸)臨時議員>(まち・ひと・しごと創生担当大臣)

配付資料3をご覧いただきたい。
平成29年度は、まち・ひと・しごと創生総合戦略の中間年であり、「人材への投資を通じて経済社会の生産性を上げる」との骨太方針2017を貫く基本的考え方等に沿って、地方創生の新展開を図っていく。

次に2ページについて。地方大学の振興のため、地方大学は「特色」を出した大学へ改革すべき、との問題意識から、首長の強いリーダーシップの下、産官学が連携して「本気度」をもって取り組む優れたプロジェクトを、数を絞って選定の上、支援していく。

また、人口が過度に集中する東京は、出生率も全国最低であり、「市場の失敗」だと言え、行政介入の余地がある。学生の過度な東京への集中は、地方大学の経営悪化や、東京周縁で大学が撤退した地域の衰退が懸念されるため、東京23区の大学の学部・学科の新増設を抑制するとともに、地方へのサテライトキャンパスを推進していく必要がある。

さらに、若者雇用の創出のため、国・地方としても取り組んでいく。

<高市議員>(総務大臣)

資料2-1の3ページ、特に地域人材の育成という点について申し上げる。
地方からの人口流出は、「大学進学時」と「卒業後」の2つの時点において顕著である。総務省では、平成27年度から、文部科学省と連携して、地方公共団体と、国公私立を問わず地方大学が、具体的な数値目標を掲げた協定を締結し連携して行う雇用創出と若者定着の取組、地方公共団体が地元企業に就職した学生の奨学金返還を支援するための基金を造成する取組の実施に要する経費に対して、特別交付税措置を講じている。

また、学習指導要領に盛り込まれることに先立ち、プログラミング教育も進めてきたが、各地で大変良い成果が上がっている。特に教材と教える人材が課題だが、クラウド上の教材などの活用も含めて、良い成果が出つつある。

<世耕議員>(経済産業大臣)

人生100年時代に対応しながら、第四次産業革命を経済成長につなげるためには、産業界や働く人のニーズを踏まえた、社会人の学び直しを設計することが重要である。第四次産業革命は、製造業とITの合流ということで、コネクテッド・インダストリーズを構想している。その観点からは、セキュリティ・データサイエンティスト・AIなど、IT企業以外の分野も含めてIT人材のニーズが高まっており、対策が喫緊の課題である。

その皮切りとして、今般、産業ニーズに近い立場から、経済産業省において、厚生労働省と連携して、ミドル層がIT・データ等のスキルを身につけられるよう、民間事業者や大学等が提供する社会人向けの教育訓練講座を認定する、「第四次産業革命スキル習得講座認定制度(仮称)」を創設することにした。これらを含め、政府を挙げて、ニーズに合った「生涯の学び直し」を強力に推進していきたい。

また、大学については、産業界や社会のニーズに合った教育の質の向上を図るガバナンス改革とセットで行うことが不可欠だ。加えて、大学経営に携わった立場から申し上げると、学校会計というのは本当にわかりにくい。今年の経営状況がわからない。合併しようと思っても相手の価値が全く読み取れない。学校会計を普通の企業会計と同じ土俵にすることが、ガバナンス改革や合併・撤退の促進にもつながっていくのではないか。

<塩崎臨時議員>(厚生労働大臣)

前々回、大学改革がいかに日本の将来にとって大事かということを申し上げたが、とりわけガバナンス改革について、学長選挙の規定の見直し並びに学長等による学部長の任命が重要である。大学としてのガバナンスがきちんとできるためには、選挙をやめて、学長が学部長を任命することができなければならない。それもこれもリソース・アロケーション、これから行く方向はほとんどみんな共有しているわけであるが、それが動かないのはガバナンスに問題がある。松野大臣がお配りをいただいている資料にも、ガバナンス改革の中で学校教育法及び国立大学法人法の改正が挙げられているが、学校教育法第93条によって教授会の位置づけが変わったことを、ぜひ内規を変えることで徹底して、リソース・アロケーションが未来志向でいけるようにしていただきたい。

<麻生議員>(副総理兼財務大臣)

意欲と能力のある若者の教育機会の均等確保は、間違いなく最も重要な課題である。他方で、内閣府の資料で示されている通り、高等教育を受けた人は、それを受けなかった人、高卒の人に比べて、生涯獲得賃金で見ると6,000万円から7,000万円違うということであれば、高卒で働き、税を納める人たちの公平感を損なうことがないようにするという点も、頭に入れておいていただかなければいけない。

次に、18歳人口が減っている中、私立大学の約半数、44.5%は、今、学生が定員まで集まっていない。つまり、学生のニーズに応えられない大学が相当の数あることになる。そうすると、当然のこととして、質を上げろ、大学の改革が急務、といったことが言われるが、どうやってそれを測定するのか、これは容易にできる話ではない。これは昔から言われている話であり、大学改革が中々進まない最大の理由である。大学の質に関する見方について、あくまで一例だが、いわゆる私立大学の奨学金を出しているが、奨学金の延滞率と定員充足率には相関が見られる。ただ、芸術学部などについては、一概に言うわけにはいかないことはよくわかっているが、そういった点も頭に入れて、きちんと整理しないといけないのではないか。

<松野臨時議員>(文部科学大臣)

現在、国立大学の約半数は、既に意向投票を実施しない、もしくは意向投票の結果と異なる形で学長が選ばれている状況にあるが、大学のガバナンスの問題が大学改革に直結するという意識は持っているので、学長を中心とした大学の経営意思決定の在り方については、更に突っ込んで提言していきたい。

世耕大臣からお話をいただいた学校の財務上の問題、透明性が確保されていないということは、重大な問題だと考えているので、どういった方式がとれるか検討させていただきたい。

<高橋議員>(株式会社日本総合研究所理事長)

松野大臣の御説明を伺い、大学改革の基本的な方向性は同じだと感じた。ただ、教育改革については、これまでもエビデンスベースのPDCAが欠如していたことが問題である。したがって、大学のガバナンスなども含めて、具体的に数値的な目標を明確化していただいて、効果の高い政策を実行することが必要である。例えば、私学助成のどの程度の割合を教育成果で配分するか、あるいは経営のガバナンスの強化に当たって外部人材をどのぐらい入れるか、そういった数値目標をぜひ掲げていただきたい。

それから、今まで議論が出ていないことを追加で申し上げたい。資料2-2をご覧いただきたい。

2ページの図表3をご覧いただきたい。問題として申し上げたいのは、私立高校の無償化について、各県はそれぞれ年収の上限を設定しているわけだが、東京都は760万円で、隣の神奈川県は250万円ということで、非常に大きな差がある。この場合、横浜に住んでいて東京の学校に通っている家庭は、760万円の対象にならない。

いわば教育行政サービスの格差について、文科大臣はどうお考えになるのかということを、ぜひお聞きしたい。

もう一点、5ページの図表10をご覧いただきたい。先ほど東京に学生が集中することの問題点が指摘されたが、一方で、これは1大学当たりの在学者数が非常に少ない県について見たものである。固有名詞は良くないと思うが、例えば、一番右側の北海道は、学生数は非常に少ないが大学の数が37ある一方で、これから学生数が大幅に減っていくと見込まれているわけである。そういう意味では、東京問題もある一方で地方問題もあり、こういう地域については、地域ベースで大学の再編というものが必要なのではないか。その辺についてもお考えをお聞かせいただきたい。

<新浪議員>(サントリーホールディングス株式会社代表取締役社長)

地方大学は大変重要だと思うが、特色を出していくのであれば、旧帝大以外の国立大学はすべて県立大学でも良いのではないか。山本大臣が発言されたように、地方大学は地方創生に大変重要な要素がある。国がやると、どうしても標準化されてしまう。都道府県のメッシュはそれなりに大きいとは思うが、地域に密着し、標準化ではなく差別化を目指すことが、非常に重要なのではないか。観光や農業など、まだまだ雇用が生み出せる。地域で活躍する人材作りをもっと真剣に考えるためにも、旧帝大以外の国立大は全て県立にしていくべきではないか。

また、既にある県立大学については、県内に複数ある場合は統合すべきではないか。私立大学についても同じで、これは国公立大学だけの問題ではない。

そして、地方の産業を、産官学で一緒に地域に密着して振興することも必要である。例えば、ある県では麺類が県民食で、さらに糖尿病患者も多いが、そういった県では、県内の医学部が糖尿病の徹底的な研究をする、または糖質をとらないような小麦粉を開発する等の取組を推進してはどうか。

そして、人生100年になっていくので、一般の学生数は減らして、ぜひともリカレント教育の枠を増やし、地方の県立大学に入れるようにしていくべきである。

もう一つは、ガバナンスの件だが、産業界が国際的な人材を採用する際になぜGPAを使わないかというと、GPAと思考力が全くマッチしていないからである。

高校までは暗記も大変重要だと思うが、大学に入ったら、暗記だけではなくて、考える力を引き出さなければいけない。国際的に通用するためには、答えのないものをどう考えていくかという力を大学で身に着けるべき。マイケル・サンデル氏のような教授が日本にいるか。生徒にソクラテス式問答法で教えられる教授がいるのか。こういった教授が本当に必要である。

マイケル・ポーター教授を始めとして、教えることも大変重要である。生徒が勉強する気がないから教えようがない、とよく言われるが、そうではなく、おもしろければ、勉強するというよりも、非常に前向きに取り組むのではないか。そのためには、ガバナンスの1つとして、学生に教授を評価させる仕組みも検討すべきではないか。

<松野臨時議員>(文部科学大臣)

様々なアウトカムによって私学助成等の変更をという御指摘に関して、1点問題なのは、例えば定員の充足率であるとか、就職、学業、研究等のアウトカムが低い大学は地方の小規模大学という現実があり、例えば地方に多く学生をということであっても、地方の国立大学は定員超過の状況であって、私学を進めていくしかないわけであり、そのときに地方私学小規模校の充実がテーマになっていくのだろうと考えている。

また、リカレント教育は、今後、少子化の中で日本が高等教育を維持して発展させていくには必要不可欠な要素であるが、いつも省内でも議論になり最大のネックとなっているのが、日本の企業は欧米のように学位を評価しない傾向があり、例えば修士号や博士号を取ると企業に帰ってそれなりの待遇やポジションに直結するということであれば、リカレントにいそしむ動機があるが、今の日本の評価方式でいうとリカレント教育になかなか結びつかないという根本的な問題もあるので、様々なお知恵をいただければと思う。

高校の無償化の問題は、国として全体のミニマムをどう支えていくかということに現状はなっており、各地方の財政力の差であるとか、首長の教育に対する思考の問題で差が出ているというのが事実だと思う。この問題は、文部科学省の範疇だけで解決ができない部分もあるので、総務省を始め総合的にしっかりと議論を進める必要があると考えている。

<安倍議長>(内閣総理大臣)

本日は、第一に、人材投資と文教分野の在り方について議論した。

人材への投資や教育の質の向上は、労働生産性を上げ、成長と分配の好循環を加速させる上で重要である。

民間議員からも大学改革を中心に意見をいただいた。

関係大臣におかれては、民間議員の意見も踏まえ、議論を深めていただきたい。

未来投資会議:イノベーションエコシステムの構築

少し前になりますが、政府の「未来投資会議」(3月24日開催)において、「イノベーションのエコシステム構築」について議論が行われていますので、議事概要から抜粋してご紹介します。

<五神議員>(東京大学総長)

今後、本格的なデータ活用、いわゆるスマート化によって世界経済や産業の構造は大きく変化する。産業においていわばゲームチェンジが起こるわけである。そこで我が国がどう勝ち抜くかという観点で、すぐできること、やるべきことについて検討した。これから向かう知識集約型社会においては、人口減少は経済成長にとって、もはや脅威ではなくなる可能性がある。今持っているストックを活かして、下段に書いてあるような人、知識、インフラの3つで強みを持てるかどうかが勝負の鍵となる。

これまで産業構造は労働集約型から資本集約型へ移行してきたが、今後、知識集約型への移行を加速させるために、先行投資を行うべき領域は3つある。1つ目は潜在能力の高い中堅・シニア人材の活性化。2つ目は、研究投資。国際求心力としての基礎科学研究力の維持、そして、超スマート社会に必須であって、かつ我が国が強みを発揮し得る技術群。

現在、世界では本格的IoT化の動きの中で史上最高の半導体投資ブームが到来している。日本にはストックがたくさんあるが、それが活用できるかどうかが今の勝負どころになっていると思う。3つ目として、非常に重要だと思っているのは、セキュアで超高速のネットワークとデータプラットフォーム。これはビッグデータを使うときに必須になる基盤。大学などを活用してインフラを整備し、それを民間開放するべきだと考えている。地方創生との関係でも、各地の大学キャンパス周辺に知識集約型の産業集積拠点を作るという点で、大学の活用の仕方があると思っている。

3ページは、こうした先行投資が進みつつある、東京大学の「つくば-柏-本郷イノベーションコリドー」の状況を示したもの。経済産業省と文部科学省との連携で進めている。前回この会議で議論になった大学資産の活用についても、先行的な取組を進めているところである。

知識集約型産業への移行に関しては、知とその活用の主軸となる人材ネットワークを持っている大学を活用すべきと考えている。もちろんそのためには大学改革を一層加速せねばならない。特に大学の投資価値を高めるための「プロデュース機能」の強化がポイントとなる。そして、大学の経営基盤の強化が重要。その点については資料の右下に「大学資産の有効活用」「評価性資産による収入確保」「イノベーションの成果の大学への還流」として整理した。この3点での制度改革を迅速に進めるべきと考えている。

最後に、未来への投資として私の立場から強調したいのは、やはり若手支援である。特に大学院強化や若手ポストの確保などが大学セクターでは非常に重要な課題。若者が研究する人生に夢を持てるような環境整備が必要。

(資料)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai6/siryou5.pdf

<松野文部科学大臣>

大学・研究開発法人こそがイノベーションの源泉であり、知識集約型経済社会を構築する鍵となる。このため、基盤的経費をしっかり確保した上で、意欲ある取り組みを妨げる課題を打破していく。具体的には、第1に、平等主義から脱却して、意欲ある組織や人材を伸ばすよう、スピード感を持って産学官連携体制を抜本的に強化する。このため、共同研究を集中管理し大型投資を呼び込む「オープンイノベーション機構」の整備や起業志望学生の海外武者修行支援などに取り組む。第2に、イノベーション力強化に不可欠な基礎科学力を強化する。このため、世界最高水準の基礎研究を実現する国際研究拠点の構築、人材育成、研究情報基盤の整備に取り組む。また、ベンチャーへの出資や新株予約権の取得の拡大等により、大学等が改革に必要な資金を自ら獲得できる環境を整備していく。

(資料)



http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai6/siryou6.pdf

<鶴保IT政策担当大臣兼内閣府特命担当大臣(科学技術政策)>

昨年12月、経済財政諮問会議との合同委員会で、科学技術イノベーションの活性化に向けた官民投資拡大イニシアティブを取りまとめさせていただいたが、その具体化の取り組みを進めさせていただいている。

予算編成プロセス改革では、官民投資拡大に向け、各省庁の取り組みに対し、内閣府が追加的に事業費を拠出できる制度を設けることとし、現在、そのターゲット領域の検討を行っているところ。制度改革アクションとして、国立大学へ土地や株などの評価性資産を寄附する際の譲渡所得を非課税とする要件の緩和、公共調達の活用等による中小・ベンチャー企業の育成や強化、技術ニーズとシーズのマッチングを推進し、各事業間の横断的な連携・交流を促進する科学技術イノベーションマッチングフォーラム、仮称だが、「サイエンスIMF」と名づけてこれを立ち上げたい。この検討をしている。

さらに、科学技術イノベーションの発展には、先ほど来、お話があるとおり、データの利活用は不可欠。来週、官民データ活用推進戦略会議を設置する予定。先ほど御説明があった農業分野のデータプラットフォームは、これまで取り組んできた標準化をベースとするものであり、今後、農業分野の他、医療・健康・観光分野等を含め、分野横断的な官民データの活用に、関係府省と連携して積極的に取り組んでまいりたい。

以上の取り組みを加速し、官民がともに成長のエンジンを最大限にふかし、科学技術イノベーションによる成長戦略の具体化を強力に推進していきたい。

(資料)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai6/siryou7.pdf

<松村経済産業副大臣>

イノベーション創出について、産学官連携を推進するため、柏にグローバル拠点を整備するなど取り組んできた。一層の加速を図るため、来年度より、文科省と連携し、共同研究による特許数などのデータを積極的に公表し、各大学の産学連携の状況を客観的に見える化していく。産業界におかれては、是非大学の優れた取り組みを評価していただき、積極的な投資をしていただけるよう、お願いいたしたい。加えて、特に産学連携の体制が弱い地方大学に対しては、先進的な技術移転機関などが契約や事業化のノウハウの伝授を行っていく。さらに、世界のトップ人材獲得に向け、日本版高度外国人材グリーンカードの創設など、我が国の極めてオープンな入管制度や生活環境の改善を海外へPRし、さらなる対応や受け入れ目標を具体化していきたい。

<南場議員>(株式会社ディー・エヌ・エー取締役会長)

イノベーションエコシステムについて、こちらに関しては大学の改革が不可欠だと思う。日本は人材が最大の資産であるにも関わらず、大学の競争力は相対的に高くない。そして、運営資金にも汲々としている状態。私は、大学はもっと開かれるべきだと思う。産学連携の促進は長く謳われているが、実際、企業が資金を提供しようとしても、様々な問題がある。大学に民間企業の視点や優れた経営人材の投入をすることで改革を牽引しない限り、何も変わらないと思う。

これまで政府においても様々な施策が動き始めているが、個々の施策のマグニチュードが小さ過ぎると感じる。例えば、運営費交付金の重点配分だが、そもそも評価方法が定性的で曖昧な上に、交付金の1%が配分対象になるなど、これでは大きな改革が望めないのではないか。

例えば、企業からどれだけ調達できたかに応じて交付金を割り振るなど、既得権益に絡まない合理的な配分方法を大胆に取り入れるなどして、経営マインドの巧拙を大学の死活問題にしてしまう方が早いのではないか。そのような本質的な議論をするべきだと考える。

<中西議員>(株式会社日立製作所取締役会長 代表執行役) 

もう一つだけ、オープンイノベーションについて。これもポジティブな話だが、五神先生から御紹介があったような話の一環として、私どもは、日立東大ラボというものを開設させていただいた。これ以外にも北大・京大を含めて、国内3大学とやっているが、その考え方は、最初からサブジェクトが決まっていることを共同研究にするのではなくて、いずれもSociety 5.0とか社会課題の解決に大学と企業がどう取り組んでいったらいいのかというテーマのディスカッションから始める。そうすると、大学の先生方も、経済学部の先生も法学部の先生も工学部の先生も理学部の先生も1カ所に集まって、非常に力のある素晴らしい方々にダイナミックな議論をしていただける。その中からテーマを拾い出して、具体的な研究ターゲットにし、我々からするとそれが一つの事業目標になっていくという展開が始まった。これは大いに期待しているし、こういうことが実際にできていくようにするためには、今はまだあまりお金がかからないが、その次は投資という観点がある。今、大学というのは投資というと、これは私どもがお話を聞くとびっくりするぐらいいろいろな制約条件があり、これもやはり規制改革だと思うので、こういう課題に是非真正面から取り組んでいきたいと、企業側も思うし、政府の方もどうぞよろしくお願い申し上げる。

<五神議員>(東京大学総長)

これからの大学改革で重要なことは、創造した価値を「売る」という観点で経営を行うこと。したがって、そういう意味でのプロデュース機能を強化することが肝になると思う。

Society 5.0における知識集約型経済は、ある意味で日本にとっては大きなチャンス。先ほども述べたが、産業構造の転換に伴い、いわばゲームの枠組みが変わるため、今までの状況を飛び越えてゲームに勝てる可能性がある。あらゆる面でのスマート化と産業の融合が進むので、第1次産業、第2次産業、第3次産業といった産業の境界も意味を失っていくことになる。その移行に際して、先ほどお話のあった農林水産業のスマート化には、これまで投資があまりなされてこなかったゆえに大きな伸びしろがあると感じている。

