2018年3月30日金曜日

記事紹介|感性

あなたといると月が綺麗ですね 夏目 漱石

「I love you」という言葉を夏目漱石が訳したらこうなったそうです。

AIが発達して自動翻訳が発達しても、文章の意味そのものは理解しないAIがこうした表現を自分から紡ぎだすことは不可能でしょう。

ここに人間らしさがあるのだと思います。

直訳は、知識を与える行為で、漱石の訳は、心を教えている行為と言えるのではないでしょうか。

「雪が融けると何になりますか?」という質問に

「水」ではなく、「春になります」

と答えられる感性に通じますね。

意味|今日の言葉 から

2018年3月29日木曜日

記事紹介|失敗とは人間を立ち止まらせ、その人生を考えさせ、チャンスを探させる、成功の前兆なのだ

業種に関係なく、あなたは常に無限のチャンスがある。

型にはまった考え方を捨て、新しいものとかかわろうとする人々は、物質的に満たされるだけではなく、自分の仕事のなかに多大な喜びと満足を見出すことができる。

もしあなたがチャンスを待って、言い訳に言い訳を重ねているのなら、いずれは「もう年をとりすぎた」という最後の言い訳にたどり着くであろう。

この世を去るその日まであなたは、世界は自分に背を向けていて、自分の才能はふさわしい評価を得ず、成功した人たちは単に「運」や「まわりの力」に恵まれていただけなのだと考えつづけるであろう。

億万長者とあなたとの間にあるただ一つの差異は、「自身の姿勢」なのだ。

あなたは自分自身にとって、最も質が悪く手ごわい敵になりうるのだ。

「この世のどんな力も、あなた自身ほど、あなたの成長を確実にそして容赦なく妨げることはできはしない」

自分の無限の可能性を理解し、チャンスをつかむことは自分の当然の権利なのだと気づいたなら、ただ前に進めばいい。

1809年、ケンタッキーにある赤ん坊が生まれた。

父親は貧しいうえに、浮浪者であった。

母親は子どもが9歳のときに他界した。

すべてのチャンスは待っているだけではなく、自分で探さなければいけないと言い残して。

父親が反対し、彼は本を読むことも許されなかった。

彼の名はアブラハム・リンカーンといった。

「探せ、さらば見つけられるだろう」という言葉は、人は何であれ、まず探さなければそれを手に入れることはできない、という意味である。

待て、されば訪れるだろうとは意味が違うのである。


『ある父親が息子の通信簿を見て、そのあまりの劣等生ぶりに愕然とした。

父親は息子に法廷弁護士になってもらいたいと考えていたが、校長はその可能性はまったくないと断言した。

少年は落伍者だった。

そう、この人物こそウィンストン・チャーチルである。

彼は法廷弁護士にはならなかった。

ただ英国史上最も偉大な指導者の一人となったのである。

挫折は彼に大志を抱かせた。

奇妙に聞こえるかもしれないが、失敗とは人間を立ち止まらせ、その人生を考えさせ、チャンスを探させる、成功の前兆なのだ。

失敗の数が多いほど、未来の成功への可能性は高くなるのだ』

松下幸之助翁は、「子どもの頃は貧乏で一家離散、 病気がちで体が弱く、学歴もない(小学校中退)人だった。でも、だから成功できた」という。

貧乏、病気がち、無学歴、という3つの困難があった。

並の人間なら、そのうちの一つでもあったら、ペシャンコになってしまう。

それを乗り越えたがゆえに、大きな仕事を成し遂げた。

これは、リンカーンも、チャーチルも同じ。

だからこそ、人はみな、無限のチャンスを持っている。

「失敗とは成功の前兆である」、という言葉を胸に刻みたい。

2018年3月28日水曜日

記事紹介|大学改革が目指すべき方向性

経団連の教育問題委員会企画部会(三宅龍哉部会長)は3月1日、東京・大手町の経団連会館で会合を開催し、今後の大学改革が目指すべき方向性について、大学マネジメント研究会の本間政雄会長から説明を聞くとともに意見交換した。説明の概要は次のとおり。

終わらざる国立大学改革

国立大学改革は、戦後の新制大学発足以降、これまで数次にわたり行われてきた。近年では小泉政権下の「遠山プラン」(2001年策定)が挙げられる。同プランのもと、再編・統合の推進とそれによる国立大学数の大幅な削減、民間的経営手法の導入、第三者評価による競争原理の導入等が行われた。その後も、国立大学法人化(04年)や民主党政権下での大学改革プランなどがあり、その結果、01年に99あった国立大学は86まで減少するとともに、学長を中心とした運営体制の確立、外部人材登用による企業経営手法の導入などが推進されてきた。企業との共同研究による収入や特許料収入も約2倍に増えていることも踏まえると、形式的には大学改革は進んでいるようにみえる。