先日、東日本大震災で犠牲になられた方の追悼式に出席するため、本学の大気海洋研究所の研究施設がある岩手県の大槌町を訪問した。そこで聞いた話によると、震災後、海洋環境の変化が大きくなり長年の経験を持つ漁師さんでさえ、さまざまな予測が難しくなっているそうだ。ある養殖業について、ある時すごく良いものがたくさん獲れたと思えば、次の年にはまったく獲れないという状況だという話も聞いた。そこで、環境計測データをもとに、AIと大学の知とを組み合わせることで、効率の高い漁業を実現できるのではないかと考えている。その際、地方の公設試験研究機関や大学を拠点として活用していくことは非常に意味があると思う。

<安倍内閣総理大臣>

本日は、大学を中核としたイノベーションについても議論を行った。世界トップレベルの大学研究拠点が産業界と連携してイノベーションを生み出せるよう、2018年度中に2カ所程度に絞ってリソースを集中投下する。企業が連携相手となる大学を選べるようにする、各大学の産学連携への取り組みを比較評価できるデータを整備し公開する。

AI開発やビッグデータ処理を加速できる大容量の情報通信網を各大学が利用できるようにするとともに、大学構内で共同研究に取り組む企業も活用できるようにする。

関係大臣は連携して、以上を直ちに具体化してまいりたい。

2017年4月29日土曜日

記事紹介|大学の活動は、基本的に中立、社会全体に資すべきである

大学の使命

科学と社会の関わりは時代の宿命である。わが国は68万人の研究者を擁し、大学、国や自治体の公的機関、産業界などで様々な形態の科学技術研究が行われている。機関組織の社会的役割は多様であるが、個々の研究者が、どの組織において、誰の意思で、何の目的のために、いかなる具体的な研究をするかを明確にすることなく、秩序ある科学技術イノベーション振興のエコシステムは成り立たない。公的研究費総額は3.5兆円に上るが、諸府省の役割、推進方向は複雑に交錯する。産業経済界、国際社会の要請とも呼応しながら、国全体の活動の成果最大化に向けて整合的に制度設計し、司令塔としての指揮をとるのは内閣府であろうか。

今や研究者のほとんどは組織に所属し、個々の研究は意思者との契約のもとに行われる。従って、例え全く同じ具体の課題であっても、産業界であれば当該企業の方針に従う技術開発、ビジネス展開を目指す研究活動であるはずであり、府省庁傘下の公的機関であれば各々が定めた政策目標実現のための研究である。大学においては、当然「学術研究」である。

学術研究を支えるのは、広く国民社会からの(暗黙の)要請と期待である。その上で、憲法23条の精神に則り、大学には学問、研究の自由が保証されている。その対象は決して基礎科学とは限らず、工学、農学、医薬学などの分野では社会実践を目指す応用研究も盛んに行われる。多様な学術研究に共通するところは、研究者自らの「内在的動機」による駆動であり、制約を受けない自由闊達な営みが、真理の探究と人類福祉に大きく貢献してきたことは明白である。引き続き自律的な学術活動を維持するためには、大学が本来の社会的責任を強く認識することが不可欠であり、成果公開を通して、その特別な存在の正当性を担保しなければならない。良俗に反する活動のみならず、時代の流れに無関心な過度に自己中心的な振る舞いは、一般社会の支持を喪失し、さらに無用の権力介入を招きかねない。

大学教員は官民の戦略研究にどうかかわるべきか

大学は自治主権を堅持すべきであり、そのためにも今一度、教育と学術の府であることを再確認しなければならない。国の財政難の折から、資金源の多様化は不可避であるが、活動は基本的に中立、社会全体に資すべきである。国内外の限定的な資金提供者、経済強者への奉仕に偏ることは望ましくない。

筆者は産学連携の推進に強く賛同する者の一人であるが、1960年代後半に、産学癒着問題を争点とする激しい大学紛争にも遭遇した世代でもある。大学組織も個人も言われなき指弾を受けることなく、本来の使命に沿い規律を保ちながら活動することが求められる。

近頃世間が注目する防衛省による具体的な課題指定の軍事技術研究は、特定企業が主導する排他的な商業化研究などとともに、その意思の所在に鑑み、大学人の活動を束縛し、また大学組織の本来の整合的教育研究運営に支障をきたす恐れがある。従って内発的創意を尊重する学術には全くなじまない。

一方で、世界のパワーバランスの変化、国家間の衝突、高まるテロ、サイバー攻撃の脅威に対する危機感は、国の安全保障を司る防衛省に、自らに必要な科学技術知識の獲得を強く促す。であれば、まず防衛省が責任をもって充実した研究の場、研究者、資金その他の必要資源を用意すべきである。研究者は様々な専門能力をもち、価値観に基づく職業選択の自由もある。その政策に共感する大学人は、身分を防衛省に移し、確信をもって活動に専念するべきである。場合によっては、機関同士の一定の契約のもと、エフォート管理の上、兼業するなども可能であろう。国の存立にかかわる必須事項であれば、実現を可能にするための明確な法整備が必要であろう。さらに当該研究者の意向とは別に、関係する大学院生の教育には、特に慎重な配慮が求められる。

教員の利益相反、責務相反の回避

官民を問わずタスクフォース型の戦略研究には厳しい目標管理が必要であり、参画者には責任・義務が課せられる。教員が外部の職務活動に過剰に専心する結果、大学が定める本務時間の大幅縮減による不都合が生じてはならない。

外部連携活動による利益相反、責務相反の疑念は避けるために、ぜひ法的、倫理的に受容される仕組みを整備すべきである。米国では、大学教員には年間9ヶ月分の給与を払い、残り3ヶ月は教育義務から解放する。週1日の自由という選択肢もある。わが国でもクロス・アポイントメントのための法整備の上、教員が大学との契約に基づき、一定の期間外部組織ないし学内外に設置する「共同研究施設」において「非学術的研究」に専念すれば、責務相反は明確に回避できる。加えて、大学の人件費負担の軽減にいささかなりとも貢献することになる。

国民の信頼に足る科学技術イノベーションのエコシステムを樹立しなければならないが、その秩序の要は、大学人の使命の自覚、そして社会と大学の契約の精神の徹底である。

大学は公教育と「学術研究」の場である|2017年3月15日野依良治の視点 から

2017年4月28日金曜日

記事紹介|大学は本来の使命感を堅持しつつも、教条的な原理主義を排して、環境変化に責任をもって対応しなければならない

大学の本来の使命は、近未来を見据えた有為の人材の養成と、優れた学術研究である。しかし、社会の要請は時代とともに変化する。現代の「知の共創」の時代に、もはや旧来の象牙の塔的な存在に止まることなく、より発展的に機能を発揮し、多様な社会的価値の創造(イノベーション)へ貢献することが期待されている。大学は本来の使命感を堅持しつつも、教条的な原理主義を排して、環境変化に責任をもって対応しなければならない。

大学における自律性尊重の「学術研究」は、実は特例的な営みであり、官民を問わず一般社会における研究のほとんどは、組織の使命,目的により一定の制約を受ける。従って、大学が異なる制度下の組織と協力作業を行う場合には、それぞれの役割の本質を損なうことなく最大の効果を生むべく、予め明確な取り決め(法整備、契約)が必要になる。

大学と産業界の規律ある協力関係

「第4次産業革命」にともない、世界では破壊的な社会変革が急激に進む。米国においてはグーグル、アップル、テスラ社などのグローバルなプラットフォーマー企業が、圧倒的な資金力と人的ネットワークを背景に、基礎研究から技術開発、ビジネス展開までを包括したイノベーション活動を展開する。対抗企業群が不在のわが国では、現実を直視しつつ、産学連携を軸とする競争力ある社会横断的な共同活動が不可欠である。

わが国の研究費総額は世界3位、対GDP比3.57%比と極めて高い。ただし民間投資が72%、国の負担は僅か19%で、イノベーションに向けた両者の有効な混合が望ましい。実際、産学連携の強化は、現内閣における最重要の課題として議論されており、その結果、2025年までに、企業から大学、公的研究機関への投資額を現在の3倍の3,500億円に拡大する目標を掲げた。しかし、この投資が産業界の経営意志に基づくものである限り、その主たる目的は短中期的な産業力強化にあり、教育や学術振興のための自由資金(unrestricted fund)の「寄付行為」ではないであろう。

異なるセクターをまたぐ協同作業は、特定の目標を掲げかつて大学が経験したことのない形で実施されよう。大学と企業の価値観と慣習は著しく異なるので、同床異夢のご都合主義の産学連携は、本来の目的達成を阻み、またなし崩し的に大学組織の秩序混乱をもたらす。そこには互恵的効果を生む最も合理的かつ規律ある制度が必要となる。大学に旧来の役割の変化を容認、さらに積極的に推進を要請するのであれば、大学側にはそれに応じた組織の再編と新たな部署の用意が必要になる。また研究教育の波及効果の評価(impact assessment)についても、従来の論文至上主義を超えて自律的に議論すべきである。

国境を超えた資金提供への対応

研究は連続的であり、活動を支えるのは現行予算だけではく、それに先立つ実績である。かつて生物医学分野の優れた研究で有名な米国スクリプス研究所の経営方針をめぐって、知的財産の国外流出の観点から激しい議論が巻き起こった。私立の同研究所は、主に連邦政府機関である国立衛生研究所(NIH)から資金を得て研究成果をあげてきたが、経営危機に見舞われ、他国スイスの製薬会社サンド社(のちにノバルティス社)から多額の自由研究資金の提供を受けることとし、その代わり自らの発明の商業化の第一優先権を与えたからである。

日本国民から大きな負託を受ける国立大学法人は約6万人の教員を擁するが、その名の通り、身分や研究教育環境の相当部分が国費で保障されている。ならば、上記の様な研究成果の商業展開を企図する国外企業からの資金提供にいかに対処すべきであろうか。納得できる原則を定めて欲しい。

もとよりわが国の大学には、多く科学的発見、独自性ある技術発明があるが、しばしば潜在的価値が認められることなく、死蔵しがちであることは残念である。むしろ海外で注目、実用化された事例も少なくない。日本企業には是非とも鋭い鑑識眼を磨き、先見性をもって実用技術、ビジネスへと結実してほしい。さらに積極的に多くのスピンオフ企業の誕生をも期待している。

産学連携、人材養成、教育の整合性

大学がかかわるオープン・イノベーションは、単に個々の企業体、大学機関、研究者の経済利益だけに資するものではない。民間資金の提供も、大学組織の延命のためではなく、公共的存在意義を高めるためにあるはずである。多様な連携活動は、わが国の「超スマート社会」構築を通して、経済発展はじめ長期的な国益の持続に向けた制度として位置づけられる。従って行政には、連携を特定の企業と大学の当事者だけに委ねるのではなく、さらに高等教育に関わる法的整備も含め総合的な指導力を発揮して欲しい。

産業界は、短期的な目標達成を目指しがちであるが、さらなる未来の課題解決、知識資本時代を担うイノベーター育成こそが大学の最も重要な責務の一つであることを理解しなければならない。上記の新たな特別な環境で研究に携わる学生への学位授与問題、処遇と将来のキャリアーの保証は特に大切である。決して彼らを労働力として消耗させてはならない。大学院の教育研究のあり方にも密接に関係する。

国益に向けた大学と産業界の協力体制(その1)|2017年4月13日野依良治の視点 から


前回のコラムで述べたように、産学連携を効果的に進めるためには、双方が互いの立場を理解し、共同作業に関わる明確な取り決めが必要である。ここには公的機関を含む官の統合的役割があるはずである。今回は、さらに具体的な課題について考えたい。

産学官連携プラットフォームの整備

「知の共創」により多様な研究成果を最大化し、広く社会の繁栄をもたらすには、できるだけ多くのステークホルダーが、自らの資源を効果的に共用できる相当規模の公的プラットフォームの整備が必要である。多くの企業が集う国立研究開発法人の日本医療研究開発機構(AMED)とともに、国の研究戦略実現の要である理化学研究所、産業技術総合研究所、物質・材料研究機構、科学技術振興機構などには、その広範かつ高度な専門性を生かして、強力なハブ機能を発揮してほしい。

ドイツのフラウンホーファー協会は、国民の信頼にたる公的な産学連携制度の一例である。所長権限の所在、研究者たる資格(例えば企業経験など)、学生の進路も明確であり、円滑に運営されている。米国NSFなどの様々なプログラムとともに、英国の工学・物理科学研究会議(EPSRC)の先進製造センター(CIM)の仕組み(特定分野に焦点を当てた産学連携のための製造業プラットフォーム)も参考にしてはどうか。

「イノベーション特区」の設置

産学官連携を促進するには上記の公的ハブ機構の整備とともに、個々の大学機関に「イノベーション特区」を設置する必要がある。複数大学による共同運営もありうる。教育、学術研究を旨とする大学本体とは連携しつつも、価値観を異にする独立組織である。共同研究には、非競争的、前競争的、競争的と様々な段階があり、目標課題により実施形態も異なる。それぞれを如何に効率的に進めるか、この特区はメリハリを利かせた法的、倫理的に整合性ある組織でなければならない。当然、参加者の身分、職務管理の明確化が必要である。

研究立案、実行のみならず、資金の調達と運用、人事、渉外、安全管理、知財権などにかかわる、民間的な強靭かつ迅速な意思決定が求められる。組織内の円滑な管理運営にかかわる「バックオフィス」とともに、多様な外部連携を司る「フロントオフィス」機能が求められる。欧米のみならず、中国、韓国の大学におけるイノベーション事情を仄聞するに、旧来の縦割り行政的措置、学術的価値観や短期的な商業化視点だけでは、とうてい運営不可能である。

残念ながら、現在のわが国の経営者不在の大学組織では、イノベーションを目指す産業活動への対応は困難である。大学に残された時間は少ないが、個々の具体的課題の実践についても、大学人ではなく、例えば米国のDARPA研究のように敏腕のプログラム・マネージャーの登用が鍵となる。さらに国内外のイノベーション業務経験をもつ責任者の確保と有能な専門人材の育成が不可欠となる。

大学で発生する情報リスク

大学は公器であり続ける。主に文部科学省と「日本学術振興会」からの公的資金に支えられる「学術研究」には中立性と公開性が求められる。大学内における様々な外部組織との共同研究も同様に扱われるはずである。他方、他省庁の特定政策目的研究、さらに私的資金による、時には国境を超える経済産業活動はこれとは一線を画し、知的財産権の独占、発明技術の秘匿や不正流失への対処も不可欠となる。研究成果公表の制限もあろう。オープン・イノベーションとは、目的実現にむけて知識や技術を広く持ち寄ることであり、決して公開で共同作業することではない。外部に広く開かれ、データ管理の不統一、情報機器の公私取り扱いの区別も怪しい現行の大学研究室で、果たして知財、情報セキュリティーが守れると断言できるか。

世界経済フォーラムは「グローバルリスク2017」の中で、情報通信技術の普及に伴って、データ不正またはデータ盗難を最も発生可能性が高いリスクTop5の項目の一つとして挙げている。教員とともに博士研究員、大学院生にあまりに危機意識がないが、問題が起こってからでは取り返しがつかない。「危なくて、大学とは共同研究できない」との企業の声もあり、再度しっかりと職務研修を実施し、安全、安心を保障する強靭な共同プラットフォームを構築してほしい。

国益に向けた大学と産業界の協力体制(その2)|2017年4月21日野依良治の視点 から

2017年4月27日木曜日

記事紹介|危機打開のためには意識変革とともに、根本的な研究体制改革の工夫がいる

創造の源は研究者の多様性と流動性

大学は未知に挑む研究を行い、明日の社会を担う若者を育む。そして、近年の社会情勢を鑑み、さらに移り変わる将来を見据えれば、教員、学生の画一化が研究教育の停滞を招くことは当然である。背景の多様性こそが想像力を刺激し、創造に向かう活力の源となる。意図して、教員と学生の多様化を図るとともに、教員の内部昇進は一定割合にとどめて、格段に流動化を促進しなければならない。

有能な教員は流動する。ドイツでは、21世紀初頭までは学内昇進は禁止されており、現在でも特例的に許容されているに過ぎない。この国では有名大学からの招聘は大きな名誉とされ、受諾しなくても履歴書にその事実を載せる人は多い。周知のごとく米国の有名大学では、一学科内の教員の出身大学は様々で、母校の学位取得者は非常に少ない。わが国でも岡崎の分子科学研究所は創設以来、内部昇格を禁止して国内の人事流動に大きく貢献してきた。

大学、研究機関は外部者を、礼を尽くして招聘するのであり、有名機関であっても「採用してあげる」のではない。実は、多くの大学にとって、外部、とくに外国籍の有力候補者に対して就任を要請し、受諾を取りつけることは容易でない。すでに魅力ある環境で相当の処遇を受けていることが多いからである。彼らが新たな環境で、家族とともに日々誇りをもって活動できるか否か、研究環境と生活環境の双方が大切で、俸給や研究費は条件の一部でしかない。大学所在の地域社会を含め、わが国全体で総合的に克服すべき課題である。

もとより学閥や年功序列は避け、広く若者に挑戦の機会を与えるべきである。私が長じて、いささかなりとも評価される業績を残せたのは、学位取得後間もなく29歳で、母校である京都大学の工学部を後にし、全く縁のなかった名古屋大学の理学部に転じ、新たな独立の場を得たからである。決して優秀だからと選ばれたのではない。まだ年功を重んじる時代であったが、名古屋大学がある種の直観により、実績ある年配者ではなく、若く未知数な私に賭けたにすぎない。あとは最大限に自由を与え、適宜支援をしつつ、幸運を待つだけであった。ハーバード大学の名学長であったジェームス・B・コナントの方針にも通じるが、海外では、外部の若手の登用は、ごく当たり前で特別な出来事ではない。

テニュア・トラック制度とは

しかし、いかに慎重であれ、若手の採用は大学にとってリスクが伴う。もちろん若手教員自身にも責任が伴う。そこで、多くの国の大学がテニュア(終身在職権)制度をとる。例えば米国では、教授(Professor)と相当割合の准教授(Associate Professor)にテニュアが与えられるが、30歳前後の新採用の助教授(Assistant Professor)に、いきなりテニュアが与えられることはほとんどない。独立裁量権をもつPIとしてテニュア・トラックに乗り5~7年後に業績審査を受ける(有能者には途中で外部招聘がかかる)。審査後の処遇は「Up or Out」で、合格すればテニュア付きの准教授、時には一挙に教授に昇格し、不合格ならば転出する。問題先送りの助教授留任はない。もとより外部の評価意見も含め判断は主観であり、不合格は決して失格を意味しない。創造的であれば、他大学に転じて成功する機会は少なくない。また教育重視の小規模大学への転職を望む人も多く、大学も当人の意向を支援する。まことに明快な制度ではないか。

研究社会は基本的に競争的である。わが国でも、若者は自立して自らの活動に責任を取らねばならない。テニュア・トラック制度は、適切な条件のもと評価を経た上で、内部昇格を認めるものである。公正かつ躍動感あるこの制度を全国的に徹底させるべきである。

ポストをめぐる激しい競争

自然科学系の多くの博士号取得者は、研究分野の幅を広げるため、また新たな技術を獲得するために博士研究員として、国内外に武者修行に出かける。分野によっては不可欠条件のようである。しかし、彼らの多くが望む大学、公的研究機関のポストは限定され、世界的に需給バランスの乖離が深刻な状況にある。分野により開きが大きく、多機関を歩く人も少なくない。最近では、新しい遺伝子編集技術CRISPR-Cas9システムの発見者の一人として注目されるエマニュエル・シャルペンテイエ女史(現マックスプランク感染生物学研究所長)が、25年間にわたり5カ国9機関移動してきたことが話題になっている。

近年の米国では、環境工学が最も競争が厳しく19人に一人、多くの人数を抱える生物医学系では、6分の1以下しかテニュア・トラック雇用の機会はない。通常の工学分野では2分の1以下程度とされるが、MIT(マサチューセッツ工科大学)の助教授職には400名の応募者が殺到する。日本の自然科学分野においては、約15,000名の博士研究員、ほぼ同数の新規博士号取得者たち、そして潜在的には相当数の海外研究者を候補者として、年間推定8,000程度の大学・公的機関雇用のポストが用意される。うち、テニュア職は3,000程度にとどまる。厳しい競争率を緩和すべしとの声は大きいが、公的資金で維持するアカデミアの現体制が続く限り、大幅な改善は望めない。若手研究者もぜひこの統計値を直視してほしい。危機打開のためには意識変革とともに、何らかの根本的な研究体制改革の工夫がいる。

社会流動性が不可欠である

多大の資金を投入して特別に育てた知性を、「社会総掛かり」で有効活用することが、唯一の抜本解決への道である。若者の救済雇用のためではなく、国力の維持、向上のためである。研究界はスポーツや芸術界と同じく、精神の解放に向けて若者にとって魅力的ではあるが、同時に極めて選択的、厳しい世界でもある。博士研究員たちには、これまでの公的支援に感謝しつつ、政府、産業経済、教育界などに広く目を見開き、社会のリーダーとして活躍する気概をもって、そのための研さんを積んで欲しい。他に魅力ある職業は多い。一方で、科学を先導するPIは博士研究員を単なる労働力として消耗し、使い捨ててはならない。アカデミアに留まる者がごく少数派であることを再認識のうえ、採用時から責任をもって指導し、有為の人材として社会に送り出す義務を負う。「学学流動性」だけでなく、より開かれた「社会流動性」の実現が待たれよう。もとより、先立つ大学院教育は分割細分化を避け、彼らの幅広い社会適応能力を培わねばならない。

研究者の多様性と流動性、そして若手の機会|2017年1月10日野依良治の視点 から

2017年4月26日水曜日

記事紹介|学長は「学部の自治」を超えて、いかに自らの命運を握る人事選考の正当性を担保しているのだろうか

優れた若者、女性、外国人の登用

世界に輝く大学にはそれぞれ特有の伝統があり、それを担う存在感ある年配教授、躍動感ある若手がいる。現代社会は様々な才能を求めており、わが国の大学もそれぞれに、夢多き入学希望者に対して特徴ある教育研究の方針と誇れる成果を開示して欲しい。そして、それを生み出す教授、准教授、助教たちの適切な登用制度と活動の条件を整備しなければならない。価値観の画一化を避けるためには、まずは「若者、女性、外国人をlabor からleaderに」の積極的施策が必要である。

大学はそれぞれに一貫した理念をもつはずである。学務の総責任者である学長の指揮の下、任命された学部長(研究科長)や学科長(専攻科長)は、中長期の「将来計画」を立て、ときには修正しながらも、理念実現に向けて適正かつ柔軟な人事を行わねばならない。具体的な研究教育活動は、それぞれに自立した教員に委ねられるので、人事の機会こそが将来の発展の鍵を握る。固定化した教員組織ありきでは、時代が求める研究教育の設計と実行はありえない。

グローバル化時代に、もはやいずれの国の大学も、優れた教員の必要数を、自国だけでは充当できない。幸いにして、世界には日本国内の十倍程度の研究者がいる。ある分野の教員任用に際して、身近な者が最適任であることは、特殊な例を除き、ごくまれである。

開かれた人事制度の確立

もとより人事には秘匿事項が多い。しかし、開かれた公器である大学は、それぞれに招聘、昇任、公募人事を問わず、プロセスの原則を明確にすべきである。まず、人事権行使と候補者評価の分離が必要であり、両者の混同は利益相反を招く。教員を採用するのは法人である大学であって、各々の学部や学科、ましてや年配教授個人ではないからである。ところが、わが国では大学の一構成員に過ぎない教員たちの間で、勘違いが甚だしい。さらに、大学人事が余りに内向き、密室、場当たり的で公正感に乏しく、不透明感が著しい。

現実には専門性が高いので、人事委員会等の助言を経るが、研究者の評価は世界標準で、広く意見を求めるが良い。私も外国の多くの大学の教授招聘、昇任、若手採用などの評価作業にかかわった(日本の大学からの依頼はない)。しかし、私の役目はあくまで、候補者の専門的研究業績、能力、国際社会の評判、同年代者間の将来性比較などの陳述に止まる。私は当該関係者と利害関係がなく、また責任ももちえない。実際の任用にかかわる諸々の境界条件を提示し、人事行使できるのは当該大学に限られるからである。

教官人事は、当該研究科(学部)、専攻(学科)等の組織の研究教育の質、分野のバランスの向上、取捨選択のために行われ、すでに在籍する特定の教員のためではない。科学は迅速、時に非連続に進展拡張するため、組織の現状維持は相対的退歩、老化を意味する。若手教員の新規採用こそが、一定規模の組織の「代謝」を促す絶好の機会を提供する。職位を問わず「独立研究者」として評価する人事プロセスの繰り返しが、体質改善に決定的効果をもたらすのである。

日本の人事制度の課題

2007年以来、法により教授、准教授、助教は独立した存在と定められている。一方、日本の旧来の垂直統合型体制においては、研究室主宰の教授が、ともすれば若手准教授、助教を自らにとって都合の良い「協力者」として選び勝ちである。その結果、他国に比べ各研究室の教員数は多いが、専攻(学科)組織全体としての知の幅は広がらず、当然新領域も生まれ難くなることは当然である。慣習がもたらす累積効果の差は明らかであり、わが国が世界の潮流に遅れがちな大きな原因でもあることを強調しておく。

さらに重要な教授人事も慣例に流され、選考プロセスと実質的意思決定主導者が不明確な場合が多い。大学の自治を統括する国立大学学長は、「学部の自治」を超えて、いかに自らの命運を握る人事選考の正当性を担保しているのだろうか。

大学は一義的には教育機関であり、社会もまず良質の教育活動を求めている。それぞれの教員に対する役割に応じて実績評価とともに人物評価も欠かせない。特別な「研究教授」がいても良いが、万人が尊敬するような研究者は例外である。学長から見れば、教員は大学が掲げる目的の実現に向けて「掛け替えのない存在であるか」、円滑な組織運営のために「感謝すべき存在であるか」であって欲しい。「自分に勝手都合が良いから住みついている」教員の存在は、大学にとっては迷惑至極である。教員活動の評価は、まずは独立した法人である大学が自らの視点で評価すべきで、行政が画一的かつ事細かに指示すべき性質のものではないはずである。そして、大学その消長の鍵を握るのは、社会とともに生きる自らの意思である。

あるべき大学教員人事|2016年12月19日野依良治の視点 から

2017年4月25日火曜日

記事紹介|旧態依然の文部科学行政の優柔不断と大学内の理不尽な慣習を排し、抜本的改革を断行する

日本の科学研究活動は劣勢にある

今世紀初頭に、日本の科学研究活動が米国、欧州とともに世界の三極の一つに位置していたことは明確である。近年のノーベル科学賞受賞状況は、往時の活動の反映である。今日でもわが国の多くの研究者が、世界を先導する素晴らしい研究成果を出し続けており、さらに若い世代の研究の斬新さにも感銘を受けることは少なくない。

一方で、わが国の大学ランキング、理工系研究論文指標は全般的に著しい低迷を続ける。この10年間に、Times Higher Education誌における上位200位以内の大学は10校あまりから2校に減った。アジア圏においても旗色は芳しくない。研究論文の被引用数についても、トップ10%論文は4位から今や10位に低下し、イタリア、カナダ、オーストラリア、スペインの後塵を拝する。さらに1%論文では12位に甘んじる。中国は米国に次ぐ2位で、もしこれを論文の質と捉えるならば、質量ともに劣後することになった。残念ながら、この低落傾向は分野を問わず全面的かつ経常的である。これらの数値と研究力の関係には疑問が残るものの、より総体的な見地からも、わが国の相対的地位の低下は間違いない。

日本の教育研究体制は世界標準ではない

いったい、この劣勢の根本原因はなにか。もとより公的財政支出の不足が一因であるが、私はむしろ、わが国の大学の世界標準でない異形の教育研究体制によるところが大きいと考える。確かに日本の制度に多々良いところはある。しかし「The World Is Flat(トーマス・フリードマン)」の時代に、世界の共通の体制に背を向けた昔ながらの特殊性だけでは、国際競争力をとうてい保ち得ない。旧態依然の文部科学行政の優柔不断と大学内の理不尽な慣習を排し、抜本的改革を断行する以外に再生の道はない。

若い世代が明日を創る。彼らに十分な機会を与えることが最も大切である。この観点から私が最も強調したい不都合は、2007年の学校教育法改正の不履行である。国立大学の教授、准教授、助教は全て独立裁量権を得て、教育研究を行う権利と義務をもつことになった。旧来の教授、そしてその業務を助ける助教授、助手からなる垂直統合型の講座制からの転換であるが、その後10年経つ今も、実態としてこの法律がほとんど守られていない。しばしば教授たちからは「うちの准教授には自由に研究させているよ」と聞くが、「うちの」と「させている」は余計で、自由独立はすでに法的に保証済みである。

次世代が未来を設計する。囲い込まれた若手研究者が、日々の受動的業務に追われ、日進月歩の科学全体を俯瞰する習慣、あるいは科学技術政策に触れる機会が乏しいのではないかと懸念している。

若手研究者が活躍できる環境とは

「昔からこうだった」は通らない。私も50年前には大学の助手であった。当時の任務は、講座担当教授の職務を助けることと法的に定められ、講義をすることはなく、学部学生の実験を指導し、先生の分野の研究とともに大学院学生の相談に乗ることが仕事であった。従って、英文の履歴書には職名をInstructorと記してきた。現在でも分野により助手の職名は残るが、理工系の助教は国外にはAssistant Professorと名乗るようなので、独立した立派な教育研究者である。

もとより個人が孤立しては意味がなく、高い目標を定めた共同研究の推進が必要である。そのためにこそ、大学所属の各人は職位を問わず、責任研究者(Principle Investigator, PI)として自立し、自らの発想と意思で柔軟に「チーム」を組織しなければならない。PIは定義上、自らの能力で研究費を用意し、研究協力者を集めることは当然である。研究費を取得しない教員は、学内外のPIの協力者として研究するか、教育に専心することになる。これもまた自由である。

一方で、大学院生は教授の無給の所有物ではなく、すべてのPIの有給研究協力者たり得るはずである。旧来の、予め固定化した徒弟制の「グループ」が、時代の変化に迅速に対応できないことは明白である。そして、若い研究者たちの自律的な学際、国際、産官学共同活動が最大の成果をもたらすことも、すでに証明済みである。なお、大学機関に所属せず、研究費による契約雇用の博士研究員については、その自由な発想が尊重されることは当然ながら、制度上は課題達成のために当該PIの指揮下にある。

若手研究者の創造を促す支援体制を

日本と異なり諸外国の大学においては、同じ大学、同じ専門学科内の徒弟的共同研究は極めて少ない。なお、これからの変化を牽引する現在25-35歳のミレニアル世代の若者たちは、特に価値創造に適した対等型、自律型、協同型の組織を好むとされている。決して、彼らの自主性を阻むことがあってはならない。

大学院研究科のそれぞれの専攻は、一定の理念を共有しながら教育研究にあたるはずである。しかし、封建的旧制度の講座、研究室主宰者が若手教員の自由を束縛すれば、当然独立PIの総数を限定する結果となる。当該研究グループは一定の規模を維持するものの、当然専攻全体の教育研究の幅を著しく狭め、また生産性も減少することになる。昨今わが国では、若手の挑戦機会が限られるため、他国に比べ新領域開拓が極めて低調である。常に先端科学、技術の開拓に出遅れるのはこの理由による。例えば、急速に発展する人工知能(AI)関連の論文のシェアもわずか2%(他分野並に7%を期待)で、米国の57%、欧州の18%に大きく差をつけられている。

若者特有の柔軟な発想、そして他との連携こそが創造を生むことは間違いない。従って、若手、外国人が独立して十分に活躍できるように研究体制を抜本改善せねばならない。加えて、大学はいずれの職階の研究者も、9割以上の時間を教育研究に傾注すべく、十分な支援体制を用意すべきである。現在「忙しすぎる」教員があまりに多い。

なお付言すると、自律的研究がすべてではないことは自明である。ある種の国家的戦略研究については、目標管理型に必要規模の強力な組織を編成することにより、是が非でも一定期間内に実現しなければならない。しかし、これは大学には馴染まず、国立研究開発法人の役割である。

大学は「徒弟制度」からの脱却を|2016年12月5日野依良治の視点 から

2017年4月24日月曜日

記事紹介|大学研究者に責任ある経営は難し過ぎる

昨年のノーベル生理学・医学賞受賞者である大村智博士が「研究の経営」の大切さを指摘されたことが、強く印象に残る。自らの微生物化学研究をもとに、科学の発展のみならず人類社会に大きな貢献をされ、さらに北里研究所の財政を再建された。大学人ながら文部(科学)省からの研究支援は極めて少なく、しかし国内外の社会の共感を引き寄せながら、自らの研究哲学を実践された。温厚なお人柄ゆえに、控えめに発言されるが、わが国の行政と国立大学への目は非常に厳しい。自らの経験を踏まえて、社会の様々な局面を片手間ではなく猛勉強しなければ、通常の大学研究者に責任ある経営は難し過ぎるとされる。

日本の教育研究の不振の原因が問われて久しい。大学教員や研究者がこれほど勤勉に働くにもかかわらず、成果が思わしくない。日本経済における最大の問題点である労働生産性の低さと軌を一にしないか。先進7カ国の中で最低で、労働者一人当たりの付加価値が、米国の7割以下に過ぎないのは、多くが真面目な勤労者の能力が原因ではなく、経済界全体、企業経営の仕組み自体に問題があるとされる。

大学の経営は営利目的ではなく社会的責任の遂行を原動力とするので、時代に適応できる経営なくして存立し得ないことは当然である。私はまず、経営を司る理事長職と学務に責任をもつ学長職の機能分離が不可欠と考える。わが国には、個々には優れた研究者、教育者はいても、残念ながら求められる指導者が欠如、leadership crisisの事態にある。組織全体も財政構造が脆弱であり、国際関係を含め機能的にも不全である。今回、国立大学は機能別に3類型化されたが、社会の負託に応えて生き続けるには、それぞれに異なる格別の経営的技量、経験が必要である。当然、旧来の内向きの教育研究者の統括能力を超えることが多い。特に大学院経営には、様々な社会の要請との整合が求められる。

一方、学長は組織の経営基盤と状況を理解しつつも一定の距離感を保ち、学問的、教育的観点から一貫性ある理念を具現すべく大学の学務を指揮することになる。一般に、国立大学に比べ、私立大学において優れた経営がなされているようにみえる。共産党一党支配の中国では、大学の経営政策を握るのは党から派遣された書記で、学長は教育研究運営に専念する。少なくとも自然科学系については、今のところ不具合は見当たらず、着実に発展を遂げている。

学長は、外部招聘を原則とすべきだと考える。広範な調査を経て、最適の人を任命することが望ましい。安易に学内選挙あるいはそれに準じる方法で選出しているようでは、世界に伍して生きていくことはできない。現在、ほとんどの選出者が学内出身であることを見れば、制度的に国内外を広い視野で把握し、最適者を選んでいるとは、到底思えない。

諸外国では、国境を超えて激しい指導者争奪戦が繰り広げられる。国により一定の境界条件はあるものの、文化的に近い米英間のみならず、諸国の国立大学でも外国人を登用するところは多い。シンガポールの南洋理工大学(NTU)学長はスウェーデン人、サウジアラビアのアブドラ王立科学技術大学(KAUST)は、初代学長をシンガポール国立大学から、ついでカリフォルニア工科大学から招いて成功している。

わが国の学長は聡明であっても、しがらみに囚われて総じて内向きで慎重、迅速な決断力を欠く傾向にある。より広い視野と経験が必要であろう。中国では中国科学院傘下の研究所長および重点大学の学長の約7割は留学経験者であるとされ、しかも40歳代から50歳代が多く活力に満ちている。翻って日本の状況を省みれば、日本でも早急に専門職業的な学長候補者の育成と、少なくとも最適者任命に向けた国内の流動化が求められる。

教育研究を経営する|2016年9月28日野依良治の視点 から

2017年4月23日日曜日

記事紹介|国立大学の「国立」の呼び名は、国家や国民の誇りを意味する格別に賦与された名称である

今後とも大学は「文化的存在」ではあり続けるであろう。しかし、今日では加えて「文明の牽引者」であることが求められる。そして残念ながら、日本国民の教育研究に対する信頼性は万全とは言い難い。

わが国は1,000兆円を超える公的債務を抱え、きわめて厳しい財政状況にある。にもかかわらず、巨額の公的資金が高等教育、科学技術社会へ投入されるのは、いまだ大学、公的研究機関に対し期待をつなぐ証拠ではある。今年度の一般会計歳入の実に35%が国債に依存するが、国立大学運営費交付金、科学研究費ともに、前年度水準を維持した。合わせて第5期科学技術基本計画発足に際し、従前を上回る26兆円の政府研究開発投資の目標を設定した。しかし、消費増税先延ばしで、来年以降財源をどこに求めるのか。加えて、英国の身勝手なEU離脱も、わが国を含めて世界経済に大きな影響を及ぼすであろう。国内外の諸事情を勘案すれば、過大な国費依存からの脱却はもはや不可避と思えてならない。

もともと憲法23条が規定するアカデミアは、二つの「じりつ」自立と自律を旨としており、国家の介入は最小限にとどめるべきである。自治的存在であるアカデミアは社会のためにあるが、社会と国家は同義ではない。旧態依然たる国有、国営的な依存体制ではなく、変化する時代に適応しながら、自らの知恵、能力で気概をもって生きる人材を輩出する研究教育システムを編み出さなければならない。世界水準の教育を行い、卓越した研究成果を生み、さらに「Society5.0」の標語のもと超スマート社会の形成に向けて貢献して欲しい。

国立大学法人の3類型化と国立研究開発法人制度発足による制度改革は、中央集権から分権、あるべき分散への移行を促す。とくに第1類の小規模国立大学が外に目を向け、柔軟かつ大胆な連携により、独自に輝く存在たり得ることを期待している。果たして国力の源泉たる人材養成と研究成果の創出の機会となるか。さもなければ、公的教育研究制度としての持続可能性は予断を許さない。

国立大学、国立研究開発法人の「国立」の呼び名は、国家や国民の誇りを意味する格別に賦与された名称である。国力の源泉であり、その価値は広く公共社会から認識されるものであるべきであり、国益のみならず、人類益に向けた役割を自ら実行する機関である。英国では「国立(national)」の代わりに「王立(royal)」と呼ぶが、決して王室や国家が財源を措置するものではない。つまり「国立大学」は象徴的名称であって、国が全面的に責任を負い管理運営する「国有大学」を意味するものではない。昔「日本国有鉄道(国鉄)」があり、創立当初は国家の建設発展に大きく寄与した。しかし、時を経てその運命は惨めであった。わが国が世界に誇る新幹線開発を始め、技術的には高水準を保ったものの、疲労した経営体制は、変化する時代に対応できなかった。あらゆる既得権者の保護は、必ず負債を残す。

時代は変わった。現代のあるべき教育研究を阻むものは何か。もはや一国では生きられず、国内外のあらゆる資源の活用が必要である。しかし、なぜか行政は国営の慣習にこだわり、外的資源の獲得、利用に消極的である。ここに独立した法人格をもつ国立大学に、変わらぬ行政とのもたれ合い、国家依存症がまん延してはいまいか。心して、国鉄の轍を踏むことは回避したい。