しかしながら実情は問題が山積している。統合・再編については、文部科学省が一定の指針を示さず、大学の自主的な検討に任せたため、一貫性のないちぐはぐな統合が見受けられ、教員ポストや入学定員は減少していないため、かたちだけの縮小になっている。事務職員の数も私立大学と比較すると明らかに多く、コスト意識や生産性において問題がある。さらに、外部理事の大半は文科省や大学関係者であったり、同省が任命する監事も実際は大学側が推薦しているケースが多かったり、経営目線をもった外部人材を登用できているとはいい難い。同省が13年に示した目標は、10年以内に大学ランキングトップ100に10校ランクインとしているが、途中経過ながら現状は極めて厳しい状況となっており、その達成は難しいとみている。

大学改革が目指すべき方向性

18歳人口は直近のピーク時に比べ半減しているが、国立大学学生数は60万人前後でほとんど減っていない。真に高い意欲と能力を持った学生の学びの場となるよう、戦略的にダウンサイジングするとともに、教育・研究機能を強化すべきである。例えば、旧七帝大や地方の基幹国立総合大学は学部を大幅に縮小し、研究に重点を置いた「大学院大学」に移行するのも1つの考え方である。また、大学の国際化やカリキュラム改革を進めるためには、優秀な外国人教員や教育力のある教員、若手研究者の採用が必要だが、多くの国立大学において教員人事を学部教授会が握っているため、従来型の人事に固執して給与の高い50~60代の教員の人件費を削減することができていない。事務組織・人事制度の改革の一環として、全学的な教員採用や評価基準を確立させることが喫緊に求められる。

<意見交換>

説明後の意見交換では、経団連側から「日本では大学を評価する基準はどうなっているのか」との質問があり、本間氏から、「現在の大学評価は文科省主導であり、身内が身内を評価しているようなものである。世界ランキング向上を目指すのであれば、グローバルスタンダードな評価基準体制を整備する必要がある」との回答があった。

2018年3月27日火曜日

記事紹介|話し三分に聞き七分

美しさは女の生命だともいえる。

修道院に入った身に着飾ることも、化粧することも縁遠くなったが、美しい言葉を使うことはできる。

それは、あそばせ、ございますを頻発することではなくて、できるだけ美しいひびきを持った言葉を使うと同時に、適切な言葉を正確に使うことも意味している。

借りものでない自分の言葉、そして、相手を傷つけないやさしい配慮を含んだ言葉でもある。

ヴァイオリンの早期才能教育で知られている鈴木鎮一氏が、

「まず自分の言葉が相手を傷つけるかどうかを感じる能力を育てること、それが育てば、バッハやモーツアルトの美しい音楽を感じとることができる」

という意味のことを言われたように記憶しているが、他の子どもに負けないようにと、高い月謝を払い、高価な楽器を買って我が子を音楽塾に通わせている親たちの味わうべき言葉であろう。

今日のようにお金さえ出せば誰も彼も同じような服を着ることができ、立派な家に住み、車をのりまわし、外国旅行に行ける大衆社会の時代において、教養をあらわすものの一つは言葉となろう。

流行語でしか話せない人でなく、豊かな語彙(ごい)をもち、やたらに外国語を使うことなく美しい日本語を話し、自分の立場を正確に判断して正しく敬語を使うことのできる人になりたいものである。

自分の感情をすなおにあらわし、意見を他人にも理解できるように伝えるとなると、これはもう言葉の意識ではなく、話す人の品性にかかわってくる。

感情を適度にコントロールできる自制力、客観的にものごとを見る判断力、そして個性のある生活が必要となってくるだろう。

人は話す前は自分の言葉の主人だが、口から出してしまった言葉の奴隷でしかない。

そのためにもよく考えて話すことがたいせつだ。

矛盾のようだが、よく話すために、そして美しい言葉を使うためには沈黙が必要となってくる。

それは押しだまった沈黙、「自分」でいっぱいの沈黙でなく、または「物言えば唇寒し」といった自己防衛の沈黙でなく、実り豊かなもの、その間の充実のあふれが人をして話さざるを得なくさせるような準備の時間であり、自分のこれから話そうとすることの響きをあらかじめ聞くべく心の耳を澄ます時間である。

女の人の沈黙は特に美しいと思う。

ほほえみとともに美しい沈黙を育てること。

言葉に先立つものとしての沈黙をたいせつにしてゆきたい。


「ことばは刃物」という言葉がある。

刃物は、気を付けて扱えば料理などではなくてはならない大事な存在だが、誤った使い方をすると人を傷つける凶器ともなる。

言葉もまた同じだ。

「神のささやきが聞こえるように沈黙しよう」(エマーソン)

《話し三分に聞き七分》、と言われるように、コミュニケーションは話すことより、むしろ聞くことの方が大事。

耳を澄ませば、神々のささやきまで聞こえるという。

自分が話してばかりいるときは、相手のことを分かろうとしていないとき。

沈黙には忍耐がいる。

しゃべりたくてウズウズしている自分を自己コントロールしなくてはならないからだ。

美しい言葉と沈黙には大人の品格がある。

美しい言葉と沈黙|人の心に灯をともす から

2018年3月26日月曜日

記事紹介|歴史に学ばない者は、歴史の繰り返しに抗し切ることもできない

名古屋市立中学校が前川喜平・前文部科学事務次官を講師に招いた2月の総合的な学習の時間について、文部科学省初等中等教育局教育課程課が市教委に授業内容の報告を要請していたことが分かった。きっかけは国会議員からの問い合わせだったというが、それにしては文面に前川氏への悪意が感じられる。