国立大学は「国有大学」ではない|2016年9月6日野依良治の視点 から

2017年4月22日土曜日

記事紹介|パノプティコンの独房

首相官邸の裏のビルに国家安全保障局(NSS)がある。安倍晋三首相が外交・安全保障政策の司令塔として設置した国家安全保障会議(NSC)の事務局でスタッフは約70人いる。

数年前、ある男性はスタッフになることが決まった直後、こんな経験をした。

「中には監視カメラがありますから」

説明役の参事官から言われた。監視カメラはコピー機の近くを映すようになっている。

採用が決まって数日、居酒屋や喫茶店に入ると、いつも近くに同じ人が座っていた。声をかけられるわけでもない。ただ、近くにいた。

早朝、日課の散歩に出ると、日頃は見かけない場所に黒い車があった。自宅近くに戻ると、また同じ車があった。家族がゴミ袋を捨てた。自宅にもう一つの袋を取りに帰り、ゴミ捨て場に戻ると、直前に出していたゴミが消えていた。それも家族が捨てたものだけ。

単なる思い過ごしや偶然かも知れないが、男性は気持ち悪さを感じた。

NSSは、情報を漏らしたら罰せられる「特定秘密」を取り扱う。関わる公務員や民間人は「適性評価」を受ける。例えば、家族の国籍、飲酒の節度、病歴、借金の有無なども調べられる。

採用する職員は口が軽くないか。外部のどういう人間と接触しているか――。情報漏れを防ぐため、管理を徹底することは組織の性格上、当然だろう。こうしたことは数日だけ。だが、最初に感じた気味悪さは、なかなか消えない。

NSSで働くスタッフは携帯電話を持ち込めない。報道機関の記者からかかってきた卓上電話には出にくい雰囲気になり、居留守を使うスタッフがいる。

徹底した情報管理はNSSだけに限らない。

経済産業省で2月、職員へ二つの決定が周知された。執務室を日中も原則施錠すること、そして「プレス対応の改善」と題した内部文書だ。こう書いてある。「取材は、広報室を通じて申し込むことを原則にする」「取材対応は、管理職以上に限る」

この措置の背景に、ある「事件」との関連性が、省内でささやかれている。

2月の日米首脳会談に先立ち、朝日新聞など複数の報道機関が日米経済協力の検討案を報じた。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の資金活用などを盛り込んだ案で、経産省が関わっていた。

報道が出た途端、野党から「年金は国民のお金。トランプ大統領に日本から、おみやげのように出すのは、どうか」と批判が噴出。首相は国会で否定の答弁に追われた。首相官邸幹部によると、この一件で菅義偉官房長官が経産省に対して激怒したという。

世耕弘成経産相は記者会見で「個別案件とはまったく関係ない」と述べ、この件との関連性を否定。「企業情報や通商交渉に関する機微情報を扱っている。私が就任当初から問題意識を持っていた」と施錠の正当性を強調した。

報道機関でつくる記者クラブ「経済産業記者会」は、施錠や内部文書の撤回を世耕氏に文書で求め、取材対応は一部緩和されたが、施錠は現在も続く。取材内容に関わる担当職員の在席が確認できず、取材は制約を受けている。

経産省は通商産業省時代から、開け放たれた大部屋の入り口から他部署の職員や民間企業の社員まで入ってきて自由に議論を交わし、縦割りの弊害を減らす。そんな気風があった。今回の措置で、過去のものとなりつつあることを同省幹部は嘆く。「息苦しい。風通しのいい経産省はどこに行ったのか」

別の幹部は「今回の対応について大臣や事務次官に官邸からの指示はなかった」と明かす。「1強」官邸におびえ、自ら内に閉じこもろうとする。「パノプティコン」の独房を自ら作るかのようだ。

菅長官激怒、すくむ経産省 報道対応、自ら突然の規制|2017年4月22日朝日新聞 から

記事紹介|大学の淘汰と再編

政府の経済財政諮問会議(議長・安倍晋三首相)の民間議員は25日、「国公私立大学の枠を超えた経営統合や再編」を提言する。若者の都市部流出などで私立大の経営悪化が深刻さを増しているため、国立大学法人が救済する形で経営安定を目指す。国立大を受け皿にした異例の集約化を通じて乱立する私立大の整理・淘汰を進め、大学教育の機会と質を確保する。

文部科学省の「私立大学等の振興に関する検討会議」が5月にまとめる報告書にもこうした検討課題を盛り込む。提言や報告を受け、6月に政府が策定する経済財政運営の基本方針(骨太の方針)で、大学教育の見直しを訴える。今後、中央教育審議会で議論を進めていく。

民間議員の提言は、教育の質を高めて地方創生やイノベーションを担う人材を育てると同時に、大学を淘汰・再編して有望な研究開発に資金を回す狙いがある。従来は教職員数や学生数で配分を決めている私学助成も、教育の成果に見合った額を出す仕組みに転換。大学が自主的に資金を集められるように、土地などの形で寄付を受けやすくする制度作りも促す。

これらの取り組みで経営改善が進まない場合は、大学同士の再編も強く押し進めていく考えだ。

現在は1つの国立大学法人が1つの大学を運営するが、傘下に複数の大学を抱えられる「アンブレラ法人」に移行することを認める。国立大学法人法を改正し、制度改革を可能にする。将来は国立大を持ち株会社のようにして私立大を傘下に入れる統合も視野に入れる。分野や地域ごとに大学を集約する狙いだ。

私立大は国立大の傘下に入ることで信用力を高め、教員などの人材を派遣してもらうなどして経営の効率化をはかる。民間出身の経営者を受け入れ、産業界との連携強化も探る。再編のメリットが少ない場合は、円滑に閉鎖するために教員や学生、習得した単位を引き継ぐ方法も検討する。



2000年以降、少子化にもかかわらず四年制大学は2割(130校)増えた。乱立による経営悪化で10年以降に10校以上が閉校・募集停止している。「文科省はいい事例をつまみ食いするだけで全体像を見せない」(経済官僚)との声も高まった。教育基盤の劣化は研究力低下などで長期的に国の成長減速にもつながるため、踏み込んだ措置が必要と判断した。

地方では大学進学や就職時に地元を離れる若者が多い。4割強の私大が定員割れしているが、教職員の確保や先端研究に投資ができず、さらに人気が低下する悪循環が強まる恐れがある。地方自治体も地方創生を担う人材が育成できなくなる危機感があり、地元産業界とも協力できるプラットフォームとして大学の経営支援を国に求めている。

実現に向けては課題も多い。文科省は進学率の低さを理由に、大学は必ずしも過剰ではないとの立場だ。大学の見直しでも、国立と私立間の人材の融通など緩い連携案を模索するにとどまる可能性がある。国立大を軸に再編することには私大側の反発も予想される。

同日の諮問会議では社会資本の整備もテーマとなる。各省庁が別々に整備しているインフラデータの集約や、遊休小中学校を活用して地域全体で高齢者を支える地域包括ケア拠点にすることも提言する。遊休不動産や所有者の把握が難しい土地を地図データとして整備することも目指す。

私大再編、国立傘下で 地方で定員割れ深刻 諮問会議の民間議員提言へ|2017年4月22日日本経済新聞 から

記事紹介|国立大学経営のモデルチェンジ

世界の科学技術に関する種々の指標において、我が国の地位低下が顕著になっている。その原因は複合的であるが、簡潔にまとめれば、論文生産で中核を担っている国立大学法人への運営費交付金が抑制されてきたことが、研究活動に振り向けられるマンパワーの総量を大きく削減してしまっているので、論文指標による成果の伸びが競争相手の国々に比して、見劣りする状況が続いているということである。その結果、博士課程に進学する者が減少する珍しい国になっている。産学連携の規模は一部拡大傾向はあるが、大半が2百万円程度の小規模に止まっている。危機感を強めている大学人からは、予算措置の充実を求める論説がさまざまな場で展開されている。真っ当な意見であるとは思うが、国の予算不足は科学技術や高等教育の分野だけではない。何度でも主張することで世間の理解は深まるかもしれないが、平成30年度予算編成の中で、特に重点措置を期待しても、実現は困難だろう。国の予算措置を期待する戦略がうまくいかないのならば、別の方向に、資源獲得、効率執行の新たな手段を求めるべきではないか?そのためには、旧来の経営モデルを改革する必要があるので、正しい方向に舵を切るというのが、経営責任者のなすべきことではないか?従来から指摘してきたことも含むが、具体的な論点を以下に述べたい。

第1に、受益者負担の強化である。授業料収入で最大限の増を、中期的に確保することである。外国人留学生の授業料も2~3倍にすればよい。国に対しては、収入増に伴う交付金減額措置を一切しないこと、家計からの授業料支出を所得税控除対象にすることを要望すればよい。国の財政状況に鑑みれば、施設整備に対する支援が追い付かず、残念ながら老朽化・陳腐化が急速に進むことになるので、私学と同様に、授業料のほかに、施設整備費を名目にした受益者負担を求める必要も強くなる。

第2に、産学連携による収入の強化である。このところ、国の重点施策としても展開されているので、経営方針として取り組みが既に強化されているとは思うが、適切に体制整備をした上で、大型の連携事業に持っていけるネタがどれほどあるのか、大学の実力が試される。国に対しては、大学が主体的にスタートアップに関与して、株式上場等で大きな利益が得られた場合に、研究活動を支える収入源にできるよう、仕組みの整備を要望すればよい。

第3に、寄付募集の強化である。国に対しては、大学への寄付を税額控除の対象にすることを要望すればよい。ふるさと納税のような仕組みが参考になる。

第4に、土地資産の活用による収入増である。国に対しては、特定目的会社への出資を可能にするよう要望すればよい。大学にとっては、資産の売却による一時的な収入よりも、毎年度の収入として当てにできる資産の貸し付けによる事業展開が合っている。それゆえに、単に土地を賃貸するのではなく、事業主体の一員として参加する形が可能になれば、収益最大化への工夫の余地が大きい。

第5に、附属病院の大学法人からの切り離しである。病院経営から収益が上がっていた時代は、大学本体にとって病院部門が存在するメリットがあったが、病院経営を黒字に維持することは容易ではなくなっている。岡山のように地域の病院群との一体経営に踏み込んでいるケースも出ているので、可能性として、病院部門(特に連続赤字の病院)の経営切り離しを認めるべきだろう。

第6に、教員人件費を運営費交付金ですべて支えることが難しくなっていることに鑑みて、教員個人が稼いだ外部資金収入の一部を組み合わせる給与構造を実現すべきである。産学連携収入はもちろん、科学研究費等の競争的資金も外部資金の一部として、教員人件費に活用すればよい。こうした構造改革により、若手の雇用拡大への資源を捻出できる。また、所得にある程度の格差が生じることは、刺激になるだろう。運営費交付金が伸びなければ、人事院勧告に準拠した給与体系を維持することは不可能であるが、外部資金収入を加えることで、貢献度に応じて、研究者それぞれに適切な所得を保障することができる。国にも、こうした新たなモデルを、交付金や競争的資金の制度に組み込むことを要望すればよい。

第7に、法人の経営規模を拡大することである。もはや1大学1法人に拘る意味はない。同じ地域に立地している国立高等専門学校と経営統合しても良いのではないか?公立大学はもちろん、私学とも経営面で連携したらどうか?実現には、国立大学法人法改正が必要になる。大学として生き残るのも大変だと思うが、それぞれ体力が失われてから、救済策として文科省が合併の仲介を始めるのを待つようでは、大学としてあまりにも無策ではないか?

以上は、私が気付いている論点であり、ほかにも経営強化の観点から、自由を求める提案があれば、国に対して出せばよい。もちろん、国立大学にとって運営費交付金は最重要の予算である。しかし、いかに現場から苦境を述べようとも、恒久的にその水準を維持することは難しい。したがって、その目減りを遅らせつつ、経営的には自立性を早く高めるしかあるまい。それが分かっているなら、その方向に即した要望を展開して、未来のビジョンに合った改革を直ちに進めなければならない。運営費交付金に拘って、経営のモデルチェンジを拱くことは、自滅への道ではないか?

記事紹介|教授昇任の要件

科学技術・学術政策研究所(NISTEP)では、科学技術振興機構(JST)の協力を得て、JSTが整備・運用する研究者データベース(researchmap)を用い、日本の大学に所属する研究者の研究業績や属性、経験等がアカデミアでの昇進に与える影響についてイベントヒストリー分析を行いました。

分析の結果、学術分野によって昇進の際の評価要素が異なること、また近年では大学以外での研究・勤務経験等多様なバックグラウンドも昇進の際に考慮される傾向に転じつつあることが明らかになりました。

3. まとめと考察

分析の結果、すべての学術分野において、論文数や書籍数、競争的資金の獲得件数が教授になる上で正の影響を与えていることが明らかになった。特に、競争的資金の獲得件数は、人文社会学系をはじめとするすべての分野において教授昇進に有意に強力な説明力を有することが明らかになった。一方で、受賞歴数は、理工系や医学・生物系では正の影響を与えるのに対し、人文社会系では負の影響を与えるなど、分野によって教授になる上で影響を与える要素には違いがあることが明らかになった。性別による違いに関しては、男性研究者にとっては、共著者数や受賞数、競争的資金の獲得件数などが教授昇進に影響を与えている。一方、女性研究者については、医学・生物学分野では書籍数や競争的資金の獲得件数、論文数が教授昇進にポジティブな影響を与えている。このように、男性研究者と女性研究者では、教授昇進において影響を与える要素が異なることが明らかになった。

社会的要素については、すべての学術分野において、女性研究者は男性研究者よりも教授昇進の確率が低いことが明らかになった。この結果は先行研究とも一致する (Fotaki,2013)。女性研究者の活躍促進に関する大学改革の効果に関してみると、予想通り、女性研究者ダミーは、ネガティブからポジティブへと転じていたものの、統計的有意ではなく、政策効果という点では大きな変化がまだ観測できていない。

経験的要素に関しては、組織間移動は人文社会学系や医学・生物系分野において教授昇進にポジティブな影響を与えるのに対して、非アカデミアでの経験や海外での勤務経験は人文社会学系においてネガティブに働いている。海外への移動経験が教授昇進にネガティブに働くというのは、スペインの理工系分野での教授昇進に関する先行研究とも一致する(Sanz-Menéndez etal., 2013)。多様なバックグラウンドの尊重という大学改革の趣旨に関しては、非大学での勤務経験が教授昇進に与える影響において変化が確認された。すなわち、2004年以前は、大学以外での勤務経験は教授昇進にネガティブな影響を与えていたのに対して、2004年以降はポジティブな影響へと変化したのである。

また、一連の大学改革始動によるファカルティ人材の多様化推進に関しては、第一に、論文数や書籍数の説明力は低下しているものの、人脈的要素の強い共著者数の影響も低下していることから、人とのコネクションを重視する傾向が緩和されているのではないかと考える。第二に、女性研究者の活躍促進については、先述の通り、女性研究者であることが昇進に与える影響は、ネガティブからポジティブへと変化したものの、統計的に有意ではなく、政策効果があったとまではまだいえないと考える。第三に、人材の流動化の促進については、組織間の移動回数が教授昇進に与える影響は、2004年以前はポジティブであったものがネガティブへと転じており、組織間の移動回数の多さは昇進に不利に働く傾向にあることが明らかになった。第四に、教員の多様なバックグラウンドの尊重という観点からは、大学改革により、大学以外での勤務経験が明らかに重視される様に変化していることが確認され、政策効果があったといえるのではないかと考える。

一連の大学改革と教授の多様性拡大に関する一考察~研究者の属性と昇進に関するイベントヒストリー分析~の公表について|2017年4月17日科学技術・学術政策研究所 から

2017年4月19日水曜日

記事紹介|国際産学連携の実態と課題

科学技術・学術政策研究所(NISTEP)では、国際産学連携について、これまで「共著論文から見た日本企業による国際産学共同研究の現状」、「アンケート調査から見た日本企業による国際産学共同研究の現状」を取りまとめてきました。

本報告書では、日本国内の大学等と外国企業との間で実施された国際産学連携の実態や課題を明らかにすることを目的とした質問票調査を実施し、国際産学連携プロジェクトの実現には、研究者を通じた継続的な人的ネットワークの形成が重要な役割を果たしていること、国際産学連携を実施している大学等にとって大きな課題と認識されている事項は、業務を担当するスタッフの不足、連携相手との接触機会獲得の難しさ、国際産学連携に対応した規則や規約の未整備の3点であること、などが明らかになりました。

<まとめと考察>

本調査においては、近年注目の集まっている日本国内の大学等と日本国外に所在する企業等との間で実施された産学連携の実態や課題を明らかにするため、質問票調査を実施し、国際産学連携のより詳細な実態や国際産学連携を実施するに当たっての各大学等の持っている考え方や抱えている課題点といった面について明らかにした。

まず、国内の大学等の国際産学連携の実施状況を考えると、回答機関のうち、国際的な産学連携を行っているのは13.8%に留まっている。国内の産学連携も含め何らかの形で産学連携を実施している大学等だけに絞ってみても、国際産学連携を実施している機関の割合は2割程度であり、未だ国際的な産学連携に取り組む機関は少ないといえる。

未実施の機関においては、「国際的な産学連携を試みたが、実施に至らなかった」とする回答は3.6%に留まり、その他のほとんどの機関は様々な理由から国際的な産学連携を試みていない。最も回答の多かった理由は「国際的な産学連携を行うのに十分な体制がない」というもので65.0%を占めている。

体制面の不足を理由とした機関に、具体的な不足が何なのかを尋ねたところ、所属する研究者や経営層の問題でなく、国際的な産学連携のコーディネート機能、国際的な契約等の事務処理機能における問題が多く挙げられる結果となった。この傾向は私立に比べ国立、公立大学等で特に強くなっている。これに関連して、「どのような支援があれば国際的な産学連携に前向きに取り組むことができると考えるか」という質問に対する、最も多い回答は「事業を推進する内部スタッフの育成支援」であり、国際的な産学連携を行っていない機関においては、これを推進するスタッフの育成を支援することで国際産学連携に取り組みやすくなると考えられる。

次に、実際に実施された国際産学連携プロジェクトについて見てみると、連携の種類としては共同研究が最も多いこと、連携先企業の所在する国・地域については米国が最も多く、次に韓国が続き、以降、アジアでは中国、タイ、台湾が、ヨーロッパでは、フランス、ドイツ、スイス、英国が比較的多くの連携先が所在している国・地域となっていること、活用された大学側の技術シーズとしては工学や医学の分野に属するものが特に多くなっていることなどがわかる。

どのようにプロジェクトが形成されたのかを見ると、「相手方からの照会・引き合い」が多数を占めており、国内大学等側からの積極的な売り込みはあまり行われていない、あるいは、行われてはいるがプロジェクトの成約に結びついていないものと考えられる。

また、国際産学連携の形成された具体的なルートについて尋ねたところ、大部分は研究者の持つネットワーク経由となっている。但し、人的ネットワークのない相手方からの照会・引き合いがあるのは、学会・シンポジウムが契機となっている場合も比較的多くあり、研究成果や技術シーズの積極的なアピールも重要であるものと考えられる。

国際的な産学連携の目的については、研究資金の獲得やシーズの実用化の推進が最も多く挙げられた。また、いずれの目的においても、期待通りか期待以上の成果を上げているプロジェクトが大部分を占めており、国内大学等による国際産学連携の実施は一定の成果を上げているものと考えられる。

さらに、国際産学連携に関する機関レベルの分析によると、共同研究や受託研究については、その連携先が国内であるか国外であるかには拘らず、ニーズ・シーズの合致する相手先を探索する機関が多い一方で、ライセンシングについては、同様に考える機関はやや少なく、まず国内の連携先を優先して探すと回答した機関の割合が共同研究や受託研究と比べると高かった。

国際的な産学連携に関する業務に従事する人材の状況についてみると、必要な知識を持つ人材を確保していないとする回答が目立ち、国際産学連携の実施においては、必要な人材の確保が十分に進んでいない機関が多いことが浮き彫りになった。

連携先の決定にあたっては、技術力や実績等以上に、自らと相手方とのニーズ・シーズが合致するのか、という点を重視している。この点は、相手方が自校に対し重視していると感じている点でも同様であった。今後、特に連携先企業の決定においては、ニーズ・シーズの合致に加えて、卓越した基礎研究力を基に獲得した優位性をベースに、連携相手の国外企業をより戦略的な視点から選択し関係を構築していくことも、効果的な連携活動を長期に渡って継続する上で重要になってくるものと考えられる。

国際的な産学連携が国内での連携に比べ、どのような負担を生じさせるのかについては、最も多かったのが事務作業や手続きに関連する事柄である。内部スタッフについては、多くの機関が不足感を持っていることを考えると、必要なスタッフの不足が、事務手続きの大変さ、場合によっては研究者自らが行う事務作業等の負担につながる可能性がある。

最後に、国際産学連携の実施における課題と国や地方自治体などの公的機関からの支援のあり方について考える。国際産学連携に関する課題について、特に課題意識が強かったのは、外国語能力が充分な職員や事務手続きを担当する職員の不足であった。

また、国や地方自治体によるサポートとして必要と感じるものを尋ねたところ、事業を推進するスタッフの育成支援については必要性が高いとする回答がやはり多く集まった。

国際的な産学連携を推進する土台であるスタッフの育成支援ニーズは非常に高いことが改めてわかる。この点は国際的な産学連携の実施に際してのボトルネックと考えられることから、今後の支援、または適切なスタッフの育成手法の提示といったバックアップが有効と考えられる。

人材面以上にサポートの必要性が高いという結果となったのは「国際的な産学連携に対応した標準的な規則・規約や約款の提供・アドバイス」や「会計年度に縛られない、複数年契約に利用可能な公的予算」である。標準的な規則・規約等は、全てのケースに当てはまるものではないとしても、参考情報として各機関が接することができる。現在、国際的な産学連携に取り組んでいない機関が多数あることを考慮すれば、今後、国際的な産学連携を実施する大学等が増加していく場合、各機関が積み重ねた経験やノウハウを蓄積・共有することは有用な取り組みと思われる。

2017年4月16日日曜日

記事紹介|大学の活力をそぐ政治・政府こそ改革を

日本は科学技術立国を堅持できるのか。そんな不安を抱かせる指標や分析が発表されている。なかでも新しい産業の芽や社会的価値を生む役割が期待される大学で、活力の低下が指摘されている。

人口が減る日本では研究者数や研究費を右肩上がりでは増やせない。科学技術立国を標榜し続けるには、研究の多様性を保ちつつ、生産性を高めるという難題を乗り越えねばならない。遅々として進まなかった大学改革に、いまこそ危機感をもって取り組むときだ。

年功崩し若手登用

「日本の科学研究はこの10年で失速し、この分野のエリートの地位が揺らいでいる」。英科学誌「ネイチャー」は3月、日本の科学研究の弱体化を厳しい表現で指摘した。

同誌によれば、この10年間に世界で発表された論文数は80%増えたが、日本は14%増にとどまる。日本の世界シェアは2005年の7.4%から、15年には4.7%に低下した。お家芸だった「材料」や「エンジニアリング」などでもシェア低下が目立つ。

国連の専門機関である世界知的所有権機関によれば、日本は研究開発の産物である特許の登録件数で長く世界首位だったが、15年に中国に抜かれ2位に落ちた。有力研究機関が公表する競争力ランキングでも日本はじりじりと順位を下げている。

日本では研究開発投資の約8割を企業が担い、科学技術全体が急速に弱っているかどうかは議論の余地があろう。だが大学の活力低下は国際化の遅れなど他の指標からも見て取れる。ネイチャーの警告は重く受け止めるべきだ。

何が活力を奪っているのか。大学関係者からは、国が支給する運営費交付金の削減をあげる声が多い。交付金は教員数などに応じて配分され、大学運営の基礎となってきた。政府は04年度の国立大学法人化を機に毎年減額し、この10年間で約1割減った。

しかし、大学予算全体はそれほど減っていない。政府は交付金を減らす代わりに、公募方式で研究者に資金獲得を競わせる「競争的研究費」を増やしてきた。本質にあるのは研究費不足ではなく、もっと構造的な問題とみるべきだ。

ひとつが研究者の高齢化だ。ノーベル賞級の独創的な成果は若い頭脳から生まれやすい。1980年代、大学では40歳未満の若手教員が4割を占めたが、いまは25%にまで下がった。代わりに50~60代が半数近くを占める。産業界などでは崩れてきた年功序列が、大学ではいまだに残ったままだ。

政策も失敗が続いた。文部科学省は博士号をもつ若手を任期付きで雇用する「ポスドク」を増やしたが、任期後の就職先がなく、収入や身分が不安定な「高学歴ワーキングプア」と呼ばれる若手研究者が増えてしまった。

閉塞感を打ち破るには、若手を積極的に登用する政策が欠かせない。政府は科学研究費補助金を若手に重点配分したり、国のプロジェクトで登用したりする制度を始めたが、これだけでは足りない。

各大学が若手に責任あるポストを用意し、意欲を引き出す改革が不可欠だ。企業の研究との兼業を認める「クロスアポイントメント」という制度も活用すべきだ。

企業の資金生かせ

研究費を国だけに頼るのではなく、企業などから受け取れるように「稼ぐ力」もつけるべきだ。

日本は欧米に比べ産学共同研究が大幅に少なく、金額ベースでは米国よりも1桁少ない。連携を仲介する専門人材を増やしたり、企業の設備を借りたりすることで共同研究を増やす余地は大きい。

研究評価の方法も見直しが要る。公募型の研究が増え「数年先に実用化が見込める研究ばかりが評価される」との声があがる。実用性が不透明な基礎研究はさらに資金を得にくくなる心配がある。

研究の多様性を保つには、研究費を配分する日本学術振興会などの役割が重くなる。欧州では「経済効果は基準に含めない」「論文の本数だけでは評価しない」などと、10年単位の長い目で研究の価値を評価する例が増えている。日本でも参考にしたらどうか。

政府の総合科学技術・イノベーション会議は昨年度から5年計画で始めた科学技術基本計画に数値目標を盛った。大学についても「40歳未満の若手教員を3割にする」「企業などからの資金調達を5割増やす」などと掲げた。

それらの達成に向け、政府が細かく指示を出し、研究活動を縛っては、かえって大学の活力をそぐ。大学の自発的な改革を加速させるときだ。

2017年4月13日木曜日

記事紹介|第二の人生

この春、何人もの知り合いが職場を去った。中には転退職した若手もいる。勇気があるなと感心すると同時に、自分もそういう決断ができていればと「タラレバ」人聞になりかける。

東大から経産省に入り30代で「組織に頼らず自力でやれるはず」と退職した元官僚が『肩書き捨てたら地獄だった』という本を書いている。ありがちな勘違い。冷静に考えれば、一丁前の給料をもらえるのは組織のお蔭。私も一人ではコンビニのバイト以上に稼げる自信はない。

定年で去る人の多くが「次の仕事は未定」と力なく笑う。「第二の人生」などというのは何かを売りつけようとする側のコピーで、実際に充実した「第二の人生」を送れている人は滅多にいない気がする。

「定年って生前葬だよな」。そう思いつつ、退職後も生き甲斐を求めさまよう主人公が登場する小説『終わった人』を書いた内館牧子さんがインタビューで語っている。「男の人も東大法学部行くのと高校までで就職するのでは18歳の段階ではすごい差なんだけど、60歳で集まると着地点は一緒なのね。だからね、やっぱり好きなように生きた方が得ですよ」。きっとその通りだ。だが、「好きなように生きる」ことの難しさよ。

「毎日毎日同じ仕事するなんて信じらんねえ」「やりたいことがあるなら、迷うな、やってみればいいじゃん」と自由に生きるホリエモン。嫌いだが、内心では共感する。…だったら「やってみればいいじゃん」。でも、できない。そこが決定的な差だ。嫌いなのは嫉妬かもしれない。

いろんな不満を腹一杯に溜めながら、結局、辞める決断などできないまま定年を迎えるのだろう。その先、私は何をしよう? 本当は南の島で悠々自適といきたいが、多額のローンが許さない。

恰好いいのは起業だが、金儲けの才覚があるとは思えない。できれば仕事の経験を活かしたいが、そういう職に就ける見込みも薄そうだ。

年寄りを雇ってくれるところでバイトでもしながら、少しは好きだと思えることもしたい。「こども食堂」か小さな塾でも始めようか。何年かかけて文化財修復か何かの修業をするのもいいかもしれない。近所で「怪しい人」と疑われながら、家で実験や研究にいそしむのも面白そうだ。学生時代は食わず嫌いだった歴史の本も、齢を取ってから好きになった。

豪クイーンズランド大学の「ピッチドロップ実験」は1927年から続いている。ある粘性の高い物質が液体だと証明するため、漏斗から滴が落ちるのをひたすら待つ(だけ)。これまでに9滴落ちたらしい。

京大の「暗黒バエ実験」は1954年からハエを1500世代以上にわたって暗室で飼い続け、暗闇適応等に関わる遺伝子の変化等を調べている。研究者の体も暗闇適応で変異していないかと心配になる。

以前はどうにかなるだろうと軽く考えていた「第二の人生」を、そろそろ真剣に、深刻に考えねばならない齢になってきた。もっと早くから生き方の幅を広げておけばよかったな、と今頃になって思う。

文部科学時評|平成29年4月3・10日文教ニュース から

記事紹介|日本学術会議の限界と大学の自律性

日本学術会議が半世紀ぶりに、大学などの軍事研究に否定的な声明を発表した。13日からの総会で報告される。学術を取り巻く環境が変化するなかで出された新しい声明をどう受け止めたら良いのか。議論をまとめた「安全保障と学術に関する検討委員会」の杉田敦委員長(法政大学教授)に聞いた。

▶今回の声明は、大学側のあり方まで踏み込みました。

大学などの研究機関での軍事的手段による国家の安全保障に関わる研究が、学問の自由や学術の健全な発展と緊張関係にあることを示し、大学や学会に対応を求めた点が大きなポイントです。

重大な問題であるにもかかわらず、軍事研究は行わないとした1950年と67年の声明から半世紀。日本学術会議は、議論を継続せず、考え方を示してこなかったという反省があります。今回の声明は、過去の声明を『継承』しました。

▶過去の声明を「堅持」するとすべきだとの声もありました。

堅持とは、そのままにするということ。でも、過去の声明のもとで事態はかなり進行しています。2015年度に防衛装備庁が大学などに研究を委託する『安全保障技術研究推進制度』を始めたことが、今回の議論のきっかけになりました。いま、米軍からの大学や学会などへの資金援助は8億円を超えている状況です。

今回の声明は、学術と軍事の間の緊張関係や大学が負う責任を明確にして、大学や学会などに対応を求めることまで踏み込みました。過去の声明を発展的に継承すると考え、継承という言葉を使いました。

▶学術と軍事の緊張関係とはなんでしょうか。

何よりも学問の自由が脅かされます。学問の発展にとって、自主性、自律性、そして研究成果の公開性が大事です。一般に軍事研究では、それらが保障されません。委員会でも学問の自由が学術の健全な発展につながることに異論はありませんでした。

日本の場合には特に軍部が台頭した1930年代を中心に、憲法学などの学問が弾圧される一方で、戦争遂行のために科学者が動員され、核兵器につながる研究さえしていたわけです。その反省が日本学術会議の原点です。

▶「学問の自由」は、なぜ大切なのですか。

学問の自由は、研究者が個人的な判断だけで何でもやっていいことと誤解されがちですが、それは憲法学などの知見から言っても間違いです。学問が政府などから過度に介入されてはならないという意味であり、国内外に開かれた教育・研究環境を維持する責任が大学にはあります。

大学を聖域化するな、との意見もありますが、大学の研究者は自分で研究テーマを決められる点で、企業などとは立場が違います。いかに民主的な政治権力であっても、社会のすべてをコントロールすることは、長期的にみて社会のためになりません。大学という自律性を持った空間は残しておくべきです。

▶明確な軍事研究は認めないが、自衛のための研究なら許されるとの意見もありますね。

この声明はそうした立場をとっていません。1928年の不戦条約で戦争が違法化されて以来、国際法上ほとんどの戦争が、『自衛権の行使』などとされ、戦争と呼ばれなくなりました。自衛という概念が非常に拡張され、戦争という概念が縮小している中で、自衛目的ならいいとか、狭い意味での戦争目的でなければいい、とかいう安易な基準では、軍事研究の全面解禁につながります。

▶憲法9条に照らした議論に踏み込みませんでしたね。

たとえば集団的自衛権が認められるか認められないかという問題も、国論を二分し、個々人でも判断が分かれています。9条があって自衛隊があって日米安保がある、ということの帰結で、日本学術会議が学術的に特定の結論を出すことはできません。

▶声明では、防衛装備庁の制度について「問題がある」と明記しました。なぜでしょうか。

防衛装備庁の制度の目的は、防衛技術の開発につながる基礎研究と明示されています。研究成果は公開できるし、介入はしないと言っていますが、防衛装備庁の職員が研究の進捗(しんちょく)管理をし、助言をするのはかなり強い関与になる。学問の自由から見て著しく問題があります。軍事的な目的が主眼でなければ、明確な軍事的な研究ではないという意見もありますが、この声明の考え方とは異なります。

▶軍事研究には、ほかに、どんな問題がありますか。

国防や国民の安全に関わるような問題である、と言われると、断るとか、途中から協力をやめるのが難しい。企業に対して、自分の研究をそういう用途に使ってもらっては困る、と言えても、防衛問題となると、断ることは事実上、非常に難しいでしょう。

また、軍事研究は秘密と結びつきやすく、緊急かつ絶対的なものとされがちで、他の研究分野とは違います。軍事や防衛は予算がつきやすく、ブレーキをかけられなくなり、他の研究予算を圧迫することにもなります。これも学術の健全な発展を妨げかねません。

▶そこまで、問題があると指摘したのに、なぜ声明で明確に禁じなかったのですか。

学問の自由を制度的に保障する、大学の自治との関係です。学術会議は大学に命令する立場にはない。大学は自律的な機関なので、学術会議は助言はできても、強制はできません。強く禁止したほうが良いという議論がありますが、そうではないと思います。むしろ、そこまで大学の自律的な判断に介入してくるのか、という反発が出てくるかも知れません。

▶学術会議の限界ですか。

そうも言えるかもしれません。しかし、軍事と学術との関係は、本来、学術会議だけが考えることではなくて、さまざまな研究機関、そして個々の科学者が、科学者の社会的責任に関する歴史的な議論もふまえて考えていくべきことです。さまざまな論点を審議し、声明や報告の形で考える材料を提供したつもりです。学術会議が可否を全部決めるのでは、研究者や大学が思考停止になりかねません。

▶声明をガラス細工のように精緻(せいち)な表現だ、と評価する声もあれば、玉虫色との声もあります。自治の名のもとに、軍事研究に踏み切る大学も出てくるかもしれません。

声明をよく読めば、できないと受け取るのが自然ではないでしょうか。防衛装備庁の制度は、政府による介入が著しく、問題が多い、としているわけです。極めて問題が多いと指摘された制度を利用するなら、なぜ可能なのか、開かれた研究や教育環境を維持できると判断した根拠は何か。利用する大学や研究機関が説明責任を負います。そもそも、大学の自治は、政府との緊張関係のうえに成り立つことを大学は意識すべきです。

▶防衛装備庁の問題ですか。

違います。防衛装備庁の問題に限られません。研究者の意図を離れて攻撃的な目的に使われる懸念も指摘し、研究に入る前に資金の出どころについて、まずは慎重な判断も求めています。問題が多い機関の資金をもらっていいのかどうか。米軍はだめと明示的には書いていなくても、米軍の性格を考えれば、攻撃的に転用される懸念は、自衛隊以上に大きいとも考えられる。さまざまな資金について、こうした観点から各大学が判断することになります。

今回の声明は、研究目的なども厳しく審査するよう求めています。資金の出どころだけでは割り切れないことは委員会の審議でも明らかになりました。軍事的な機関以外を経由する形で事実上の軍事研究が進むこともありえます。だからこそ、声明は個別の機関や制度の是非よりも、審査制度の整備を求めているのです。自分たちの研究がどのように使われるか、大学や学会で継続的に議論することが大事です。

▶技術の使われ方の議論には想像力も必要ですね。

その通りです。若い人は抵抗感が薄いという報道もあり、危惧しています。研究の適切性は、これまで研究不正や研究費の不正使用ばかりが注目されてきましたが、科学技術と倫理との関係といった問題について、対話を広げていく必要があるでしょう。

▶軍事と学術の関係は、どれだけ危機的な状況でしょうか。

研究費不足、ポスト不足などの厳しい状況の中で、研究を続けるために研究資金を選べないという声があります。防衛など、特定の目的に役に立つとされる研究だけに資金投入が続くと、学術全体の健全な発展に悪影響が及び、ゆがみが生じます。そういう危険性が見えてきた。研究者の自主性を生かす民生資金が非常に大事なのです。

極端な例とはいえ、米国のように研究費全体の半分ぐらいが軍事的色彩を持つようになると、軍事的な研究資金をあてにしないと研究ができなくなり、研究全体に関する軍の発言力が強まります。それでいいのか。今が分かれ道なのです。

すぎたあつし 1959年生まれ。法政大学教授。専門は政治学、政治理論。著書に「権力論」「境界線の政治学」など。

学術と軍事研究 日本学術会議検討委委員長・杉田敦さん|2017年4月13日朝日新聞 から

2017年4月12日水曜日

記事紹介丨大学というシステムが抱える問題の解決を

どの指標をとっても退潮の一途

「なにを今さら」と大学などで研究している人たちは思っただろう。それに対して、一般の人たちは、「えっ!そうなのか」と驚かれたに違いない。

英科学誌ネイチャーに、日本の科学研究がこの10年間で失速していることを指摘する特集が掲載された。

ブレーキがかかった、などという生やさしい状況ではない。飛行機ならば今すぐ手を打たないとクラッシュしかねない失速状態にまで追い込まれていると言われたのだ。

論文データベースScopusによると、15年までの10年間に、世界中では論文数が80%増加しているのに、日本からの論文は14%しか増加していない。

特に、コンピューターサイエンス、私が関係する生化学・分子生物学、そして、驚いたことに、日本の得意分野といわれる免疫学で、その傾向が顕著である。

数が減っても質が保たれていればまだしもなのだが、ネイチャーが選定した各分野の超一流雑誌への日本からの論文数も残念ながら低下し続けている。また、日本の研究者が参加する国際共著論文の比率も続落と、どの指標をとっても退潮の一途であることが見て取れる。

特集のメイン記事は、北海道大学が、経費削減のために教授クラス205名のリストラが必要だと発表したことから始められている。次いで、若手研究者へのサポートがうまくいっておらず、その将来が不安定であることが指摘される。

そして、その要因として、国からの予算削減と、90年代のポスドク1万人支援計画は民間への優秀な人材の提供が目的であったのに、多くがアカデミアに残留した影響があげられている。

このような状況を見てであろうか、大学院博士課程への進学者は2003年をピークに下降線をたどっている。なので、どの時点かで平衡点が訪れてポスドク余剰が解消されることになる。

しかし、それだと、いずれそのツケがまわって日本の研究能力に大きな溝ができてしまうこと必至である。

他にも、大学の常勤ポストについている教員の高齢化や、日本の若手研究者にはPI(Principal Investigator:研究室主宰者)になる意欲が高くないことが問題としてあげられている。

紹介していて情けなくなってくるような話ばかりだが、ここ何年かの間に感じてきたこととそう大きなズレはない。いや、もっと正直にいうと、まだこれくらいで踏みとどまれているのか、という印象の方が強い。