天下り問題で辞職し、出会い系バーを利用した同氏を、道徳教育が行われる学校の場に、どのような判断で依頼したのか――。まるで前川氏の人格が反道徳的であるかのような書きぶりである。天下りはともかく、出会い系バーの方は違法性がないにもかかわらず一部新聞が1面肩で報じた在り方が政権側の意図をくんだと批判され、その後の週刊誌報道で性的欲求を満たす意思がなかったことが明らかにされたにもかかわらず、である。

旧文部省系の現役官僚には前川氏を慕うだけでなく、批判的な者も相当数いるようだ。今回の報告要請の背景に、前川氏に対する怨嗟(えんさ)がなかったとは言えまい。しかも「考え、議論する道徳」を進める立場の初中局が、前川氏の道徳性を断じている。それも、その官僚たちが考える官僚としての道徳的価値で判断しているにすぎない。

そんな省内の人間関係を問題視するのは、決して業界紙誌的な野次馬根性ではない。世代間のギャップが、今後の文教行政に深刻な劣化をもたらしかねないと懸念するからだ。

少なくとも前川氏までの世代なら、個別学校の授業実践を文科省が直接問い合わせるなどということには極めて抑制的であるべきだという暗黙の合意があった。それは戦前・戦中の教育に対する反省であるとともに、戦後の「偏向教育」問題や教科書裁判など激烈な教育権論争を通して、旧文部省なりに得た教訓である。調査するにしても、ソフトなやり方はいくらでもあったはずだ。

しかし最近ではいじめ問題や教科書採択問題など、担当課はもとより政務三役さえ現場に出張って調査する事例も珍しくなくなった。それが「異例」であるという感覚がまひし、法令上は何ら問題はないと平気で容認してしまう。

例えば学習指導要領に関して、2003年の一部改訂をめぐり若手官僚には「なぜ改めて指導要領の基準性が問題になるのか。もともと指導要領は大綱的基準であって、現場の裁量が大幅に認められているではないか」という声があったという。指導要領通り、教科書通りに教えないことがしばしば政治問題化した戦後教育の歴史をまったく知らない世代らしい。日教組分裂後に採用された年次が既に課長級になっているから、それも致し方ないのかもしれない。

しかし歴史に学ばない者は、歴史の繰り返しに抗し切ることもできないだろう。それで高校の新科目「歴史総合」を推進しようとしているのだから、先行きが不安である。

今回の問題でもマスコミに発言している文科省OBの寺脇研氏は、前川氏との対談本『これからの日本、これからの教育』(ちくま新書)の中で、「命がけの文部官僚」剱木亨弘(けんのきとしひろ)元文部相を話題にしていた。そこまで苛烈ではなくとも、歴史的葛藤の下に営々と積み上げられてきたのが文教行政の英知だったはずだ。それを顧みずに「明治150年来」などと言って済ましている場合ではない。

2018年3月25日日曜日

記事紹介|本物になる

片足だけを水の中に入れ、私は本気、と言っている人が多い。

本気とは体全体を水の中に投じることである。

もう逃げられないという所に身を置くことである。

すると本腰が入る。

本腰を入れるから、真の力が出てくる。

そして、その姿勢を何十年も続けることで本物になる。

藤尾 秀昭


社会人になると4月という季節が一つの区切りになることは少なくなりますが、

世間的に新しい年度を迎えるにあたり、この言葉を持って自らの戒めにしたいと思い選びました。

本気、本腰、本物と、「本」がつくことをどれくらい実現出来ているか。

本来のもの、源という意味でもあるのでしょう。

知識の源とである本を読むことも同様に大事ですね。

あれこれ迷わず、今はこれだと決めてブレずに本氣で臨む。

そんな姿勢が大事なのでしょう。

2018年3月24日土曜日

記事紹介|その手が18年間おまえたちを育ててきた手だ

私が考える教育の究極の目的は「親に感謝、親を大切にする」です。

高校生の多くはいままで自分一人の力で生きてきたように思っている。

親が苦労して育ててくれたことを知らないんです。

これは天草東高時代から継続して行ったことですが、

このことを教えるのに一番ふさわしい機会として、私は卒業式の日を選びました。

式の後、三年生と保護者を全員視聴覚室に集めて、私が最後の授業をするんです。

そのためにはまず形から整えなくちゃいかんということで、

後ろに立っている保護者を生徒の席に座らせ、生徒をその横に正座させる。

そして全員に目を瞑らせてからこう話を切り出します。

「いままで、お父さん、お母さんにいろんなことをしてもらったり、

心配をかけたりしただろう。それを思い出してみろ。

交通事故に遭って入院した者もいれば、親子喧嘩をしたり、

こんな飯は食えんとお母さんの弁当に文句を言った者もおる……」

そういう話をしているうちに涙を流す者が出てきます。

「おまえたちを高校へ行かせるために、

ご両親は一所懸命働いて、その金ばたくさん使いなさったぞ。

そういうことを考えたことがあったか。

学校の先生にお世話になりましたと言う前に、まず親に感謝しろ」

そして

「心の底から親に迷惑を掛けた、苦労を掛けたと思う者は、

いま、お父さんお母さんが隣におられるから、その手ば握ってみろ」

と言うわけです。

すると一人、二人と繋いでいって、最後には全員が手を繋ぐ。

私はそれを確認した上で、こう声を張り上げます。

「その手がねぇ! 十八年間おまえたちを育ててきた手だ。

分かるか。……親の手をね、これまで握ったことがあったか?