競争力低下の最大要因とは

ちょっとしたきっかけがあって、最近、血液学のBLOOD誌、循環器学のCirculation誌という、それぞれの分野での一流雑誌について日本からの論文数を調べてみた。

そうすると、15年ほど前の全盛期に比較して、どちらも3分の1から4分の1に激減していた。これは、超一流雑誌での論文と比較してはるかに著しい減り方である。

文科省は世界トップ拠点プログラム(WPI)などで、トップ中のトップ機関には多額の研究費を配分しているが、先端をとがらせただけでは不十分なのではないだろうか。

数も多く、分野の基盤を形作るべき、おそらくは安定した科学インフラには最も重要なレベルへの手当が不十分になっていて、そのような層が総崩れになっている可能性があるのではないかと危惧している。

元三重大学学長の豊田長康・鈴鹿医療科学大学学長が15年に報告された「運営費交付金削減による国立大学への影響・評価に関する研究」というレポートがある。

2002年頃から日本の論文国際競争力が低下し始めていて、13年には人口あたり論文数が世界35位、先進国では最低である、などという内容を含んでおり、今回のネイチャーのレポートよりも衝撃度が高かった。

年次推移などから考えると、競争力の低下は、よく言われるような国立大学独立法人化の影響よりも、公的研究費の削減が最大の問題である、と結論づけられている。

ちなみに、世界中が研究費を増額している中、わが国の科学技術予算は、2001年からほぼ完全に横ばいだ。

研究手法の進歩は著しいが…

確かに、研究費の相対的な低下が競争力低下につながっているのは間違いないだろう。では、増額したらそれだけでキャッチアップできるかといえば、それほど甘くないのではないか。

研究というのは継続性が必要で一朝一夕にできるものではないし、研究レベルに応じたそれぞれの研究室の足腰の強さとでもいうものが必要である。

生命科学分野に限定したことかもしれないが、近年の研究手法の進歩には著しいものがある。それ自体は喜ばしいことなのだが、それに伴って必要な研究費も急速に増大している。だから、超一流とまでいかなくとも、そこそこの雑誌に掲載されるような論文を書くには、相応の研究費が必要である。

いまの公的研究費の総額と配分法から考えると、そのレベルから振り落とされてしまった研究室、いわば、半倒産状態に陥ってしまっている研究室は、地方国立大学を中心に相当な数あるに違いない。

不思議なことに、そういった声は全く聞こえてこないのだが、一旦、そういった状況に陥ってしまうと、再起するのは非常に困難だ。はたして、この十数年の低落傾向を立て直すには何年かかることだろう。

日本人のメンタリティーとして、寄らば大樹の陰的な考え方がしみこんでいるのだろうか、若手のPI志向が低いというのは由々しき問題だ。

PIになると、確かに、研究費の取得や人集め、研究室の運営など苦しいことが多いのだが、私が思うところでは、PIになってからが本当の意味での研究者である。欧米では、優秀な研究者は、ずいぶんと若い時点でPIになっていて、それが大胆な発想の研究につながっているようなところもある。

そのために、欧米ではテニュアトラック制が広く取り入れられている。テニュアトラック制とは、まず優秀な若手研究者を任期付きのPIとして雇用して、PIとしての経験を積んでもらいながら、そのアチーブメントを確認し、何年か後に終身ポストを付与する制度である。

日本でも文科省が導入を推奨していて、いくつもの大学で取り入れられている。しかし、あくまでも小規模であって、大々的にテニュアトラック制を取り入れている大学はほとんどない。

大阪大学のテニュアトラック制の世話役を務めた経験から、大学側にも研究者側にもさまざまな問題点があることはよくわかっている。なので、わが国において、現状の大学システムのままで、テニュアトラック制を広く取り入れるのは難しいと考えている。

若手研究者の大学離れを食い止めるべく、若手教員に対して終身ポストを積極的に付与する方策がとられ始めている。もちろん結構なことだ。

しかし、それだけならば、結局のところ昔の状況に後戻りするだけではないのか。それに、限られた人件費でそのようなことをおこなったら、そのツケを次にどこにまわすのか、という自己撞着のような問題が生じてくる。

大学というシステムが抱える問題の解決を

研究費が足らないから競争力がなくなった、ということに全く異論はない。しかし、そのことは必ずしも、研究費を増額したら競争力が蘇る、ということを意味しないのだ。

もちろん、他の国が研究費を増額し続けているのであるから、研究費の増額は必要条件である。ただし、それは十分条件ではない。十分条件を満たすには、大学というシステムを根本的に見直す必要がある。

適正な競争原理の導入、積極的な任期制の導入、研究者の流動性の向上、使命を終えた部局の統廃合、テクニカルスタッフの充実、高額研究機器の効率的な利用、無駄な会議や書類作成といった意味のない雑用の減少などなど、すでに指摘されている数々の問題点を、これまでやってきたような小手先だけの改革ではなく、本気でクリアしていかなければ、たとえ研究費を増額したところで十分条件が満たされはしない。

そのようなことができれば苦労はしない、と言われるかもしれないが、それは認識が甘いのではないか。そうしなければどうしようもない時期に来ているような気がしてならない。

北海道大学が本当に大規模な人員削減に踏み切れるのかどうかは知らない。スケールメリットが重要なこともわかっている。

しかし、高齢社会における福祉・医療という喫緊の問題があるわが国において、大幅な大学・研究予算の増額は望めないだろう。

かつての社会主義国家のような悪平等主義は捨て去って、教育と研究と業務を合理的かつ効率的に分配する、部局の壁を取り払って教育や運営に取り組む、優秀な人材にはその研究能力を最大限に発揮できるように処遇する、など、人員を削減してもやっていけるようなシステムを構築しなければ、大学が瓦解しかねないところまできている。

このままいくと、日本の科学の将来を論じることの意味すらなくなってしまう時代がやってこないとも限らない。

記事紹介|Vision and Work Hard

つんく♂さんからの前回の手紙

同じ(大阪府の)東大阪出身で親近感を抱いておりました。シャ乱Qで数々のヒット曲を出したのち、「モーニング娘。」のプロデューサーも始めました。人生を変える出来事がありました。喉頭(こうとう)がんと診断されたことです。声は失いましたが、エンターテインメント界で世界に役に立つことはできないだろうかと考えています。教授はどんな志のもとに、誰のために、今の研究を始めたのか。教えてください。


つんく♂さん、ご無沙汰しております。山中伸弥です。異分野の私たちが同じ東大阪出身で、お手紙を交わしていることに特別なご縁を感じ、大変光栄です。

私はミシンの部品工場を営む家で生まれ、機械いじりが好きな少年でした。長男として後継ぎを期待されてもよいのに、父は「医者になれ」と。

中学・高校時代に柔道、大学時代にラグビーをして何回も骨折したこともあり、スポーツ選手のケガを治したいと整形外科医になりました。患者さんが元気になるのにやりがいを感じる一方、治療の手立てがない患者さんの症状が悪化していくのを見て、悔しさが込み上げました。

「今治せない病気やケガを将来治せないか」。その頃、父を病気で亡くしたこともあり、思いは強くなっていきました。父が「医者になれ」といった真意は聞けずじまいでしたが、その医師が今できる限界を超えるには研究しかない――。そう思い、研究者への道を歩み始めました。

ときに、実験が予想外の結果に行き着くこともありました。「失敗」と残念がってもおかしくないことに、私はワクワクしました。医師の世界で失敗は許されませんが、研究は違う。新たな発見につながっていきます。研究の楽しさにのめり込んでいきました。

米国留学中に、一生のモットーに出会いました。留学先の当時の研究所長から教えてもらった「VW(Vision and Work Hard)」です。研究、いや人生で成功するには「VW」が大切なんだと。

まだ若かった私は、寝る間も惜しみ研究に没頭していました。多くの日本人は勤勉で、「Work Hard」では世界で負けていない。だからこそ、日本製品は存在感を放ってきたのだと思います。ただ同時に気づかされました。私の「Vision」は研究論文を多く書くことではなかったはず。「今治せない病気やケガを将来治せるようにする」。昔も今も私の「Vision」はこれなのです。

帰国後は周囲に自分の研究の意義がなかなか理解されませんでした。また、米国では研究者をサポートする環境が整っていましたが、日本では全て自分の仕事。実験に使うネズミの世話に明け暮れる日々に、研究者としてのキャリアを幾度となく挫折しかけました。

それでも、学生らにも恵まれ、2006年にマウスiPS細胞の開発成功を報告。私の人生を変えたのは翌年に発表したヒトiPS細胞の誕生です。iPS細胞技術が医療に貢献できる可能性が開かれたのです。それから10年。世界中でiPS細胞を活用して再生医療や病気のしくみの解明、そして薬の開発に向けた研究が進められています。

私の役割も大きく変わりました。今は毎月渡米し研究をしながら、京都の研究所で所長を務めています。研究者らが「iPS細胞技術で新たな治療法に貢献する」という使命のもと、最大のパフォーマンスを発揮できる環境を作ることが仕事です。

米国では研究を支えるしくみの一つに寄付があり、寄付募集活動は学長や所長の大切な役割です。私も米国の良いところを取り入れようと、マラソンを走ったりしながら寄付を募っています。

つんく♂さんは、多くの方をプロデュースしてこられましたよね。私も若い研究者を育てる立場となり、どこか通じるものがあるような気がします。「人を育てる」秘訣(ひけつ)、ぜひ教えてください。

記事紹介|天下り、解明なくば再発は防げまい

歴代事務次官3人を含めて処分者は計43人と文部科学省では過去最多の不祥事になった。一連の天下り問題で松野博一文科相が公表した最終報告は、組織ぐるみの国家公務員法違反を明らかにした。

松野氏直轄の調査は外部の弁護士などが当たった。しかし、いつ、誰が、どんな経緯で違法な再就職のあっせんを始めたのかは解明できていない。天下り先の大学などと文科省がどんな関係を築いたか、各種許認可や補助金配分などがゆがめられなかったのかという肝心な点も不透明なままだ。

それにしても文科省の順法意識の欠如には驚くばかりだ。2月の中間報告後、新たに35件の違法行為が確認され、2010年以降の違法案件は累計で62件に達した。これほどの不正に同じ役所にいる歴代文科相や副大臣、政務官が気付かなかったのも不思議な話だ。

08年12月末の改正国家公務員法施行で現役職員の天下りあっせんが禁止されたため、人事課OBの嶋貫和男氏を調整役とするあっせんの仕組みができた。ただし、62件のうち半数近い30件は嶋貫氏を介さず幹部や人事課職員が直接あっせんに手を染めたという。

処分は停職9人▽減給12人▽戒告4人▽訓告12人▽厳重注意9人(3人は重複処分)だ。元事務次官など退職者11人は処分できないため「停職相当」などとした。

天下り先は全国の国私立大、文教関係の団体や企業と幅広い。他省庁関連も旧経済企画庁出身者の新潟大への再就職、元外交官の東京外国語大特任教授再就職と2件あった。最終報告で全てなのか。

許認可や補助金を巡って不正な働き掛けがあったかどうかについて最終報告は、嶋貫氏が特別顧問を務めた学校法人グループの大学設置申請に関する審査状況を担当職員が人事課に漏らした以外には切り込めていない。

他省庁の調査は遅れている。今回の最終報告で幕引きとしてはならない。在職時に密接な関係にある企業や団体への再就職を一定期間禁止する規定を復活するなど再発防止策も検討を急ぐべきだ。

2017年4月9日日曜日

記事紹介|押しつけの鋳型を問い直す

哲学教育が大学から追いやられようとしている。私も哲学の教師として、困ったことだと思っている。だがその「困った」は、タコツボでぬくぬくしていたら出て行けと言われてうろたえているタコのような「困った」かもしれない。私は本書を読んで、そんな自分をちょっと恥じた。本書がつきつける「困った」は、そんなタコのため息とはほど遠いものである。

文科省は、とりわけ人文系の学部に対して、これを学べばどういう職業的技能が身につくのかを明確にせよと求めてくる。それがはっきりしない学部は、より社会的要請の高い分野に転換しろと言うのである。

文科省は学生を鋳型にはめようとしている。そしてあなたの学部ではどんな鋳型を提供しているのですか、と問うてくる。他方、哲学は鋳型そのものを考え直し、論じようとする。自分たちがなじんだ考え方に新たな光を当て、他の考え方の可能性を探ろうとする。だから哲学は学生を鋳型にはめる教育にはなりえないし、まさにそこにこそ、哲学教育の生命線がある。

こわいのは、学生たちの多くもまた、鋳型にはめてもらいたがっているということだ。いまの我が国は、国民に考えさせず、一方的に決めつけようとする。ところが国民の側からも、決めてくれた方が考えなくて済むから楽でいいといわんばかりの声が聞こえてきはしないだろうか。

そんな時代に、哲学教育が果たすべき役どころはむしろ大きい。では、その役どころとは何か。著者はそれを模索する。

この本は、その意味でまさに「哲学的」に書かれている。あなたの代わりに考えて、上から目線で決めつけたりはしない。一歩ずつ、読者とともに、考えようとする。だから、本書を読み終えたとき、あなたは著者とともに、次の一歩へと歩み出すに違いない。私たちは、私たちがどうすべきなのか、私たち自身で、考えなければいけない。

評・野矢茂樹(東京大学教授・哲学)

2017年4月8日土曜日

記事紹介|役に立たない研究をしよう

昨年のノーベル医学生理学賞を受けた大隅良典・東京工業大栄誉教授(72)が、長期的な基礎研究を社会が支える仕組み作りについて、積極的な発言を続けている。背景にあるのは、短期的な成果を求める研究にばかりお金が流れ、「このままでは日本の基礎科学が立ちゆかなくなる」という危機感だ。神奈川県大磯町に暮らす大隅さんに、横浜市緑区のすずかけ台キャンパスで思いを聞いた。

「役に立たない研究をしよう」。ここ10年、大隅さんがそう話すと、「それでいいんですか」と首をかしげる学生が増えたという。細胞内の新陳代謝の仕組みを探るオートファジーの研究でノーベル賞を受けた大隅さん自身、研究の成果が役に立つかは意識してこなかった。「科学は金もうけのためのものではなく、社会を支えるもの。すぐに役に立つことばかり求めていたら基礎科学はできない」と話す。

国から国立大学に支給され、自由に研究に分配できる運営費交付金は、国立大が法人化した2004年度から16年度までに、1割強にあたる約1470億円も減少。私立大に対する補助も15年度、44年ぶりに運営費全体の1割を切った。一方、研究者から研究計画を募り、審査を経て交付する文部科学省の「競争的資金」は増加傾向。16年度は約3445億円で、04年度から約920億円増えた。国の財政が厳しい中、文科省が戦略的に予算を振り分ける傾向が強まっている。

「運営費交付金を毎年1%ずつ削られて、大学は本当に貧困になっている」。競争的資金を獲得するために研究者が目先の成果を得やすい研究に流れ、長期的な研究が難しくなると大隅さんは憂慮する。

資金を確保するために企業との共同研究を求められることも多い。大学と企業の役割があいまいになり、大学が空洞化してしまうことも懸念する。

大隅さんは1月、1億円を出して東工大に「大隅良典記念基金」を設立。基金には約60人から約9千万円の寄付も集まった。入学生を経済的に支援し、将来は研究も支えたい考えだ。

さらに全国的な規模で基礎科学の振興を図る基金を立ち上げる構想も練っている。国に頼らず、社会が支える形で大学が収入を得られる道を開かなければならないと考えているからだ。「科学は文化。全く見返りを求めない寄付がもう少し日本にあっていい。大企業の海外への投資や広告費の0.1%でも基礎科学に向けられたら大学が変わる」

昨年10月のノーベル賞受賞から半年。電車の中でもサインを求められる熱狂を、少しでも研究を支えることにつなげていきたいと考えている。


昨年8月まで行政改革担当大臣を務めた河野太郎衆院議員(神奈川15区)が自身のブログで研究費について問題提起し、話題を呼んでいる。研究者が資金を獲得したり、経費を精算したりするための事務手続きに無数の「ローカルルール」が存在し、研究に割くべきお金や時間を奪っているという。河野議員は背景に「大学に出向した役人の存在がある」と指摘する。

大臣時代、ある研究者から1通のメールが届いた。日本学術振興会が配分する科学研究費の申請書にある線が邪魔だという。文字を入力すると外枠の線がずれ、いちいち修正が必要だった。文部科学省に働きかけて廃止すると、「線がなくなった!」と予想以上の反響があった。セルに1文字ずつ入力させるなど、見栄えを優先し、再利用しにくい「神エクセル(紙への出力しか考えていないエクセルファイル)」も廃止すると、研究者から続々と連絡が来た。

出張に出たら駅員と交渉して特急券を持ち帰らなくてはいけない、学会に出たら隣の人と写真を撮らなくてはいけない――。文科省にこれらのローカルルールを守る必要がないことを確認し、無駄を一掃するよう働きかけた。

河野さんは「大学に出向した役人はどうやったら研究者が研究をしやすいかではなく、不正を防ぐためにルールを厳しくすることばかり考える」と指摘。財政難から科学技術振興予算が今後増えることはないとして、「効率を考えなくてはいけない」と話す。

役立たない研究、しようよ ノーベル賞・大隅さんの憂い|2017年4月4日朝日新聞 から

記事紹介|「部長が何でも抱え込む」大学は成長できない

ある記事の「会社」を「大学」に、「社長」を「部長」に、「社員」を「職員」に置き換えてみました。


4月に入り、多くの大学が新年度をスタートさせています。前年度からさらに業績を伸ばしたい、あるいは回復させたいと経営計画を練っている大学が大半でしょう。

私は弁護士、税理士の両資格を持ち、上場企業の取締役でもあります。こうした1人3役は珍しいと思いますが、それぞれの立場から大学を見ることで、経営を立体的に見られるようになりました。その経験から、経営が「伸びている」多くの大学では、部長が大切にしていることや考え方、取り組みに意外な共通点があることに気づきました。

「伸びてる大学」はみんな有言実行だ

(途中略)

目標を職員の前で公言したほうがいい理由は2つあります。

まずは、部長1人の力では大学の目標を達成できないからです。職員の力を借りるためには、職員一人ひとりが目標数字を認識し、その数字を達成したいと感じてもらったうえで仕事に取り組んでもらう必要があります。

大学全体の目標を各部署や各人に細分化したり、各月や各週に細分化したりして、職員一人ひとりがその目標数字のどの部分を担っているのかを見えるようにし、役割を自覚できるようにする必要があります。全学の目標として大きな数字をいわれても、職員はどう頑張ればいいのかわからないからです。

そして、目標数字を全職員と共有するもう1つの意義は、目標を声に出すと部長自身が本気になれるということにあります。

内に秘めた目標は誰にも伝わっていませんから、達成できなくても自分の中で言い訳ができます。「職員の頑張りが足りなかった」「開発に想定外の時間がかかった」「見込みが甘かった」など。

全職員に伝えてしまった目標が達成できないと、職員の士気にも悪い影響を与えますし、何よりも自分で言った以上は達成できないと格好悪いですから、どうやれば目標数字を達成できるかを自然に考えます。いつもそのことを考えるようになるので、本や新聞で読んだこと、人との会話の中などにちりばめられている目標達成や問題解決のヒントを、逃さずキャッチできるようになるのです。

私の友人は、「部長はヒーローでなければならない」「そして、ヒーローはみんな有言実行だ」と言っていました。ヒーローは黙って姑息な攻撃を仕掛けることは絶対にしない。

マジンガーZは「ロケットパ~ンチ!」と叫んでからパンチを繰り出し、ドラゴンボールの孫悟空は「か~め~は~め~波~~!」と言ってから波動を出すのです。そして部長はヒーローなのだから有言実行なのだというのです。

もちろん、日々部長が目標数字を公言し、職員の耳と頭にすり込んでいくうちに、職員もその気になっていきます。頭で考えるのではなく、「声に出して言う」ことにはそれくらい大きな力があるのです。

目標は誰が決めればいいのか

そんな大学の目標数字は誰がどのようにして決めるのがいいのでしょうか。このことを私は、日ごろからよい経営を考え抜き、実践しているH部長から教わりました。

「目標とは『意志』なのだから、いちばん高い志をもっている部長が決めて部下に伝えるべきだ」という人がいます。部下にとっては、目標は低いほうが楽ですから、部下に目標を決めさせては高い目標などつくれるはずがないというわけです。

一方で、「上から言われた数字では職員が本気になれるわけがないから、目標数字は職員が自分たちで決めて積み上げるべきだ」という人がいます。職員が自発的に動くためには、自分たちが自発的に設定した目標である必要があるというわけです。

このように、目標をトップダウンで定めるべきなのか、ボトムアップで定めるべきなのかといった議論は、さまざまな場所でよく行われますが、H部長は、「ボトムアップでトップダウンの数字をつくるべきだ」と言います。

つまり、職員は部長が一方的に決めた目標数字では納得せず、本気にならないので、まずは職員たちに目標数字を考えさせます。それが部長の考える数字より低い場合には、「本気を出せばもっとできるのではないか」「本当はもっとやりたいと考えているのではないか」「もう一度考えてきてくれないか」と言いながら、何度も職員と徹底的に話し合うのです。

そこまでした結果、部長が「やる」と約束する数字が、部長のやりたい数字と一致したときに来期の目標が出来上がるというわけです。

ボトムアップでトップダウンの目標数字をつくるためには、何度も職員と話し合うことが必要ですから、今期が終わりそうになって慌てて来期の目標数字を考えても、間に合いません。H部長は期が締まる3カ月以上前から、来期の目標数字を職員と話し合っています。

職員の目標を統一することも大事だ

そして違う目標をもっている人と、同じチームで働くことはできません。ですから、部長は目標を公言することにより、職員の目標を統一することも必要です。

たとえば、あなたが日本代表のサッカー選手だとして、本気でワールドカップで優勝したいと考え、血のにじむようなトレーニングを重ねているとします。ところがチームメートに「自分は日本代表に選ばれただけで満足だ」と考えている人がいたら、どう考えますか。おそらく「こんなやつはチームから外してくれ」と思うのではないでしょうか。

大学でも同じことです。職員の中に目標が低い人が交じっていると、目標が高い職員のやる気を削いでしまいます。全職員に高い目標を与えて、共有させる役目を果たすことができるのはただ1人、部長だけなのです。

伸びてる大学の部長は、部長にしかできない仕事をしています。決して、職員と同じ仕事をしていません。

(途中略)

大学の成長に合わせて、部長の仕事も変わっていかなければなりません。ときどき、どうしても人に仕事を任せることができず、何でも自分で抱え込んでしまう部長がいます。「部下に頼むより、自分がやったほうが早い」と考えてしまう部長に多く見られるケースです。それは「部長が部下の仕事を取り上げてしまっている」状態です。

「組織化」を図るためには

仕事の「属人化」から脱却し、「組織化」を図るためには、部長が何でも仕事を抱え込むのではなく、どんどん部下に任せなければなりません。

任せるとは丸投げでもなく、放任でもありません。任せたから一切口出しをしないとか、ミスをしても叱らないというのもいけません。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」とは山本五十六の有名な言葉ですが、まずは上司がお手本を見せること、そしてやり方を手取り足取り教えて、やらせてみなければなりません。

部長が忙しくなりすぎてしまうと、部下の前で手本を示したり、手取り足取り教える時間が取れなかったり、日々中途半端な指示を繰り返すことになってしまいます。そして、結局「部下に教えるより自分がやってしまったほうが早い」という悪循環に陥ってしまいます。

自分で手を動かすのではなく、部下に教えるのが部長の仕事です。部長と同じような仕事ができる部下が1人、2人と育つことによって、大学は一気に2倍、3倍と伸びていくのです。

そして、部下が少しずつ仕事を覚えてきたら、今度は最初から最後まで指示をしたり、細かいミスを指摘したりするのではなく、部下に裁量を与え、部下たちだけでもっといい仕事や、もっと短時間でできるやり方を考えられるのが望ましいでしょう。いつまでも細かい指示を繰り返していると、職員はやる気を失い、自分の頭で考えることを放棄して指示待ち人間になってしまいます。

「社長が何でも抱え込む」会社は成長できない できるリーダーは社員を信じて仕事を任せる|2017年4月4日東洋経済 から

記事紹介|前向きな怠惰

仕事は「定型化」してからが本番

当時のわたしにはなく「仕組みを作る」という視点はなく、虚をつかれました。

「俺たちがすべき仕事は、与えられた『作業』をこなすだけじゃなく、その『作業』を平準化し、誰にでもできる『仕組み』を作ること。

なぜなら、その『仕組み』が金を生むからで、俺たちはその金を生む仕組みを作るために会社から給料をもらっている。だから、お前みたいに目の前の『作業』をこなしているだけだと、会社が期待する『仕事』のまだ半分レベルってところだよ」

と続けざまに説明され、自分が「仕事をしているつもり」と指摘された理由が、明確になりました。確かにわたしは目の前の作業を「こなす」ことにばかり意識が行っていて、その作業をもっと効率よくやろうとか、自動化しようとか、「自分以外の人がやってもできる状態にしよう」という考えは、ありませんでした。

でも、同時にある疑問が浮かびました。そうやって自分の仕事を『誰にでもできる仕事』にしてしまったら、自分の仕事がなくなってしまうのではないだろうか?

この問いには、間髪入れず「そしたらまた次の『誰も平準化していない仕事』を見つけて、そっちに着手するんだよ」と答えられ、「そうやって社内の『作業』を平準化して、金が生まれる仕組みを次から次に作ることが、俺たちに期待されている『仕事』だろ」と諭され、以来、彼を師匠と仰ぐこととなるのです。

以降、彼から伝授された教えが多くあるのですが、いくつか紹介します。

  • 2回以上、同じ仕事を繰り返したと感じたら、定型化するか、自動化しろ
  • 企画書でもメールでも議事録でも、テンプレート化することを常に考えろ
  • 使い回すことは悪ではない、使い回しを使った資料をブラッシュアップしないことが悪
  • 長い時間働くヤツがえらいんじゃない、より短い時間で、より高い成果を出したヤツが一番えらい
  • ラクをする理由は、時間の余裕を持っておかないと仕事のレベルを引き上げることができないから

これらを始めとする先輩の教えに通底していたのは、「前向きな怠惰」が仕事のレベルを上げる、という考え方でした。ただサボりたい、ただラクをしたい、のではなく、ラクをして、時間の余裕を作ることで仕事の内容の見直しをしたり、見落としをチェックできる。そうすることが、最終的には自分の市場価値を引き上げることにつながる、という考え方です。

目先の『作業』に追われている限り、仕事を俯瞰で見ることはとてもむずかしいです。そして今やっている『作業』をいかにラクに終えるかを考え続けることは、その『作業』の本質を見抜こうと考えるのと、とても似ています。

本質を見抜くことができれば、逆にしなくていいこと、省略できることが見えてくる。そうやって自分1人でできる仕事の量を増やしていくことが自分にとっても、会社にとっても重要で、必要とされる人材の要件だったのです。

「ラクをしたい」という気持ちは、悪ではありません。その気持ちにフタをしてしまうことで、見えなくなってしまう部分がたくさんあります。

むしろ「ラクをしたい」という気持ちをよりプラスな方向へ向けてどんどんラクをすることで、自分のできる範囲を増やし、スキルを磨くという視点を持ちましょう。「前向きな怠惰」、ぜひ取り入れてみてくださいね。

サイボウズ式:仕事の本質は「いかにラクをするか」|2017年4月3日 から

記事紹介|お前の苦しみは全部お前のせいだし、お前より大変な人はもっといる

「ネクタイが特徴的ですね」との質問を受け今村雅弘復興相は「エヴァンゲリオンの柄です」と答えた。かの人気アニメの制作会社が福島に新設した拠点を訪ねた際に頂いたと説明。被災地の企業の「動く広告塔です」と締めくくった。

以上は気分も良かったであろう2月28日の会見。やはり「エヴァ柄」のネクタイで臨んだ一昨日の会見は一変した。原発事故の自主避難者に対する国の責任を問われるうちに激高。なおも質問する記者に「うるさい」と捨てぜりふを残して会場を去った。

復興相は自己責任論を振りかざした。自主避難者への住宅支援は帰還を促すため3月末で打ち切っている。「難しい問題を抱えながら帰ってもらえる人」を持ち上げ、帰りたくても帰れない自主避難者は「本人の責任、判断」と言い切る。被災者を分断するかのような姿勢が見えた。

<お前の苦しみは全部お前のせいだし、お前より大変な人はもっといる>。作家雨宮処凛さんは先日出版した「自己責任社会の歩き方」で、自己責任を通訳すれば、そんな意味だと書いた。直訳するなら「うるさい、ガタガタ言うな、黙れ」である、と。

安倍晋三首相は3月の東日本大震災追悼式の式辞で「原発事故」の文言を使わなかった。「復興の着実な進展」に力点を置いたように見えた。成果を誇示し前に進めと号令をかける政治は、思い悩んでうずくまる人々を置き去りにする。エヴァ柄を自慢するばかりでは苦悩に寄り添えない。

斜面(4月6日)信濃毎日新聞 から

天下りと国立大学の自立性

文部科学省の天下り問題。記事を見ない日がないほど、この問題は社会的な関心が高く、再発防止に向けた期待も大きいと思われます。

しかしながら、天下り問題は根深く、これまで切れ目なく繰り返され、私たちを大いに失望させてきました。かくゆう文部科学省自身が天下り問題の歴史をつくり続けています。

このブログで取り扱った天下り問題にはどのようなものがあったのだろうと思い、”天下り”というキーワードで検索してみました。

このたびの文部科学省の天下り問題で、”天下りの下地”として指摘されている「文部科学省出身者の国立大学への出向問題」についても、何度か取り上げていました。

このようなことがいつまで続くのか、もはやあきらめの境地ではありますが、文部科学省も、そして国立大学自身も、そこはやはり税金で飯食っている”公僕”というあるべき姿に立ち返った国民目線の大胆な人事制度改革を断行してほしいと切に願うものです。

過去記事”天下り”をご紹介(今回の文科省問題関連記事を除く)しましょう。

記事紹介|天下りの下地ー国立大学への出向人事

違法なあっせんで退職者が大学に天下りをしていた文部科学省。その下地の一つに現役職員の大学への出向がある。出向中に他の職員の再就職に関わるケースがあるほか、過去8年間で26人が復職当日に退職し翌日には再就職していたことが判明。出向中は国家公務員でなく違法ではないが、政府の再就職等監視委員会は「しっかり監視する必要がある」としている。

「先生として教えてもらった実績があり、継続して採用した」。東北地方のある公立大学は2005年に文科省から出向した職員を09年4月に教授として迎え入れた理由をこう説明する。

この職員は同年3月31日に復職した当日に同省を退職、翌4月1日に公立大に再就職。内閣人事局の資料によると、この職員を含め16年9月までの約8年間で26人が同様に1日だけ復職して再就職していた。うち4人の再就職先は出向していた国公立大。出向を終え1日だけ同省に戻るのは「退職金を受け取るため」(同省人事課)という。

出向中は国家公務員ではなく再就職活動が可能だ。以前は退職後2年間は職務に関係する大学や企業などへの再就職は原則禁止だったが、08年の国家公務員法改正で在職中の就職活動や省庁のあっせんがなければ違法ではなくなった。このため「1日だけ復職して再就職」が可能になった。

再就職等監視委によると、大学に出向している文科省職員が、出向先大学への他の職員の再就職に関わっているケースもあるという。同委の加藤真理監察官は「出向者は国家公務員法の適用外だが、しっかりと監視していく必要がある」と指摘する。

文科省によると、1月1日時点で241人が国立大全86校のうち83校に理事、事務局長などとして出向。同省は「幹部人材を求める大学の要請に応じて派遣している」という。

同省にとっては「大学の現場で経験を積めば復職後、行政に生かせる」(人事課担当者)という狙いもある。だが出向から戻ってすぐに退職して再就職してしまえば、現場の経験は生かせない

出向先と再就職先には偏りもある。

出向先のほとんどは国立大だ。国家公務員退職手当法の規定で、退職金に関わる勤続期間に国立大は出向期間を算入するが、私立大は原則適用されないためだ。

04年の国立大学法人化の前は国立大は国の機関で、頻繁に同省本体との間で人事異動があった。同省人事課は「(出向は)制度ではなく慣習」という。

国立大の人材育成が十分に進んでいないこともある。現役出向の受け入れが10人で最も多い千葉大は「調整能力に優れた、幹部になり得る人材を大学で育てるのは難しい」(人事課)と漏らす。

一方、3月末に最終報告が出た違法な再就職先は私大が目立つ。関東圏のある国立大職員は「現役出向者がいれば、再就職者を受け入れるメリットはあまりない」と明かす。1日だけ復職して再就職した案件でも26人のうち13人の再就職先は私大だった。私大は現役出向を受け入れにくい分、再就職者を積極的に迎える構図が浮かぶ。

同省は職員の大学などへの再就職の自粛を決めたが、現役出向は続ける見通し。天下りに厳しい目が注がれる中、下地ともなっている出向を教育行政の改善につながるよう検討する必要がある。(下線は拙者による)

文科省から大学の天下り、現役出向が下地 復職翌日に再就職|2017年4月7日日本経済新聞 から

2017年4月5日水曜日

記事紹介|国民に対する畏れの喪失

官僚の天下り規制を巡るイタチごっこに、終止符を打たねばならない。逸脱行為には、もはや刑罰を科すべきではないか。天下りによる支配を排し、法の支配を貫徹させる仕組みが欠かせない。

官僚は公僕としての高邁(こうまい)な精神を見失い、私利私欲を満たす道具として公務を利用しているのではないか。違法天下りの実態を調べた文部科学省の最終報告は、そうした強い疑いを抱かせる。

2008年施行の改正国家公務員法は、現役職員による再就職のあっせんなどを禁じた。ところが、規制の網をかいくぐるために人事課OBを隠れみのにしたり、現職が仲介したりして62件の違反を犯していた。

遅くとも10年には逸脱行為があったことが確認され、歴代の事務次官を含めて43人が処分された。組織ぐるみであっせんシステムを築き、水面下で引き継いでいたとは深刻な事態である。

法律作りのプロ集団である官僚が不正に走った根底には、順法意識の欠如もさることながら国民に対する畏れの喪失をうかがわせる。もとより、それは官僚機構を統制すべき政治の責任といえる。

外務省や旧経済企画庁のOBの口利きまでしていた現実は、天下りの慣行が全省庁共通の既得権益として固守されている証左と見るほかない。他省庁の実態調査を徹底せねばならない。

文科省は許認可や助成といった権限を背景に、教育界に対して影響力を持つ。文教行政の中立性や公正性がゆがめられた事実はなかったか。今度の調査はその肝心な点に切り込んでおらず、かえって国民の不信を増幅させかねない。

官僚とはいえ、職業選択の自由は守られるべきだし、民間の場で公共の福祉のために再び才能を発揮する道があってしかるべきだろう。だからこそ、天下りを一律に禁じるのではなく、法律で再就職の適正手続きを定めたわけだ。

しかし、文科省の組織的な法律破りはその甘さを露呈させた。不正に天下りを送り出した側と天下ったOB、さらには受け入れた側の三者に刑罰を科す仕組みを導入することが効果的だろう。

改正前の国家公務員法では、離職後2年間は密接な関係のある企業への再就職を禁じていた。違反すれば、1年以下の懲役または50万円以下の罰金に処された。参考にしてはどうか。

天下りを介して文教行政が差配されては困る。権力を法律で縛る法の支配原理に立ち返りたい。

文科省天下り 法の支配を貫徹させよ|2017年4月4日中日新聞社説 から

記事紹介|天下り 何を反省すべきなのか

組織ぐるみの天下りを指摘された文部科学省は、2か月あまりにわたる内部調査の結果を公表し、関わった職員43人を処分しました。調査結果をもとに、組織ぐるみの体制がどう築かれたのか、実際にどんなことが行われていたのか、何を反省すべきなのかについてみていきたいと思います。



今回の調査では、事務方のトップである事務次官を頂点にOBという抜け道を介して、あるいは文部科学省本体が素知らぬ顔で天下りをあっせんしていたことがわかりました。



また、外務省など他省庁から大学に口利きをしていたことも新たにわかりました。結局、内閣府の再就職等監視委員会から指摘があったケースと職員全員を対象にした調査結果からあわせて62件が国家公務員法に違反すると認定されました。その上で関わった職員、退職した人も含め43人が処分、中には、事務方のトップである歴代の事務次官8人と人事課長経験者8人が含まれ、最も重い人で停職3か月、ほかに減給や戒告などになりました。文部科学省の歴史上もっとも大人数の不祥事です。

今回問題になった天下りとはどういうものなのでしょうか?



制度上、天下りそのものが禁止されているわけではなく、利害関係のある職場に役所が窓口になって転職のあっせんをすること、現職のうちに自らを売り込むことに限って禁止されているものです。今回の調査では、あっせんととられないように人事課の職員が連絡役となり、外部団体に転職した元人事課の職員OBを窓口に就職先の調整に当たっていた、いわば抜け道を作って天下りを続けていたケースが多く見られ、あわせて役所本体も直接あっせんに関わっていた2通りのケースがありました。

そもそもどうしてこういった組織ぐるみの体制が築かれていったのでしょうか?



今の制度は、10年前の2007年に国家公務員法が改正されて、省庁が天下りをあっせんすることが禁じられたもので、その翌年から実施されました。これ以降、役所が窓口になって口利きはできなくなりました。しかし、文部科学省の場合、人事課の経験の長いOBが定年退職となったのを機に、ボランティアとして買って出て再就職のあっせんを始めました。最初のうちは役所も後ろめたさがあったのか、様子見で控えめな対応でしたが、実績を積み上げるうちにこのOBを介して就職のあっせんをすることが次第に当たり前のようになっていきました。最終的には事務方のトップである事務次官の承認を得て、組織ぐるみの体制が築かれていきました。根底には、天下りは退官後の就職先の確保の手段としての必要悪という考え方があり、後ろめたさは持ちながらも、やむを得ないではないかという役所としての開き直りのようなものが感じられます。



こうした天下りがなぜいけないのかという声が聞かれますが、補助金や助成金の名目で税金がつぎ込まれている役所と利害関係のある職場ですと、人を受け入れる見返りになにがしかの恩恵が受けられるのではないかという思惑が生まれがちだからです。専門家の中には「天下りは形を変えたワイロだ」と言い切る人さえいます。

実際にどんなことが行われていたのでしょうか?



大学が天下り先としての指定席になっていたこと。違反とされた62件のうちの33件、ほぼ半数を占めていました。各省庁から経験を生かして大学の教員になっている人はいますが、文部科学省の場合は、私立大学に対しては私学助成の形で年間3000億円あまりの予算を投入している上に、大学の設立や増設について認可権限があり、利害関係先に当たります。あらぬ疑いをもたれないように日頃から襟を正しておくことが必要でしたが、当初問題になった早稲田大学のほかにも慶應大学にも口利きをしてOBを送りこんでいたことが明らかになるなど、むしろ当然のように人を送り込んでいました。私立大学をある意味植民地化していたとも言えます。一方で、私立大学の側も、求人情報を文部科学省に伝え、候補者を紹介してもらうというもたれ合いの構図になっていました。



もう一つは、ポストのたらい回しの実態。文部科学省の幹部職員というとかつては退職後に国立美術館や博物館、独立行政法人の理事長や理事として転職することがお定まりのコースでしたが、規制が強化されて以降は簡単には天下ることができなくなっていました。



しかし、これらのポストへの天下りが限定的になった分、文部科学省が関係する公益財団法人やNPOなど文部科学省OBの指定席とされるポストは、より一層、前任者が文部科学省に後任選びをさせるというたらい回しの構図になっていました。再就職先に収まっていたOBたちが確実に自分の後任を文部科学省の人事担当者に相談して紹介してもらう。まるで互助組織のようにも見えます。既得権は決して放さない身内意識の強さを感じます。

では、なにをどう反省すべきなのでしょうか?