おまえたちが生まれた頃は、柔らかい手をしておられた。

いま、ゴツゴツとした手をしておられるのは、

おまえたちを育てるために大変な苦労してこられたからたい。それを忘れるな」

その上でさらに

「十八年間振り返って、親に本当にすまんかった、

心から感謝すると思う者は、いま一度強く手を握れ」

と言うと、あちこちから嗚咽が聞こえてくる。

私は「よし、目を開けろ。分かったや?私が教えたかったのはここたい。

親に感謝、親を大切にする授業、終わり」

と言って部屋を出ていく。振り返ると親と子が抱き合って涙を流しているんです。

大畑 誠也(教育者)


大畑先生は、

『大人の生き方、在り方=大人の教育力』

『親の生き方、在り方=親の子育て力』

とも語られています。

大人がどんな生き方をしているか。

それをどのように子ども達に伝えるか。

それが親ができる一番の教育なのかもしれません。

2018年3月23日金曜日

記事紹介|ほどよい距離感

ほどよく距離があるとき、人は不思議とやさしくなれるものです。

誰かと関わるとき、その対象との距離感をはかりながら、もっと近づきたいと押しすぎたり、自分なんてと引きすぎたり、ときに間違い、修正しながら人間関係を織りなしていく。

人生とは、その時々で誰かとのちょうどいい距離を見つける作業の連続です。

人生をある程度長い期間生きたなら、もっとも心地いい距離を自分で見つけられる人間でいたいものです。

それが私が思う、成熟した大人のイメージです。

私がご提案したいと思うのは、ほどよく距離を置くという心がけ。

それは、自分の夫や妻、子どもや、嫁、婿に対して。

そしてご近所さんや、長年の友人に対しても。

自分が思っているよりももう半歩だけ、ちょっと距離を置いてみると、いつもより少し、やさしい自分になれるような気がするのです。

近すぎる糸は、もつれます。

多くの人間関係のからまりは、距離が近すぎるがゆえに起きるもの。

私はこれまでの60年余りの弁護士人生で、ありとあらゆる人間関係の「もつれた糸」の交通整理をしてきました。

正しく引っ張りさえすれば簡単にほどける糸、かたい結び目になってしまった糸…。

そのもつれ具合はさまざまですが、からまった糸の中にいるかぎりは、ほどくすべが見つかりません。

でも、からまった場所から一歩引いて、外からそれを見ることができたら、解決の糸口が見つかります。

つまり、自分の身に起きている問題や悩みごとと、ほどよく距離を置くことができたなら、物事は解決に向かう。

「法」という潤滑油を用いて、かたい結び目に見えた糸のもつれをほぐしながら、多くの方の人生の転機にも立ち会わせていただいたことは、私にとって大きな学びとなりました。

湯川氏は本書の中でこう語る。

『詩人の吉野弘さんの「祝婚歌(しゅくこんか)」をご存じでしょうか。

夫婦円満の秘訣が詰まった詩なのですが、生きる指針のようにも思えて、私がとても大切にしている詩です。

なかでも、一番好きな節があります。

「正しいことを言うときは 

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい」

人間関係のもつれにおいて、正しさの追求は、解決を生みません。

なぜなら、人の心において、正しさは人の数だけ存在し、真実も、その正しさの定規によって、人それぞれ違って見えるからです』

小林正観さんは、家族間の会話には、丁寧な言葉や敬語があったほうがいい、という。

親しくなってくると、丁寧な言葉や敬語はよそよそしいと感じる。

そして、ぞんざいな言葉や、ため口や友達言葉になってくる。

しかし、淡々と長く付き合うには、家族間だけでなく友人間や、会社の中でも、ほどよい距離感が必要だ。

そのほどよい距離を保つ具体的な方法が、丁寧な言葉や敬語。

人間関係において、ほどよい距離感はとても大事。

2018年3月22日木曜日

記事紹介|短期的成果の証明に追い立てられない大学になるためには

高等教育に対する世間の目は厳しい。それは初等中等教育と比較すると明らかである。かつては、社会の教育に対する関心といえば、初等中等教育に対する批判が中心であった。学力向上やいじめ、不登校などの問題行動への対応、通学路の安全対策などについて批判的に問われることが多かった。しかしながら、最近では、教職員の忙し過ぎる勤務実態に関する報道が多くなり、国会でも与野党を問わず、教職員の勤務環境を改善すべきだという話になっている。初等中等教育については社会からある種のシンパシーとも言える感情が膨らんできているのである。一方で、高等教育については、以前と変わらず、学生が遊んでばかりいる大学に予算を増やす必要はないといった声が多い。そうした声については、昔の大学のイメージで語っているものであって現在の大学が随分変わってきていることを知らないからではないか、という反論があるだろう。しかしながら、そうした反論は伝わっていないのか、伝わっても響かないのか、結果として大学への目線は厳しいままである。

近年、国会や政府において高等教育はかつてないほど注目されている。多くの政党は何らかの形での教育の無償化を公約としている。高等教育まで対象とするかには温度差があるものの、高等教育の無償化の是非が与党も含めた議論の対象になっているということだけでも数年前には考えられなかったことである。これだけ注目が集まり、高等教育への投資が拡充される絶好の機会であるにもかかわらず、そこに必ずついてくるのは、やはり「教育の質が低い大学に投資をする価値があるのか。」「投資する前に、多過ぎる大学の数を減らすべきではないか。」という議論である。文部科学省も、大学も、国立大学の運営費交付金の削減による影響や私学助成が10%を切ったという状況を訴え続けてはいるが、社会の大学への目線に「シンパシー」は生まれていない。

なぜ社会全体で大学を応援しようという空気が生まれないのだろうか。理由の一つは現在の大学の姿が社会に伝わっていないことであろう。もちろん大学関係者は情報を発信する様々な取組を行っている。その際大切なのは、誰に、どのような情報を発信するのか、という戦略性である。受験生や保護者に対しで情報を発信していくことはもちろん最重要であるが、それだけではない。大学への投資の在り方の政策を決定するのは誰なのか、政策決定の当事者に対して「大学っていうところは……」と語る有力者は誰なのだろうか、と考えれば自ずと戦略は見えてくる。全国各地の大学が、それぞれの地域で戦略的な「トップ外交」を行うことが大学への信頼醸成につながるのではないか。その地道な積み重ねによって大学への信頼が築き上げられる中で、短期的成果の証明に追い立てられるばかりでない、落ち着いた教育研究環境が必要だという議論が力を持つのではないか。

大学のイメージは変えられるか|IDE 2018年1月号 から

2018年3月21日水曜日

記事紹介|偉大なリーダーの条件

ウィンストン・チャーチルはイギリスの首相になるはずがない男だった。

“すべて完璧にこなす”政治家とほど遠い彼が首相に選ばれたことは、衝撃的な出来事だった。

たしかに切れ者ではあるが、その一方で偏執的で、何をしでかすかわからない危険人物というのがもっぱらの世評だったからだ。

チャーチルは26歳で英国議会議員になり、政界で順調に頭角を現したが、次第に国家の要職には適さない人物だと見られるようになった。

60代を迎えた1930年代ともなると、その政治的キャリアは事実上終わっていた。

いろいろな意味で、チャーチルは前任者のネヴィル・チェンバレンの引き立て役に甘んじていた。

チェンバレンといえばすべてを完璧にこなす、まさに典型的なイギリス首相だったからだ。

イギリス人は、首相をうかつに選んだりはしない。

たとえばアメリカの大統領と比べて、歴代の首相は概して年長で、適正を厳しく吟味されて選ばれるのが通例だ。

異例の早さで権力の座に上りつめたジョン・メジャーでさえ、アメリカ大統領の多くに比べ、首相職への備えができていた。

チャーチルは、異端の政治家だった。

愛国心に満ち溢れ、イギリスへの潜在脅威に対してパラノイア的な防衛意識を貫いた。

ガンジーさえも危険視し、インドの自治を求める平和的な運動にも猛反対した。

チャーチルは自国を脅かすあらゆる脅威に声高に騒ぎたてるチキン・リトル(臆病者)だったが、まさにその難点ゆえに、歴史上最も尊敬される指導者の一人となった。

チャーチルはただ独り、早い段階からヒトラーの本質を見抜き、脅威と認識していた。

一方チェンバレンは、ヒトラーは「約束をしたら、それを守ると信じられる男」という考えで凝り固まっていたので、宥和政策こそナチスの台頭を抑える方策だと確信していた。

ここぞという重大な局面で、チャーチルのパラノイアが本領を発揮したといえる。

いじめっ子に弁当代を渡したら最後、もっと巻き上げられるだけだ、奴の鼻を一発ぶん殴らなければならない、と見抜いていたのだから。

チャーチルの熱狂的な国防意識…危く彼の政治生命を滅ぼしかけた…は、第二次世界大戦前夜のイギリスになくてはならないものだった。

そして幸運にも国民は、手遅れになる前にそのことに気づいた。

偉大なリーダーの条件は何だろうか。

ハーバード大学ビジネススクールのムクンダは、それまでの研究結果に一貫性がなかった理由が、リーダーが根本的に異なる二つのタイプに分かれるからだと分析した。

第一のタイプは、チェンバレンのように政治家になる正規のコースで昇進を重ね、定石を踏んでものごとに対応し、周囲の期待に応える「ふるいにかけられた」リーダーだ。

第二のタイプは、正規のコースを経ずに指導者になった「ふるいにかけられていない」リーダーで、たとえば、会社員を経ずに起業した起業家、前大統領の辞任や暗殺により突然大統領職に就いた元副大統領、あるいはリンカーンのように予想外の状況下でリーダーになった者などを指す。