まずは、天下りは許されないという倫理意識の徹底を。官僚の間には、天下りがなぜ悪いのかという意識が強くあります。民間会社も、子会社を作って職員を送りこんでいるではないか。不公平だというのです。しかし、大きな違いはそこにワイロと同様な持ちつ持たれつの関係が生じやすいことです。公務員としての倫理意識を改めて心に刻み、OBになって以降も持ち続ける意識改革が求められます。

2つめは、既得権益の見直しを。役所の外に一般の人ではなかなか作れない法人をいとも簡単に作り、そこに人を送り込む。そのポストをたらい回す構図が浮かび上がりました。そこに役所の予算で補助をするとなると税金をそのために使っていることになりかねません。公金意識がまったく欠けています。そうしたポストに就くことに必然性はあるのか、既得権益を一から見直し、説明責任が果たせるようにすべきです。

3つめは、転職に当たってのルールの厳格化を。ルールを守っているように見せかける。そうしたことでズルズルとここまで来てしまいました。政府は再就職等監視委員会が機能したから、今回のことが明るみになったとしていますが、ルールができて以降、ほぼ10年近く違反を繰り返してきたことになります。その間、なぜ歯止めをかけることはできなかったのか、その点を検証し、必要な対応をとることは国会が責任をもって行うべきです。一部で、刑事罰を科す議論が出ていますが、そうしたことも含めて議論を重ねてほしいと思います。あわせて、他省庁でも同様なことが起きていないのか、調査の徹底を求めたいと思います。

今回の調査で、誰がどのように指示した結果こうした組織ぐるみの体制が築かれたのかまでは明らかになりませんでした。誰が指示したのでもなくことが運ぶ、このところ国会で議論を呼んでいる国有地の売却問題にも似た構図です。証拠となるものを残さなければ何をやっても許されるのか。そういうことではないはずです。文部科学省は、今後第三者によるチェック体制を整えるとしています。来年春からは小学校で道徳教育を必修で行うことにしています。こどもに道を説くなら、外の目で監視するという形を作る前に、まずは自ら率先して襟を正し、こどもたちに大人として恥ずかしくない姿を見せる必要があります。そこから始めないと教育を語る資格はありません。

組織ぐるみ 天下りの構(時論公論)|2017年3月30日NHK解説委員室 から

記事紹介|時代を見極める視点を持つ

これは大学の講義でも学生に伝えていることですが、ニュースは時代を知る窓であり、そこに見える風景は毎日、刻々と移り変わっていきます。大切なことは、世界がどの方向へ向かうのか、自分なりのシナリオを描きながら、次の展開に備えておくことだろうと思います。

その視点を養うには、毎日のニュースを知り、ときには歴史に学びながら、時代を見据える作業を重ねることです。たとえば米国が現代の「アメリカ・ファースト」のような外交政策を最優先したのは、今に始まったことではないからです。

この作業を重ねていくと、将来の様子がおぼろげながらに見えてくるはずです。新聞やテレビで知るニュースは生きた教材でもあるのです。

時代を見極める視点を持つことは、自らの生き方や職業を考えていく上でも大いに役立つでしょう。学生時代には学校や先生が防波堤となり、君たちを守ってくれましたが、これからは自らのアタマで判断し、人生を切り開いていかねばなりません。自分のことは、自分で守っていかなくてはならないのです。

人工知能(AI)の開発が急速に進み、人間の判断力や能力を超える日が来ると予測されています。しかし、自らの人生を決断するのは君たち自身です。人々があり得ないと考えていた出来事が起こる世の中だからこそ、時代を読むアンテナを高く張り、変化に備えておく必要があるのです。

好奇心と学び続ける意欲を失わなければ、きっと人生は豊かになるはずです。期待しています。

池上彰の大岡山通信 若者たちへ 2017年 激動の予感 時代見極める視点持とう|2017年4月3日日本経済新聞 から

2017年4月2日日曜日

記事紹介|大学は軍事研究にどう向き合うか

日本の科学者を代表する機関、日本学術会議は、「軍事目的の研究を行わない」とする戦後出した声明を、あらためて「継承する」とした、新たな声明を決定。

「政府の介入が強まる懸念があり、問題が多い」と指摘。

日本の科学者は戦後軍事研究とは一線を画してきたが、なぜ半世紀ぶりに議論することになったのか。科学者は軍事研究とどう向き合うのか、水野倫之解説委員の解説。



解説のポイントは、学術と軍事の歴史的な関係。そして議論では何が焦点となったのか、さらに今後必要なことについて。



学術会議は科学の振興策を政府などに提言するために戦後作られた組織で、去年5月から軍事研究にどうかかわるのか検討会を設置して議論。そして先週の幹事会で、「軍事研究は学問の自由と緊張関係にあることをここに確認し、軍事目的の研究を行わないという過去の声明を継承する」とした新たな声明を決定。



議論で焦点となったのは、戦後に掲げた声明。
戦時中科学者たちは軍に動員され、軍が用意した手厚い環境の下で兵器の開発に協力した。
学術会議は、これを反省し、戦後間もなく、「軍事目的の研究は行わない」とする声明を発表して軍事研究とは一線を画すことを鮮明に。



しかし状況に変化。
安全保障環境が厳しくなっているとして政府は「国家安全保障戦略」などを決定し、防衛力の基盤強化のため、大学との連携を強め民生技術を活用する方針。
防衛省が、将来の防衛装備品の開発に、大学などに資金をだす研究制度。



背景には軍事技術と民生技術の線引きが難しい現状。
ロケットは弾頭を載せればミサイル。
また携帯に位置情報を届けてくれるGPSも、アメリカ軍がミサイル誘導のために開発したシステムを民生利用しているもの。



防衛省は年間最大3000万円を用意。これまでに大学からは防毒マスクや艦船のスピードを上げる研究など9件が採択。
声明があるにもかかわらず、科学者はなぜ応募したのか。
防毒マスクの繊維の研究が採択された豊橋技術科学大学の研究者。
取り組むのは髪の毛の10分の1の太さの極めて細いナノファイバーの開発。人体に有毒なガスを吸着する繊維。
防衛省はこうした繊維を活用すれば防毒マスクを軽量化でき、負担が減らせることに期待。



これに対して研究者は、「この繊維で人を殺傷できるわけではない。使い捨ての防毒マスクができれば、農薬散布にも使える」と言います。
また自由に使える研究費が極めて少なく、目についたのが防衛省の研究制度だったと。
制度に応募した大学が続いたことを受けて、学術会議は、過去の声明との整合性を検討。



議論では、自衛のための研究であれば許されるという主張。
これに対しては、多くの国際紛争は自衛の名のもとに始まっており、歯止めが無くなるとの反論も。



そこで検討会では、政府の安全保障政策の是非については踏み込まず、合意点を見出すため、主に大学の科学者がどう向き合うかを、検討。



焦点となったのは、憲法でも保障されている「学問の自由」。
この点、防衛省の研究制度は、研究の進捗状況を防衛省の職員が確認することになっていること。それに、成果の公開も、事前に防衛省に連絡することになっていたことから、学問の自由が守れなくなる懸念があるという意見で一致。




これをうけて、学術会議は「過去の声明を継承する」としたあらたな声明を決定。
防衛省の制度については「職員が研究の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い」と指摘するなど、軍事研究に否定的な内容。
これに対して防衛省は「研究に介入することは無く、今後も丁寧に説明していきたい」と。



ただこの声明が決まったからと言って、大学での軍事研究が自動的に禁止されるわけではない。
学術会議の声明は、大学の判断や行動を拘束するものではないから。
今後重要になってくるのは、今回の議論や声明を受けて、各大学やすべての科学者が自らにつきつけられた問題ととらえ、軍事研究にどう対応するのか考えていくこと。



というのもアメリカ軍も日本の民生技術を活用しようと、大学や研究機関に資金の提供を行ったことが明らかに。
しかしこうした研究資金を認めるかどうか審査検討する仕組みがある大学は少ないのが現状。
今後は各大学や研究機関が、それぞれ内部に検討会を設け、今回の声明案をもとにまずは軍事研究にどんな方針で臨むのかを議論していく必要。
そして議論にあたっては、将来を担う若い科学者も参加することが重要。



筑波大学新聞が学生600人にアンケートしたところ、賛成が34%、反対が27%と賛成が上回り、理科系に限ってみると賛成が42%。
そして大学などで議論を深めるためにも学術会議の役割は重要。
学術会議は半世紀もの間、この問題についてかかわりを避けてきた。今後学術会議がこの問題に積極的に関わっていくことが求められる。

科学者は軍事研究にどう向き合うか|2017年3月27日NHK解説委員室ブログ から

大学におけるデュアルユース技術に関する研究の在り方

科学者の代表機関である「日本学術会議」は、防衛省が「安全保障技術研究推進制度」を開始(平成27年度)したことなどから、「安全保障と学術に関する検討委員会」を平成28年5月に設置し、これまで、安全保障に関わる事項と学術とのあるべき関係等の課題について検討してきました。

そして、去る3月24日の幹事会において新たな声明を決定・公表しました。今後、4月13~14日の総会において、新たな声明及び検討委員会のとりまとめが公表される予定になっています。

防衛省は既に、平成29年度の公募を開始(公募期間:平成29年3月29日~5月31日)しており、各大学は、今後早急に、新たな声明に盛り込まれた「軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、その適切性を目的、方法、応用の妥当性の観点から技術的・倫理的に審査する制度を設けるべき」への対応を検討しつつ、応募の可否を判断しなければなりません。

軍事的安全保障研究に関する声明|平成29年(2017年)3月24日 日本学術会議

<声明のポイント> 全文はこちら

  • 日本学術会議の1950年の「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明及び1967年の間じ文言を含む「軍事自的のための科学研究を行わない声明」の2つの声明を継承する。
  • 防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015年度発足)では、将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく同庁内部の職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い
  • 学術の健全な発展という見地から、むしろ必要なのは、科学者の研究の自主性・自律性、研究成果の公開性が尊重される民生分野の研究資金の一層の充実である。
  • 大学等の各研究機関は、軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、その適切性を目的、方法、応用の妥当性の観点から技術的・倫理的に審査する制度を設けるべきである。学協会等において、それぞれの学術分野の性格に応じて、ガイドライン等を設定することも求められる。
  • 科学者を代表する機関としての日本学術会議は、議論に資する知見を提供すベく、今後も率先して検討を進めて行く。


(参考)日本学術会議における軍事研究等に関する過去の声明

声明 戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明(声明)|昭和25年(1950年)4月26日 第6回総会

日本学術会議は、1949年1月、その創立にあたって、これまで日本の科学者がとりきたった態度について強く反省するとともに、科学文化国会、世界平和の礎たらしめようとする固い決意を内外に表明した。

われわれは、文化国家の建設者として、はたまた世界平和の使として、再び戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに、さきの声明を実現し、科学者としての節操を守るためにも、戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する。

声明 軍事目的のための科学研究を行わない声明|昭和42年(1967年)10月20日 第49回総会

われわれ科学者は、真理の探究をもって自らの使命とし、その成果が人類の福祉増進のため役立つことを強く願望している。しかし、現在は、科学者自身の意図の如何に関わらず、科学の成果が戦争に役立たされる危険性を常に内蔵している。その故に科学者は自らの研究を遂行するに当って、絶えずこのことについて戒心することが要請される。

今やわれわれを取りまく情勢は極めてきびしい。科学以外の力によって、科学の正しい発展が阻害される危強性が常にわれわれの周辺に存在する。近時、米国陸軍極東研究開発局よりの半導体国際会議やその他の個別研究者に対する研究費の援助等の諸問題を契機として、われわれはこの点に深く思いを致し、決意を新たにしなければならない情勢に直面している。既に日本学術会議は、上記国際会議後援の責任を痛感し、会長声明を行った。

ここにわれわれは、改めて、日本学術会議発足以来の精神を振り返って、真理の探究のために行われる科学研究の成果が又平和のために奉仕すべきことを常に念頭におき、戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を声明する。

2017年4月1日土曜日

記事紹介|続・続・信頼回復ー組織風土改革

文部科学省が「天下り」あっせん問題に関する最終報告を公表した。違反事例は62件で、処分を受けた人は43人と、同省として過去最多となった。

人事課OBを隠れみのにした仲介に加え、現役職員も調整に直接動いていた実態が明らかになった。さらには3人の事務次官経験者が、在任中、自ら不正に手を染めていたという。

改めて問う。これが、道徳と称して子どもに「規則の尊重」や「公正、公平、社会正義」を学ぶよう求める役所なのか。

調査は外部の弁護士らが中心になって行われたが、期間の制約もあって万全とは言い難い。

例えば、あっせんの仕組みを誰が、いつ、どうやってつくったのか。天下り先ではどんな役割を担い、学部の設立や補助金の獲得にどんな影響があったのか。行政がゆがめられるようなことはなかったか。こうした肝心な点は不明のままだ。

これで教育行政に対する信頼を回復できるとは思えない。

深刻なのは、法に触れる行いに対し、誰からも疑問を差しはさむ声が出なかったことだ。

先輩から頼まれたから断れない、前任者からの引き継ぎだからやるしかない。そんな意識があったと調査班は見る。

文科省は、順法意識よりも身内意識を優先する組織風土の改革をめざすという。調査班からは、人事課の体制や現役とOBの関係の見直し、民間企業からの人材受け入れなどの提案が出ているが、いずれも即効薬にはなり得ない。地道な取り組みと不断の検証が必要だ。

今回の報告には、元外交官や旧経済企画庁出身者の再就職についても、文科省が口利きをしていた例が含まれている。天下りが、この国の官僚制度の構造的な問題であることを物語る。

政府は他の府省庁にも同様の調査を指示している。集約を急がねばならない。それぞれが天下り先として確保している「指定席」の公表が第一歩だ。

制度の見直しも求められる。以前は、離職後2年間は密接な関係のあった企業への再就職を禁じる規定があった。第1次安倍政権の時になくなり、かわりに官民をつなぐ人材センターや再就職等監視委員会がおかれたが、十分機能していないことがはっきりした。「2年」規定の復活を検討すべきではないか。

天下りの背景には、年功序列のピラミッドを維持するため、官僚が早期退職を求められるという事情がある。実績・能力主義に徹し、定年まで働くのが当然の職場にしなければ、この悪弊の根絶は難しい。

記事紹介|文部科学省は不思議な役所である

文部科学省は不思議な役所である。職員の再就職をめぐっては、ルールを大胆に破って天下りのあっせんに余念がない。その同じ官庁が、こと教科書検定となるとにわかにルール墨守の石部金吉と化すのだ。小中高校、どの科目にも杓子(しゃくし)定規な注文をつけてばかりいる。

こんど公表された、道徳教科書の初の検定はその最たるものだろう。「消防団のおじさん」が登場する話は、学習指導要領が高齢者への尊敬と感謝を求めているとして「おじいさん」に修正された。町でパン屋を見つけたという記述は「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」との観点から和菓子屋に変わった。

道徳の教科化は、長年の論争の末に実現した経緯がある。「心の教育」は大事だが、かえって道徳心を型にはめる恐れはないか。子どもが評価を気にするようにならないか。そんな指摘が少なくなかったから、中央教育審議会も画一化を避けるよう念を押していた。それがふたを開けてみれば案の定、いつもの文科省流だ。

この調子だと現場の先生たちは指導要領からの逸脱を恐れ、杓子定規の度合いがどんどん進むかもしれない。そういえば杓子定規というのはもともと、杓子の曲がった柄、つまりゆがんだ基準をあてはめることを言うそうだ。自分たちだけのルールを作っていた天下りあっせんのほうも、まさに杓子定規だったわけである。

春秋|2017年3月28日日本経済新聞 から

記事紹介|郷土のことをよく知らないのは文科省なのかも

「パン屋」が「和菓子屋」に、「アスレチックの公園」が「和楽器店」に書き換えられた。文部科学省の教科書検定の結果は衝撃でした。

小学校の道徳が2018年度から教科書を使うようになり、その教科書検定の結果が、3月25日付朝刊各紙で報じられました。

これまで道徳は「教科外の活動」と位置づけられ、教科書はありませんでした。道徳が小学校に導入されたのは1958年。私が小学生のときに道徳の時間が始まりました。「最近の子どもたちは道徳観念が薄れている」と声高に主張する人たちがいたためです。しかし、これが「戦後版教育勅語」になってはいけないという警戒心も強く、教科書を使う「教科」にはしないという条件で始まったのです。これが「教科外の活動」という位置づけの理由です。

それが、「特別の教科」という位置づけに格上げされ、文部科学省検定教科書を使い、成績評価も実施されることになりました。58年に道徳を学校教育に入れさせた人たちの目標が、ついに達成されたのです。なにせ「教育勅語」にはいいことも書いてある、などという政治家が存在する時代ですから。

検定結果で驚いたのは、小学校1年生の「にちようびのさんぽみち」という教材で登場する「パン屋」が「和菓子屋」に書き換えられていたという朝日新聞の記事でした。

また、同じく小学校1年生の「大すき、わたしたちの町」という教材ではアスレチックの遊具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に差し替えたというのです(別の教科書会社)。

なぜパン屋ではいけないのか。朝日の記事に文科省の言い分が紹介されています。「パン屋がダメというわけではなく、教科書全体で指導要領にある『我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りないため」と説明しているそうです。文科省の指摘を受け、教科書会社は「和菓子屋」に書き換え、検定を通りました。「アスレチック」も同様の指摘を受け、教科書会社が改めました。

ここで気をつけなければいけないのは、文科省が「和菓子屋」や「和楽器店」に書き換えさせたのではないということです。誤解して、「文科省はそんな指示までしているのか」と驚いた人もいるでしょうが、そうではないのですね。教科書会社の方で「和菓子屋」や「和楽器店」を選んだのです。指示されたのではなく忖度(そんたく)した、ということでしょう。

これについて3月29日付朝日朝刊の「天声人語」は、「和菓子や和楽器にすがって国や郷土への愛を説くとすれば、滑稽というほかない」と批判しています。では誰がすがったのか。まずは困った教科書会社がすがり、それを文科省が追認したのでしょう。

文科省は細かい点を指摘し、その後の修正は教科書会社に任せる。その結果、教科書会社は文科省の顔色をうかがって忖度し、「和菓子屋」や「和楽器店」を持ち出す、という構造になっています。

小学校の道徳で教えなければならない項目は、学習指導要領で学年により19~22項目あります。その中には「個性の伸長」という項目もありますが、教科書会社に忖度させて、内容をコントロールさせる。ここに個性の出番はありません。

それにしても、パンを和菓子に変えればいいのか。この点について文芸評論家の斎藤美奈子さんは、3月29日付東京新聞朝刊の「本音のコラム」で、こう喝破しています。

「日本のパンの元祖は、幕末の伊豆韮山の代官で兵学者でもあった江川太郎左衛門が兵糧として焼いたパンだったこと。明治初期に木村屋が開発したあんパンは発酵に饅頭(まんじゅう)用の酒種を使ったこと。一方、和菓子は遣唐使が持ち帰った中国の菓子にルーツを持つこと。和菓子の発展を促した茶の湯も、栄西が大陸から持ち帰った茶からはじまること。つまりどちらも郷土というより国際交流の賜(たまもの)で、両者の間に差などない」

郷土のことをよく知らないのは文科省なのかも。

池上彰の新聞ななめ読み 「パン屋」→「和菓子屋」、文科省への忖度|2017年3月31日朝日新聞 から