「ふるいにかけられた」リーダーはトップの座に就くまでに十分に審査されてきているので、常識的で、伝統的に承認されてきた決定をくだす。

手法が常套(じょうとう)的なので、個々のリーダー間に大きな差異は見られない。

しかし、「ふるいにかけられていない」リーダーは、システムによる審査を経てきていなので、過去に“承認済みの”決定をくだすとは限らない…多くの者は、そもそも過去に承認された決定すら知らない。

“バックウラウンド”が異なるので、予測不可能なことをする場合もある。

その反面、彼らは変化や変革をもたらす。

ルールを度外視して行動するので、自ら率いる組織自体を壊す場合もある。

だがなかには、少数派だが、組織の悪しき信念体系や硬直性を打破し、大改革を成し遂げる偉大なリーダーもいる。

「ふるいにかけられた」リーダーはことを荒立てずに済まそうとする。

「ふるいにかけられていない」リーダーは逆で、ことを荒立てずにはいられない。

システムや制度を破壊することもしばしばしばだ。

「ふるいにかけられていない」リーダーはなぜインパクトが大きいのか?

それはほかのリーダーと決定的に異なるユニークな資質を持つからだ。

ユニークな資質とは、日ごろはネガティブな性質、欠点だと捉えられていながら、ある特殊な状況下で強みになるものだ。

そうした資質は、たとえばチャーチルの偏執的な国防意識のように、本来は毒でありながら、ある状況下では本人の仕事ぶりを飛躍的に高めてくれるカンフル剤になる。

ムクンダはそれを「増強装置(インテンシファイア)」と名づけた。

この概念こそが、あなたの最大の弱点を最大の強みに変えてくれる秘訣なのだ。

古来よりの歴史をひもとくと、世の中が引っくり返るような大変化のときには、通常の指導者やリーダーでは対応できない。

ある種の狂気や、パラノイア(偏執症)を持った人が危機を救っている。

もちろん、その資質ゆえに、状況を悪化させたり、ダメにしてしまっている人もいる。

閑吟集に次のような言葉がある。

「くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して 何せうぞくすんで 一期は夢よただ狂へ」

まじめくさった人なんて見られたもんじゃない。

まるで夢のようにはかないこの世を、さも悟(さと)ったような顔をしたところでどうなるものか。

我々の一生は夢のようなもの。ただ面白おかしく狂えばよい。

世の中が引っくり返るような大変化のときとは、狂気の時代。

狂気に対しては狂気で向かうしかない。

現代は、ITによる超大変革の時。

通常の対応では、ほとんどの会社も、組織も生き残れない。

政治も同じだ。

いまこそ、異端の人を認めなければならない時がきた。

2018年3月17日土曜日

記事紹介|大学のガバナンスをはき違えていないか

改革は教授会問題だけではなく

大学のガバナンスというのは、大学における管理運営システムを指す用語であるが、同時に近年になって大学運営を巡る政府や産業界と大学との関係をも含む概念として理解されてきているようである。つまり大学の内部だけではなく外部との関係についてもその考察の目が向けられようとしている。それは大学を巡る諸環境の変化と無関係ではない。

かつて大学自治と外部とりわけ政府からの不千渉は、学問の自由から来る憲法上の要請として当然のことと理解されていた。昭和24年制定の教育公務員特例法は、法人化後の国立大学にはもはや適用されないものとなったが、その規定によれば学長、学部長、教員の任免や懲戒等に関わる評議会、教授会の権限は極めて大きく、大学運営の基本である教員人事に重要な役割を果たしていた。また、人事以外の大学に関わる重要な事項についても、教授会の承認がなければ運ばないような運用がなされていた。もちろんそれには批判も強く、教授会が意思決定に関わることによる大学運営の不効率や学長の権限行使の事実上の制限への不満も高まっていた。

ただガバナンス改革は、教授会の権限縮小を断行すれば済むほど、単純なものではない。むしろ今どき教授会云々を議論の中心に据えようとする向きは、世の中の進展による教授たち自身の変化を見ず、かつ大学の特質を深くは知らぬ者の議論であり、ある意味で、企業経営体制を過大評価するオールド・ファッション的な考え方である。なぜなら、わが国や海外の大学を見ても、大学の優秀性は教授集団の実力と明らかに相関関係があるからである。専門分野のことは専門家に聞けというのは、大学に限らず、専門職が活躍するさまざまな組織においても鉄則である。専門職集団を大事にしない組織では業績を十分に上げることはできない組織のパフォーマンスは彼らの責任ある行動を尊重する中から生まれてくるものである。つまり誤解を恐れずに述べれば、教授会の強いことは一流校の証でもあるのだ。疑問のある向きには、わが国をリードする歴史ある大学群とそうではない新興の大学群を比較してみるとよい。新興の大学群のガバナンスを適正に行う必要はあるとしても、名だたる大学のガバナンスを無理やり曲げて世界の二流校に引き下げることは愚策である。

執行部への権限集申の中で

いささか筆が走ってしまった。しかし、昨今の大学とりわけ国立大学のガバナンスを考える際に、これはとても重要なことである。私が漏れ聞いているあちこちの国立大学において、従来はあった部局の自主・自律が縮小し、学長を中心とする執行部に権限が集中する傾向がある。国立大学法人法では、学長に極めて大きな権限を与えており、役員会や理事ですらこれを掣肘することができない。学長が独任制意思決定機関であることを改めて思い知らされる。これは私学の理事長や学長にもない大きなパワーである。私立大学では合議制機関である理事会が最高意思決定機関であるからだ。法人化当初は学長の権限行使には、学長自身が極めて慎重であったと思われるが、近年は学長が自覚してきたのか、あるいは学長の権限を我が掌中に取り込もうという部局やグループがそうさせているのか知らないが、学長らの大学執行部が学内の人的・物的資源を掌握し、これがますます彼らの権力の源泉になる傾向が見られる。

もちろん、政府がこの20年近くにわたって言い続けている「学長のリーダーシップ」は、機動的な大学ガバナンスにとって必要な面もあるだろう。しかし、大学という組織は、とくに総合大学では、さまざまな学問分野によって成り立っている。またそれらの学問分野、とりわけ文系と理系および医系ではそのガバナンスの性格は大きく異なる。一つの分野のみに通用する論理で他を治めることには無理がある。その意味で学長のリーダーシップは強制ではなく調整という要素をかなり取り入れて行わないと、全体としてはうまく運ばないであろう。

(途中略)

ガバナンスに多様性を

会議の流れの中で、私にとって印象的であったのは、一つはガバナンスの問題は、大学の自主自律と社会に対する説明責任のバランスの問題であること、二つはわが国のガバナンス改革のもつ大学の自主・自律への配慮の小さいことである。最初のバランスの問題は、各国共通の話題でもあるが、これを実現するには、資源配分という生々しい問題があり、かつ各国の高等教育には独自の歴史的経緯もあることから、実際にはなかなか難しい。その意味で、国際比較は単なる制度の比較に限らず、現実がどうなっているのかという実証的な分析・研究が必要である。その意味で、ワークショップにおいて広島大学の大膳司教授(高等教育研究開発センター長)らのグループが発表した、1992年と2017年に行われた実態調査に基づく発表は、わが国のガバナンス改革の進展を数量的に明らかにするとともに、国立大学よりも私立大学で、また研究大学よりも非研究大学のガバナンス改革が進んでいることが報告され、大変興味深いものであった。ただし、法人化後の国立大学の変化は極めて大きいものであると、私個人としては強く思う。

二つ目のわが国の大学のガバナンス改革の特色であるが、当日これを論じた東北大学の大森不二雄氏によれば、法人化を始めとしてさまざまなガバナンス改革の結果、文科省は個別大学のミッションの再定義などの例に見られるように、内部運営にまで達するミクロ・マネジメントを行うようになり、あたかも文科省自身が本部、大学が支部のようになって、学長はその支部長のようなものだ(ただし表現は英語)とのことであった。極めて鋭い観察である。

各国は、それぞれの国の文脈に沿ったガバナンス改革を行っているが、私の印象では、とくにヨーロッパの大学は、政府とは一線を画した立場で運営が行われており、大学の自律性にはわが国では考えられないほどのリアリティーがある。その点、日本を含めた東アジア諸国においては、やはり政府の役割は極めて重い。台湾の国立政治大学の周祝瑛教授によれば、同大学の学長から教育大臣など政府に入る例が幾人もあるそうで、大学と政府とのつながりの強さを感じることができるし、また北京大学の沈文欽教育学院副教授の発表の中では、中国の大学には学長と共産党組織が並存しているとのことで、これは関係者には周知のことではあろうが、わが国との違いを感じざるを得ないものである。ウェルチ教授が最後にまとめを行ったが「多様化が進む中では、画一的な見方は適当ではない」という結論めいた言葉が、私には説得力をもつものであった。

2018年3月16日金曜日

記事紹介|リーダーが行うべきこと

口舌(こうぜつ)を以っていたずらに民を叱るな。

むしろ良風を起こして風に倣わせよ。

風を興すもの師と吏(り)にあり。

吏と師にして善風をしめさんか、

克己の範を垂れその下に懶惰(らんだ)の民と悪風を見ることなけん

三国志


社員を口で叱ってはいけない。

むしろいい環境をつくって、その環境に倣わせなさい。

環境をつくる責任は社長と幹部にある。

社長と幹部がまず手本を示しなさい。

その下に悪い社員ができようはずがないではないか。


安岡正篤氏は、

環境が人を作るということに捉(とら)われてしまえば、

人間は単なる物、単なる機械になってしまう。

人は環境を作るからして、そこに人間の人間たる所以(ゆえん)がある、

自由がある。即ち主体性、創造性がある。

だから人物が偉大であればあるほど、立派な環境を作る。

人間が出来ないと環境に支配される。

と語っています。

環境や雰囲気を作り出すことが大事な仕事なのですね。

そしてリーダーの立場にある者はもちろんこれに取り組むべきですが、

実は誰もがそのリーダーシップを発揮できるのでしょう。

環境作り出すものは、考え方ではなく、行動そのものだと思うのです。

2018年3月1日木曜日

記事紹介|忙しい人と余裕のある人

同じことをしていても、忙しく感じさせる人と、余裕があるように感じさせることができる人がいるもの。

「忙しい人」と「余裕のある人」の間には、いったいどんな違いがあるのでしょうか? 具体的に見て行きたいと思います。

01.やるべきことの見極めができるかどうか

忙しい人と余裕のある人の違いは、まず「やるべきこと」と「そうでないこと」が的確に見極められるかどうか、という点にあります。

忙しい人は、「やれたら理想的」ということも「やるべきこと」として分類するので、いつのまにか「やらなければならないこと」が増えていきます。

一方で余裕のある人は、最低限どの程度のことをやっておけばいいか、という限界点が見極められるので「やるべきこと」も最小限にとどめることができるのです。

02.所要時間が正確に予測できるかどうか

余裕のある人は、やるべきことにかかる所要時間を正確に見積もることができるので、物事が段取り通り進み、いつも冷静沈着でいられます。

しかし忙しい人は、予測に反して大幅に時間がかかるケースも多々あるため、スケジュールよりも遅れ、慌ただしくせざるを得ない状況に陥ることも…。

03.万が一に備えて調整時間を設けているかどうか

余裕のある人と忙しい人の違いは、万が一スケジュール通りにいかなかったときのために、調整できる時間を設けているかどうか、というところ。

余裕のある人は、少々の遅れはカバーできる程度の時間的余裕を計算に入れています。一方で忙しい人は、つなぎの調整時間をとっていないことが多く、いつも何かに追われています。

04.一貫した考えや計画性があるかどうか

余裕のある人は、一貫した考えに基づいて計画的に行動するので、無駄がなくすべてがスムーズに運びます。

一方の忙しい人は、じっくりと考える余裕もないことから、その場しのぎの考えで行動することもあり、非効率的な動きをする結果となるケースがよく起こります。

05.「優先順位づけ」ができるかどうか

忙しい人は、すべてのことが同じように大切で、今すぐ急がなければならない、と考えがちで、どうしても焦ってしまいます。

一方で余裕のある人は、物事の優先順位をしっかりと決めることができるので、ゆったりとした気持ちで、そのとき最優先にすべきことだけに取り組むことができるのです。

06.「やるべきとき」にしっかりと集中できるかどうか

忙しい人は、自分でもよく分からないほどに焦る気持ちがあったり、周囲の目が必要以上に気になったりと、目の前のことに集中することが難しい精神状態に陥ることが多いようです。

一方で余裕のある人は、いい意味での割り切りができるので、自分がいまやるべきことに心置きなく集中できる傾向があります。

07.適度な休息やリフレッシュを計画しているかどうか

忙しい人は常に緊張感を保ち続けているので、気が休まる暇がありません。もともとの性分からか、休むことは怠けているような気がして、計画的に休憩をとることもできないため、結局非効率な結果になる場合があります。

一方、余裕のある人は、休憩によるリフレッシュ効果を十分に理解しているので、効率を上げるために休憩を上手に活用しています。

08.きちんと周囲への気配りができているかどうか

忙しい人は、自分のことをこなすだけで精一杯となる傾向があるので、周囲への気配りが難しいようです。

しかし余裕のある人は、自分の用事を済ませて、さらに時間的余裕があることから、周囲への目配りや気配りを自然にできるようになっています。したがって、必要なときに人々からの協力や厚意も得られやすく、円滑に事を進めることができるのです。

09.何でも自分ひとりで解決しようとしていないかどうか

余裕のある人は、自分自身がすべきことと、できる人にお願いすべきことをきちんと整理できているので、一定の時間内で最大の結果を残すことができます。

一方の忙しい人は、基本的にできることはすべて自分でやるべきだとの強い考えがあり、なんでも自分ひとりで抱え込んでしまうため、時間がいくらあっても足りない状況に陥る危険性があります。

10.実現困難なスケジュールを立てていないかどうか

忙しい人は常に全力疾走で駆け抜けるイメージでスケジュールを立てるので、予定を詰め込み過ぎて、いつも急いでいなければならない結果となります。

一方で余裕のある人は、緊急で対応が必要となった場合も念頭に入れて、ギリギリの予定を立てるようなことは控えています。したがって、普通に事を進めていけば、いつも早めに終われるようなスケジュール作りができているのです。

「忙しい人」と「余裕のある人」では、物事の考え方において大きな違いがあることがお分かりいただけたかと思います。あなたが目指す理想の自分像を想像しながら、必要な考えが見つかったらぜひ取り入れてみてください。

「忙しい人」と「余裕のある人」の10の違い|TABI LABO から